道元禅師の著作『正法眼蔵』は95巻にも及ぶ大作であるが、中でも現成公案の巻は古来よりもっとも有名であり、且つ重要視されている。「現成公案」の巻には道元の基本的考え方がすべて網羅されていて、他の巻はそれを敷衍するものであるといわれている。道元禅を志すものには必ず目を通さなけならない一書とされている。
最近になって、安泰寺 ネルケ無方住職の「道元を逆輸入する」(サンガ 2400円+税)を読み始め、ざっと通読をしたところである。この書は2年前に出版され読みかけて積ん読状態になっていたのをリトライしたのである。この書は現成公案の巻を一旦英訳しそれを日本語に翻訳し直すことによって分かり易くなるのではないかという試みだった。この試みが成功したかどうかは不明だが、私にとってはいろいろと参考にしたいところが出てきたのは事実である。
さて、その現成公案だが、道元禅師の詩のような美文なるがゆえになかなかその解釈は難しく多くの学人が苦労の果て理屈を振り回していい加減なことを言っていて定説がない。今回私なりの解釈で読んでいきたいが、これもまた一説として加わるに過ぎないのであろう。
さて、現成公案という言葉からして、いろんな解釈があり、論者により好き勝手言っている観がある。
現成公案の公案とは普通は臨済禅において師家から修行者に出される宿題みたいなものだが、元来は「公府之案牘」(官府の調書)にたとえられた公の法則条文のことで、私情を容れず遵守すべき絶対性を意味するとされているもので、大事にしなければならないものとされている。
それを 「今、ここに成る自己生命」 と飛躍した解釈としたい。というのは少し前に自己生命図をアップしているが、それの現成としたいのである。
1段
①諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。
②萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。
③佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。
④しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
この①~④はいずれも認識論的記述である。しかるに多くの論書で①を諸法実相といい②を諸法無我、無自性、無常といった実体論を入れ込んで論旨が通じていないことが多い。実体論に時節などと時間的限定的要素がないはずである。
また、正法眼蔵95巻は現成公案に圧縮され、さらに現成公案は①~③に圧縮されているというのであるが、そこまでいうのはどうかと思う。
さて、いよいよ①に取り掛かると、
①諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。
諸法は諸々の事物のことでしかないが、問題としなければならない言葉は佛法である。佛法という言葉はよく使われる言葉であるがそれが当たり前になってしまって、「佛法とは佛の法じゃ」なんて坊さんは言い過ごしてしまっている。私が嘗て師事した内山興正老師がそれをよく批判しておられて佛法とは何か提唱の度によく繰り返されました。
で、佛法とは「自己生命の実物で、あらゆるものは自己が生命体験することによりある。自己はそれを生命体験することにより生きている」のが内山老師の定義です。
諸法の佛法という観点からすると、「迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり」と佛教言葉が羅列されているだけで、そんなものがあるというだけのことである。佛法の代わりに山を入れ込むとエベレストあり、富士山ありと山が並ぶという按配である。
ところが単なる佛教言葉の羅列にいちいち説明している文章があるのはおかしいのではないか。ここで修行とあるのは文脈としては修証でなければならないであろう。あえて修行と読んでそれでいろいろ理屈をこねている論もあるが修証で問題はないと思う。が、単なる単語の並びでしかないとするなら修行でもよいといえる。
②萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。
「萬法ともにわれにあらざる時節」のところでは、ポイントは「ともに」である。「ともに」を無視して読んでしまっているのがほとんどでこれをちゃんと読まなければ一文にならない。では私は「ともに」とは前文の「佛法なる時節」と考える。佛法という言葉がないと、後段の「まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし」は書きようがない。
そうなると、「萬法の佛法なる時節、われにあらざる時節」とつらなり、おかしな文となるから「萬法の佛法としてのわれにあらざる時節」とでも書かなければならないが、道元禅師はそんな説明文的な文章は好まれないから「ともに」という言葉で代用されたのだと思う。
だから、この文は認識論的にいえば、認識主体であるわれを否定すればつまり認識しなければあらゆるのも存在つまり認識客体はないということで、そのうち佛法に関するものとして例示すれば「まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし」ということになる。他に佛教言葉をいくら連ねてもいいわけでそれは全部ないというだけ話である。
佛教は素朴的実在論だという。つまり、認識されたものの存在は認めるが、認識されないものの存在は認めないということである。
たとえば、日本人なら誰だって富士山の存在を認める、しかし、見たことも聞いたことない外国人にとってはその存在を知らないから、富士山はないのである。人からあるじゃないかと説明されて説明された程度の内容でやっとそれがあることになるのである。
つまり、自己の世界は自己が認識したものでできているということを言っているのである。近頃は認知症がいろんな場面で取り上げられているが、そのあり方を知ればこのことがよく理解できると思う。
③佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。
前の二つは佛法だったがここでは佛道が出てきた。前の二つは認識されたもの、認識されないもの、一切合切をいうわけである。それでもって世界が形成されているという話である。豐儉の豐とは①のことであることを儉は②のないことをいう。
佛道とは①②の静的世界から飛び出すような今、ここで実践する行のことであるから、当然認識が働く、ゆえに「生滅あり、迷悟あり、生佛あり」ということになる。生佛とは衆生と佛のことで生きた佛ではない。生きた佛は活佛という言葉がある。
ここでのなまの認識は、瞬間ごとに①に送られ記憶されて自己の認識世界を形成することとなる。
以上①~③は佛にからめての認識論。佛という言葉にみんな引っかかってありゃこりゃ言っている。これぞ道元禅師の提示した公案なのかもしれない。④は一般化した中での認識論になる。
④しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
①から③までは、相反する二つのものを並列的に並べてただそれのある、なしが示されてきたが、この④では相反する認識が1点で同時参加し交差している。自己の中に虚なる認識と実なる認識の存在しそれが葛藤することを例示している。
2段
①自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。
②迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。
③さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
④諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
①自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。
自分の思惑でもって真実を処理しようとすることは迷いである。自分を空しくして真実に自己を合わせていくことが悟りである。
②迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。
迷いから悟りに至る者がいれば、悟りから迷いに落ちる者もいる。
③さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
さらに悟りを深める者がいる、迷い続ける者もいる。
④諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
佛というものは佛である時、自己が佛であることを覚知することはない。しかし、それが佛である証拠であり、佛であり続ける。
この迷→悟 悟→迷 悟→悟 迷→迷の4パターンが示されているが、そもそも人間の認識力では真実は捉えられないのであるから、認識を働かす限り迷いでしかないのだし、認識を止めたところが悟りである。
誰でも迷🔃悟を行き来しているのであって、釈尊でも道元禅師も迷は当然あるのである。
3段
①身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。
②一方を證するときは一方はくらし。
①全身の全神経集中して尽くして物を見極めようとし、音声を聞き漏らすまいとするのに、心を込めて受け入れんとしても、鏡にその物の影がそのまま映っているという具合にはならない、また水面に月が映っているごとくでもない。
全力で見る、聴くということはそのものに没入することであり、手段となるものはつまり鏡や水は忘れられてしまわなければならない。
②一方を取り上げれば、その時一方は忘れ去られるのである。影を見るときは鏡が隠れ、鏡を見るときは影は隠れてしまうのである。
続きは日を改めて、このページに追記します。