十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

コロナ感染者1億人突破

2021年01月28日 | 世相

27日に世界のコロナ感染者が1億人を突破した。

今日のデータでは

世界の感染者 1億70万人  死亡者 217万人

日本の感染者 38万人    死亡者 5387人

ピークからは下降傾向にあるので、さらに改善されて行くのを注目していきたい。

最近得た情報では、歯磨き時には大声を出すのと同じだけのエアロゾルが吐き出されるとのことである。特に前歯の内側を磨く時に多く出るようである。

歯磨きする時は口を閉じて磨く。あるいは片手で口を覆うように磨くべき。口を漱いだ時の水もできるだけ洗面台に近づけて吐くようにする。ということである。

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80歳になって一句

2021年01月26日 | 俳句

「年明けて 仏寿を得たり 不倒翁」

 私は満78歳、気がつけば数えで80歳。お釈迦さんの亡くなれた歳になっていた。

 不倒翁とは「起き上がり小法師 (こぼし) 」のこと、七転び八起きどころか、何回転んだか数知れず、今日まで生きてきた私である。

 身体が丈夫でないため、若い時から後5年持つかなんて思い、また、お釈迦さんの歳まで生きられたらとも思っていたので、言うことなし。

 身体も弱いし、気も弱い、病気怪我も歳の数ほどあったが、仏教を学んだお陰だろうか、いろんなストレスにも耐えて今日まで来られたのではないかと思うと有り難い。

 後はスポンと死ねたら言うことなし。コロナのお陰で早々にそうなるかも知れぬ。

「南無釈迦牟尼仏」

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仏道とは仏としての道である

2021年01月23日 | 一法言

 「仏道とは仏としての道であり、仏に成るための道ではない」
大概は仏道とは仏に成るための道だと心得ている。凡夫が仏に成る、大変な道と考えてしまっている。

 「衆生本来仏なり」(白隠禅師坐禅和讃)

 これは誰でも彼でも宇宙一杯の力、宇宙力で生きているということである。人間もコロナウイルスも同じ一つの宇宙力で生きている。

 そのことを知った人を目覚めた人(ブッダ)というのである。仏道を歩む人である。仏の行をなす人のことである。

 仏の境界は100点満点、我々は50点、と普通は考える。

 しかし、元々50点なのか、100点の人間がたまたま今50点を生きているのか。大きな差がある。50点の人間が100点取ろうとするのはたいへんで不可能とさえ思える。いや、皆そう思っているのである。

 一方、100点者は今50点でも100点に戻るのは簡単である。仏道に戻るだけである。

 元々、宇宙力で生きているのだから宇宙力で生きればいいだけである。

 坐禅なら只管打坐するだけである。

 今流行りかけのテーラワーダの瞑想は、悟りを得るための手段としてある。手段に過ぎないから、サマタとヴィパッサナーと行法が二つに分かれているのである。

 宇宙力を生きると、自由、安らぎ、生き甲斐という宗教の目的が達成される。

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いのちの坐禅(宇宙禅)の勧め

2021年01月21日 | 佛教

「心の坐禅か 命の坐禅か」というタイトルで道元禅の勧めを記事にしたが、今回はいのちの坐禅を勧めたい。

道元禅を沢木興道老師は「自分が自分を自分する」と言われたし、内山興正老師はそれを「命が命を命する」と言われている。

私はそれを「宇宙が宇宙を宇宙する」と言い直したい。

どこが違うか、只管打坐の坐禅は変わらない、ただ、坐る場所を宇宙の中心に持ってくるだけである。

百丈慧海和尚に「独坐大雄峰」という言葉ある。

僧が百丈懐海和尚にむかって、「如何なるか是れ奇特の事」(この世の中で、最も素晴らしいことは何ですか)と尋ねた。すると百丈は「独坐大雄峰」(この百丈山にこうしてどっかりと坐っていること)と答えた。

それに倣って、私は「独坐宇宙の中心」。それはどこかと言えば、尽十方に宇宙の展開がある、今、ここである。

宇宙の宇は空間、宙は時間のことである。宇宙とは時空のこと。時空の座標で言えば、(0,0,0,0)。

座蒲に坐る時に(0,0,0,0)に坐ると、決めるだけである。宇宙は勝手に回転する。

それが宇宙禅である。

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心の坐禅か 命の坐禅か(3)に追記

2021年01月19日 | 佛教

 そうすると山下氏の主張して止まない念(念)、瞑想(想)、観自在(観)は否定されてしまうのである。

(追記)

 念は覚え、想は想像、観は観察、それぞれは過去、未来、現在に対応していると読むべきでそうすればすっきりする。

(ラストに追記)

心は寝れば消える、命は死ねばお終い、いのちは不死、永遠である。
いのちから命が生まれ、命から心も生じるのである。

心をいじくっても命の問題は解決しない。

「生命力は宇宙力 宇宙力が生命力」である。
坐禅するしないに拘わらず知っておいてほしい。


コロナ感染者が9545万人(世界) 33.6万人(日本)

死者数     204万人(世界) 4366人(日本)

死者数が200万人を超え、感染者数も早晩1億人に達するような事態になってきている。

日本では入院できずに自宅待機の人が増えている。家族間の感染が増えるのが心配である。

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心の坐禅か 命の坐禅か(3)

2021年01月18日 | 佛教

 前に「瞑想は迷想」というタイトルで2回記事を書いたが、今回タイトルを変えて続きを書くこととする。(3)は初めから3回目の意味である。

 ここでいう心の坐禅とはマインドフルネスのことであり、命の坐禅とは只管打坐の坐禅のことである。

 理解しやすいように、図示して説明したい。


 上の図は生命の構造を簡略的に示している。
「命」は我々の個体的生命のことである。「いのち」とあるのは、「命」の根元となる生命のことである。宇宙生命のことである。

 さて、この「命」は「心」持っている。
「心」どうなっているかというと次の図のとおりである。この図は以前に紹介したものでありそのまま使用した。

 五感は五官で捉えた外部の情報を頭の中で情報処理し頭の中のスクリーンに映し出したもので、そのままが外部の状態を映したものでない。その映像は視力、聴力等に依存するところ大であるし、実物からの情報は時間的ずれが生じていて、認知する映像は全て過去のものである。

 たとえば、太陽の光は地球に到達するまで500秒かかる、見える太陽の姿は今とは違うし、位置も変わってしまっている。

 部屋の中にいるとして壁の向こうは記憶されたもの、知らなければ想像したものことになる。正確な情報のないものは空想である。

 心の世界は過去現在に集めた情報によりいろんなイメージによって仮想空間として出来上がっているのである。

 そして、畏怖すべきは次の図のように、その「心」の中に「命」が取り込まれてしまうことなのである。いのちの地盤から離れ浮足立って宙に浮いてしまう。浮世の住人になってしまうのである。

 「心」によって「命」が支配されているのである。「命」が主君で、「心」が家来の関係なのに、家来に主君が使われる関係になってしまっているのである。

 心は意馬心猿と例えられるように、図のような心の世界を転々と動き回っている。
 また、「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな」という一休禅師の言葉もある。

 そんな心を落ち着かせ、雑念を払うのがマインドフルネスというものだろう。それは心で心を制御する坐禅である。それも一つの坐禅であるが、それは仏教以外の外道禅である。

 山下良道氏は、マイインドフルネスを表すキーワードとして、次のものを挙げている。

 瞑想、念、気づき、観自在、非思量、である。その解釈は彼独自の解釈で
道元禅とブレンドさせようとして捻じ曲げも甚だしい。


 しかし、道元禅師の命の坐禅はそれと完全に一線を画す。

 道元禅師の普勧坐禅儀には、「心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。」とある。
 平たく言えば、頭を空っぽにしろということである。

 それによって、心に捉えられた宙に浮いた命ともども「いのちの大地」まで落っこちる、それが身心脱落である。それを受け止めてくれる大地に坐りこむのである。
これが只管打坐の坐禅である。

 この文章は明確に念想観を否定しているのが知れる。念想観とはそういう観があるように思って曖昧に済ませてしまっていることが多いようだが、これは念、想、観と切って理解しなければならない。

 そうすると山下氏の主張して止まない念(念)、瞑想(想)、観自在(観)は否定されてしまうのである。

 念は覚え、想は想像、観は観察、それぞれは過去、未来、現在に対応していると読むべきでそうすればすっきりする。

 この念について、正法眼蔵八大人覚の5番目に「不忘念」というのが道元禅師もそれが大事だと言っている。氏は坐禅中も念を忘れるなという持論を展開しているが、勘違いも甚だしい。

 これは正念を忘れるなと言っているだけであり、日常において忘れてはならないことは一杯ある。願、戒、法等一杯、あって、忘れてはならないもののことである。

 また、同じ普勧坐禅儀に「不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底、如何(いかん)が思量せん。非思量(ひしりょう)。」あるが、氏はこの非思量がマインドフルネスだと言っている。つまり、thinkingを止めろという解釈である。

 只管打坐の坐禅は不思量の状態を狙いとするものである。ところが坐禅中にいろんな思いが湧いてくる。それを思量とするなら不思量の坐禅が中断されてしまう。思いの湧出が多くなれば坐禅が成り立たなくなる。

 しかし、不思量中の思いは短時間のうちに自然に消えてしまうもの、だから、それを思量と看做さないということ、それが非思量なのである。それによって、一炷の坐禅となるのである。

 内山老師の兄弟子に当たる横山祖道老師はこれを「非思の量」と言っている。非思が次々現れても不思量底はキープされるということである。

また、石頭希遷禅師は、「長空 白雲の飛ぶを礙へず」と言っている。
長空が不思量の世界、白雲が非思量である。白雲に首を突っ込めばそれが思量である。この言葉は坐禅の極意である。

 道元禅は、只管打坐の坐禅、命の坐禅であり、修証一如、畢竟帰処(終着点)、無所得、無分別智の実修である。

 それは、沢木興道老師のいう「何にもならぬ坐禅」であり、内山老師のいう「物足りぬままただ坐る、帰命の坐禅」である。

内山老師揮毫の安泰寺本堂の扁額

 山下氏はそれが物足りなかったのだろう。物足りようを求めてマインドフルネスに辿り着いた。それも一つの坐禅のあり方であり、その有用性についてはそれを認めざるを得ない。
 しかし、有用性とは有所得ということである。無所得の道元禅とは絶対にブレンドできないことを知るべきだ。

 無理やり、ブレンドしてアップデートして、「俺は道元より上だ」と言っているようで片腹痛い。(氏には「アップデートする仏教」という著書がある)

 最上のものに付け加えるものは何もない。余計なものを付け加えるのは蛇足であり、レベルダウンとなる。

 このような体たらくで氏は曹洞宗の僧侶と言えるのかどうか?
 お仲間もおられるようだし、くっついていく輩も出てくるだろうから曹洞宗の行く末も心配になってくる。

 テーラワーダの比丘ということだから、そっちに専心されるがいいのではと思いすらする。

 心は寝れば消える、命は死ねばお終い、いのちは不死、永遠である。

 いのちから命が生まれ、命から心も生じるのである。

 心をいじくっても命の問題は解決しない。

 「生命力は宇宙力 宇宙力が生命力」である。坐禅するしないに拘わらず知っておいてほしい。

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寒風に一句

2021年01月14日 | 俳句

今日のプレバトの俳句の兼題は輪ゴムだった。

今日自転車のタイヤが重くなってきているので、通り道の自転車屋で空気を入れて貰った。それで一句。

「寒風や 漕ぎしタイヤに 空気入れ」

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コロナウイルス感染者が世界で9000万人突破

2021年01月11日 | 世相

コロナウイルス感染者が世界で9000万人突破した。死者は193万人。

日本では最近、感染者が7000人を超える日が続き、首都圏の非常事態宣言が発表された。

近畿圏もそれに続くようだ。

前の非常事態宣言時に『』「自分一人くらい」と「自分一人だけでも」』という文章を書いた。もう一度、読んでいただけたらと思う。

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/b517553f8e30481fdb38d69c193fa70c

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瞑想は迷想(道元禅の立場から)2

2021年01月02日 | 佛教

道元禅師の著書に以下のような言葉がある。坐禅にもいろいろあるということである。

『龍樹祖師いわく。坐禅はすなわち諸佛の法なり。しかも外道も亦坐禅あり。
しかりといえども外道は着味の過あり。邪見の刺あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず。二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず (永平広録 巻七)』

それについて、内山興正老師が解説されていて、以下は「自分と自己」という文章の一部引用である。

【つまり外道の人もーーたとえばインドのヨガの人なども坐禅するし、日本の生長の家の人でも、神想観といって坐禅みたいなことをやるわけです。「然りといえども、外道は着味(じゃくみ)の過あり、邪見の刺あり」と出ていますが、何か色合いがついている。味付けがしてあり、坐禅すると健康にいいとか、頭がよくなる、とかいう。インドの人たちは、坐禅して昇天の福を得ようとか、来世は天人に生まれ変わろうというのが殆どで「ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」といいます。

 それから又「二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」とあります。いま南方佛教の人たちは、坐禅してだんだん煩悩を細めていって、最後にはそれを全く無にするという。これはいわゆるの「自調の心」であり、最後には煩悩を断滅してニルバーナをえようというので、そういうつもりになっています。

 ところが「諸佛菩薩の坐禅」というのは、これに反して「坐禅はまっすぐにただ坐禅する」という一事に尽きます。坐禅するーーただそれだけで、何の「つもり」ももたない。これが本当の坐禅であり、これを「祇管打坐(しかんたざ)」といいます。

 ところがみんなそうじゃないでしょう。皆さんたち、どういうつもりで坐禅しているか知らないが、折角、坐禅するのだから、ちょっとはよくならなければ損だと思う。--これは人間のアタマの計算であって、つまり人間社会分の一の小さな人間の打算勘定です。今はそういう会社なんかも沢山あるじゃないですか。
このごろ坐禅による研修とか練成とかいうのが流行っていて、社員に坐禅させる。社員に坐禅させるなんて、いかにも時間の無駄なようだが、しかしそのあとで能率が上がるから、けっして損にはならないといいます。これはなるで鶏に卵を産ませるために、いい餌を食わせても損にはならないというのと、どこが違う。人間の計算はいつでもそういう打算をする。--これはほんとうの生命の実物としての坐禅になりません。

 いま道元禅師の坐禅は、どこまでも坐禅するという生命の実物をただすることです。坐禅するという現ナマの生命体験をいまここでやることです。われわれ坐禅中、頭に何も浮かばないのではありません。しかしもしこの場合、坐禅中に浮かんだ思いのどれかに首をつっこみ、その一事を追っているなら、これはもう小さな自分の考え事でしかなくなってしまっています。そうでなし。いまわれわれのする坐禅は、ただこの生命体験を生命体験のまま一切手放し。そうすると一切人間社会というのも自己の風景。またいろいろな思いが浮かんできても、一切手放しで、浮かぶは浮かぶにまかせ、消えるは消えるにまかせている。このときすべては自己の生命の風景でしかなくなっています。一切手放しで、自己の生命の風景を生命の風景として観ているーーそういうのを黙照禅という。黙ってただ照らしている坐禅だからです。】

そういう坐禅はいくらやっても何にもならない。
宇宙と一体であり完全であり完結している。もう足し前が要らないのである。
でも、そんな坐禅に物足りなさを感じるのは仕方がないところもあるが物足りぬままそれでも坐っている大事。

それを沢木興道老師は「坐禅しても何にもならぬ。その何にもならぬということが分からないと本当に何にもならぬ」と言われているが、山下氏は
その教えが耳に届かなかったということなのだろう。

さて、マインドフルネスは宗教色を持たないということだから、外道禅である。
南方仏教は二乗禅、山下氏はその二つをブレンドしてしまった。
それに仏、菩薩の禅をチャンポンしようというのだから、とんでもない話である。(外道、二乗は差別だという今日的な人権感覚で思われる人もいるだろうが、当時の言葉であるからそのまま使わせて貰った、容赦頂こう)

大乗禅は命の坐禅、無所得の坐禅である。思いの効用を説く有所得の坐禅と一緒にできるはずもない。

瞑想なんてものは寝たら消えてしまうものだ。命は寝ていてもちゃんと働いている。

安泰寺の本堂に「帰命」という言葉の扁額が掲げられている。内山老師の揮毫によるものである。毎日、何を見ていたのだと言いたい。

(続く)

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謹賀新年

2021年01月01日 | 一法言

「追記」

先に発表した文を若干書き換えました。
画像の文字が見にくいかも知れません。上から宇宙、認識世界、五感世界です。

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