十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

第九を聴く

2022年12月31日 | 道楽

第9を聴いてみた。神は一神教の神だった。

まあ、畏まって歌っているのではない、一杯飲みながら歌っている、という受け止めが自分にはしっくりする。

今年も有り難うございました。
来年もよろしくお願いします。

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ベートーベンの第九は酒宴の曲だった

2022年12月30日 | 道楽

 今朝、NHKの番組「玉木宏 音楽サスペンス紀行 引き裂かれたベートーヴェン その真実」というのを視聴した。

 番組では我々が知る楽聖ベートーベンの人物像、それは、作り上げられた虚像だったことが明かされる。

 ベートーベンがどんな人物であったか、私にとってどうでもいいことだが、第九のシラー作詞の歓喜の歌が酒の神(バッカス)に捧げる歌だったというのには驚いた。
 一神教の神に捧げる歌だと思い込んでいたからだ。

 「すべての人は兄弟になる」なんて崇高な人類愛の歌かと思っていたが、酒を飲んで肩を組み歌を歌う意味だというのである。

 一神教は性に合わない私としてはすっとする解釈、それなら気持ちよく聴ける。

 明日の晦日は、Z世代向けの曲が増え、まして、韓国の歌手グループが大勢の紅白歌合戦なんて見る気もしない。第九を聴こう!!

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テレビのリモコン修理

2022年12月26日 | 生活

 我が家のテレビは、地デジ完全移行(2011年)に合わせて購入したもので、もう、11年使用している。

 2年ほど前、リモコンのボタンが効かなくなっていろんな機能がついていたが、基本的な機能さえ使えればと、汎用のリモコンを2000円もしなかったしすぐネットで購入した。

 そのリモコンが数日前、電源ボタンがおかしくなった。すぐに点かずに数回押し直してやっと点く状態。買い直すかとも考えたが、簡単に修理できないかと、ユーチューブで修理法を探ると、簡単にできそうなので自分で修理することにした。

 アルミテープが必要というので、百均で購入してきて早速修理にかかった。ドライバーでプラスチックの接合部をこじ開けようとするが隙間が密着していてドライバーが入らない。滑って手を突きそうになったので、即、中止。やはり、こじ開け用の道具がいると、ネットで購入、パーツ・オープナー274円也。

 作業開始

 1 接合部の引っ剥がしはやはり道具、ギザギザはできたがパカッと開いた。

 2 ボタン部分にアルミテープを貼り付け。元に戻してボタンを押すも反応なし、失敗。

 3 ユーチューブで確認すると、表裏を逆に張り付けていた。貼り付け直して再度トライ。スイッチ入らず、失敗。どうやらアルミのサイズが大きすぎたようだ。

 4 サイズを小さくしてやり直すも、スイッチ入らず。

 5 どこがおかしいとよくよく調べてみると、電池との渦巻き状の接触部のはまりが別の穴に入り込んでいたのでこれを直して、やっと、修理終了。3の時点でこの現象が起きていたのかもしれない。

 大した作業ではないが、上手くいかないと、我がことながらイラっとくる。

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言語通じざれば眷属にあらず

2022年12月20日 | 生活

 今日は朝からむしゃくしゃすることが多くて、ある人からの連絡で昼過ぎにやっと落ち着いた。

 しかし、すっきりしたわけでなく、夕食は外で食べて久しぶりに酒でも飲もうと近所の中華料理店へ出かけた。

 暑い時はビールを時々飲んでいたが、寒くなったので今日は日本酒にしようと出かけたのである。

 店に着いて、若い女店員が注文を取りに来た。料理一品、ご飯、清酒1瓶(燗したもの)を注文。そしたら、燗の意味が分からなかったみたいで、聞き直してきた。「燗したのを」というと、「分かりました」という。

 しばらくして、3品揃えて持ってきたので、食べかけて酒を杯に注ごうとすると温かくない。注文書をみると、日本酒(常温)と書かれている。

 近くにいた男性店員に指摘したら、早速温めてくれたが・・・。

 中国人の店員もいて、以前にも間違えられたことがある。

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切れない縁 宇宙力

2022年12月05日 | 佛教

 12月8日は成道会の日、釈尊が悟りを開かれた日とされている。
それに因み、禅門においては1日から8日まで臘八摂心という8日間連続の坐禅の修行が行われている。

 7日7晩、自己の内面を点検された結果、バラモン教のいう我の本体たる霊魂、いわゆるアートマンの存在を見つけることはできなかった。

 しかし、現に生きている自己の存在がある。それをいろんなものの寄せ集め、つまり縁起による化和合の存在と考えられたのである。

 つまり、縁の集合体だから、我という本体はない、それを無我にしてしまった。でも、これが問題。

 無我という言葉に囚われ、縁による集合体を認めない人がいる。それでいて輪廻を認めている。どういう思考からそうなるのか。不思議である。

 その問題の根本は、縁というものが切れると考えられていることである。縁を切る、縁を結ぶ、有縁、無縁という言葉のとおりである。寄せ集めだからバラバラになる。ないとも思えばないということにもなる。

 しかし、私の探究では縁は切れないということである。遠ざけたり近づけたりはできるが絶対に切れない。一つの存在にあらゆるものが関わっている、宇宙の一切のものが関わっているのである。私のいう宇宙力とは縁のことなのである。

 そのことは仏教でもちゃんと言っているのである。
 一即一切、一切即一
 重重無尽 法界縁起

 なぜそう言えるのか、これは近代科学のお陰である。電磁力と重力の影響範囲が無限大という物理の法則があるからである。この無限大の力が縁なのである。

 我々は縁で繋がった宇宙全体を生きているのだし、そうすると我々のちょっとした動きが宇宙全体を動かしているということにもなる。

 その宇宙生命を我が生命とするなら、それは死ぬことはないのである。この宇宙は釈尊の生きられた宇宙であり、釈尊の生命である。
 宇宙生命から新しい生命が生まれてくる。我々は釈尊の生命を継いで生まれてくるのである。

 私がいて、あらゆるものが存在する。あなたがいてあらゆるものが存在する。あらゆるのものが欠けることなく繋がり合って、宇宙を構成する。
 私がいなければ、宇宙は存在しない。あなたがいなければ、宇宙は存在し得ない。 

 
 「宇宙力で生きよう 死んでも死なないいのちを生きよう」

コメント (1)
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