以前、自己世界図をアップしたが、今回のもっと分かり易い形に作り直しました。
四角い部分が部分が真実世界、丸で囲った部分が事実世界です。四角の上に丸が載っていると見てください。
真実世界は自己の周りに展開する真実の世界で無限の広がりを持っています。日月星辰森羅万象、何もかもその中に包摂されて全てが網羅されています。当然我々もその中でその一欠片として存在しているわけです。
一欠片ということではその辺に転がっている石ころも同じです。ただ、石ころは宇宙の法則で状況により転がっているだけですが、人間は物事に対する認識を持ち独自の意志で行動できる能力を有しています。生命力を持っているのです。どうしてそのような能力が得られたのかはここでは問わないことにしましょう。
人間は真実世界の中で真実を体験しつつ真実を生きています。しかし、この真実を体験するというのが結構厄介なのです。何でもって把握するのかというと五感です。五官(眼耳鼻舌身)というセンサーを用い視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という感覚を得て周囲の状況を把握しているのです。
でも、この五感で捉えたものは狭い範囲に限定され、曖昧で、歪んでいるのです。
分り易い例として家の中にいて落雷に出会った時のことを考えてみましょう。真実の出来事として「落雷」が近所でありました。そこから「光」「音」が発生します。まず、光が眼に届きます。網膜に映し電気信号に変えられ視覚野で<光>と認識されるのです。「光」から<光>は時間もかかっていますし、<光>は光そのものではなくて頭の中で作られてイメージになってしまっています。そこで私は「光」を真実、<光>を事実と言いたいのです。
ここで<光>だけ認識されても<光>だけの話です。「音」も同時に発生したのですが、光速より音速の方が遅いのですから当然「音」が耳に届くのは遅れます。鼓膜を震わし同じように聴覚野で<音>が作られます。この<光>と<音>を合わせ、過去の記憶と照合し<雷>と認識されるのです。
つまりは、どんなものでも認識された事実、それがイメージとして描き出されるのです。これは真実とは程遠いものです。私の眼は以前書いたように近乱老乾白緑です。これでは碌な見え方をしていない。マサイの戦士の5.0の視力とは大違いです。
しかし、マサイの戦士の目をもってしてもよく見えていない。虫眼鏡をかざせば見えてくるものがある、それだけの情報がそのものから発せられているのに解像度が足りないのです。
それにそもそも大方の物そのものではなく反射光を見ているに過ぎないし、発せられるその光の極々一部しか眼に入ってこないのです。光を発しているようなものは大概眩しくてそれもまた全容を把握することはできません。
そんな五感で捉えたイメージを頭の中に次々と映し出しているのです。それを順次ビデオを撮るように頭の中に記憶していっているのです。そんな記憶の断片を年表のように地図のように頭の思考空間に並べているのです。インデックスは言葉です。
太陽といえばいろんな体験によるイメージが記憶されていますが、それを抽象化し一つの太陽として認識しているのですが、富士山でのご来光という個別の記憶された太陽も呼び出せるということです。
そうです。今現に体験している世界、それ以外の頭の中に記憶された体験世界、他者からの情報に基づきイメージする世界、荒唐無稽なイメージだけの世界、そういったもので彩られているのが頭により認識されイメージ化された世界なのです。これを私は真実ならざる事実で出来た世界、事実世界と呼ぶのです。
つまり、船や飛行機が霧の中でレーダーを頼りに航行するようなものなのです。闇夜に懐中電灯を頼りに夜道を歩くようなものです。向こうに何があるか記憶された情報が頼りなのです。
命あるものはそれぞれ独自の体験の事実を持ちそれを頭のスクリーンに投影して世界を描き出しその中でそれを頼りに生きているのです。そうとしかできないのです。
ところが誰も真実を認識として捉えたことがないので、事実を真実と誤認してしまっているのです。知りもしないのに知ったかぶり、それを素に動きまわるのだからモメも事故を起こってくるわけです。
内山興正老師の言葉に「思いは幻影 行為は現実 結果は化けて出る」というのがあります。
「思いは幻影」つまり事実を真実と見誤ることです。「行為は現実」行為するということは真実を動かすということです。「結果は化けて出る」予想外の事実展開があるということです。
老師の話で思い出されるのはこの話。丁度寒い時ですからついでに披露しておきますと、
寒い日に夜道を歩いていたら、何かに引っかかって転倒した。何だとよくみると財布だった。財布が道に凍りついている。たんまり入っていそうな財布だがなかなか取れない。そこでグッドアイデアが浮かんだ。腹の下の方に温たいものが溜まっている。それを放出し氷を溶かし財布を取り出したところで目が覚めた。財布は夢で小便は現実、ふとんは洗って干さなければならない。
私の今回の話では、財布は実物はなく夢の事実、小便する行為は真実、布団干しは行為で真実、それら引っ括めで体験事実ということになります。
つまり、真実中に真実を生きているのだけれど、皆、いい加減不十分な形で頭の中に取り込まれイメージ化されてそれを真実と思い込んでしまっているということです。内のスクリーンに映されたものを外の世界のように思い込んでいるのです。
認識された世界は自己の内の世界なのだと認識すべきなのです。それは自己が作り上げた世界です。良い悪いは別にして世界を創造しているのです。天地創造を私が、あなたが現に刻々行っているのです。その世界の中で生きるのですからどんな世界を創造するか、人生の一大事です。