十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

「頭山」  イスラム国人質事件2

2015年01月30日 | 世相

昨日同じタイトルで記事を書きかけたが、事実関係を間違ってとらえていたので削除しました。ご覧になってしまったお方には申し訳なくお詫びします。

さて、人質の一人が殺されてしまったが、これって落語の「頭山」じゃないか。

「頭山」は頭の上に桜の木が生えるという突飛もないできごとでとうとう自分の頭にできた池に飛び込んで自殺する話だが、人質の2人も頭の中にイメージを膨らませその中で動き回った挙句死ぬような目に遭う。

頭に振り回されて最悪の事態に至る物語だ。殺されたのかも知れないが自殺に等しい行為だ。

日本中、世界中がさくらんぼならぬ訳の分からないイスラム国というものを頭の中に植え付けてやっさもっさやっている真っ最中、誰彼もが頭山状態になってしまっている。迷惑な話である。

落語あらすじ辞典 あたま山

http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/10/post_12.html

 

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「急告」 禅僧 村上光照老師のテレビ出演(再放送)

2015年01月29日 | 佛教

昨年1月に放映された村上光照老師の「こころの時代」(佛の世界を生きる・NHK・Eテレ)がアンコール放映されることになりました。

すでに25日の朝の時間に1回目は放映されて終っていますが、2回目が再放送という形で31日(土)13時~14時にあります。

前回見ておられない方はもちろん、前回見られた方も一年経っていますので違った印象でご覧になれると思います。ご視聴をお勧めします。

前回の案内記事
http://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/62b4d2dcd760fed5b9f914fd51da6114

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イスラム国人質事件

2015年01月24日 | 共生

イスラム国人質事件で日本中が気を揉んでやきもきしている。

宗教がらみの事件なので知らん顔でやり過ごすのもどうかと思いコメントしてみる。

人質の立場で考えてみる。もう終った、死ぬしかないと考えるべきだろう。何とか助かりたいなんていうのは甘い考えだ。
もしものことがあれば、どれだけ迷惑を懸けるか考えたのだろうか。
助けられてもどの面下げて日本に帰れるというのか、もう、全ては終ってしまったのである。昔なら切腹だ。
命をいうのは単にボデイーだけのことをいうのではない、人としては使命こそが命なのだ。それを誤って使いマイナスにしてしまっては取り返しがつかないのだ。

さて、我々の立場で考えてもどうしようもない。相手のいうように身代金を渡したら、それが資金源となり味をしめて新たな事件の要因となることは目に見えている。人の命は地球より重いなんていってダッカ事件では超法規措置で連合赤軍を釈放、活動資金まで提供したが、結果テルアビブ空港乱射事件を起こすに至っている。
でも、ダッカの時は人質が一般の乗客でまだ何とかしたいいう気持ちは誰にでもあったが、今回は勝手に危険を承知で出かけた奴、覚悟できてるんだろと言いたい。

もう今の2人の命か、誰とも知れないこれから先の10人の命か、見捨てるしかない。見捨てることが日本人の命を守るのである。向こうにしてみたら日本人は金にならないことを知るからである。

冷酷なようなだがそう考える。おい、あんた、佛教徒かといわれそうだが・・・。

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自己世界図(改)

2015年01月17日 | 生命

以前、自己世界図をアップしたが、今回のもっと分かり易い形に作り直しました。

四角い部分が部分が真実世界、丸で囲った部分が事実世界です。四角の上に丸が載っていると見てください。
真実世界は自己の周りに展開する真実の世界で無限の広がりを持っています。日月星辰森羅万象、何もかもその中に包摂されて全てが網羅されています。当然我々もその中でその一欠片として存在しているわけです。
一欠片ということではその辺に転がっている石ころも同じです。ただ、石ころは宇宙の法則で状況により転がっているだけですが、人間は物事に対する認識を持ち独自の意志で行動できる能力を有しています。生命力を持っているのです。どうしてそのような能力が得られたのかはここでは問わないことにしましょう。

人間は真実世界の中で真実を体験しつつ真実を生きています。しかし、この真実を体験するというのが結構厄介なのです。何でもって把握するのかというと五感です。五官(眼耳鼻舌身)というセンサーを用い視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という感覚を得て周囲の状況を把握しているのです。
でも、この五感で捉えたものは狭い範囲に限定され、曖昧で、歪んでいるのです。
分り易い例として家の中にいて落雷に出会った時のことを考えてみましょう。真実の出来事として「落雷」が近所でありました。そこから「光」「音」が発生します。まず、光が眼に届きます。網膜に映し電気信号に変えられ視覚野で<光>と認識されるのです。「光」から<光>は時間もかかっていますし、<光>は光そのものではなくて頭の中で作られてイメージになってしまっています。そこで私は「光」を真実、<光>を事実と言いたいのです。
ここで<光>だけ認識されても<光>だけの話です。「音」も同時に発生したのですが、光速より音速の方が遅いのですから当然「音」が耳に届くのは遅れます。鼓膜を震わし同じように聴覚野で<音>が作られます。この<光>と<音>を合わせ、過去の記憶と照合し<雷>と認識されるのです。

つまりは、どんなものでも認識された事実、それがイメージとして描き出されるのです。これは真実とは程遠いものです。私の眼は以前書いたように近乱老乾白緑です。これでは碌な見え方をしていない。マサイの戦士の5.0の視力とは大違いです。
しかし、マサイの戦士の目をもってしてもよく見えていない。虫眼鏡をかざせば見えてくるものがある、それだけの情報がそのものから発せられているのに解像度が足りないのです。

それにそもそも大方の物そのものではなく反射光を見ているに過ぎないし、発せられるその光の極々一部しか眼に入ってこないのです。光を発しているようなものは大概眩しくてそれもまた全容を把握することはできません。

そんな五感で捉えたイメージを頭の中に次々と映し出しているのです。それを順次ビデオを撮るように頭の中に記憶していっているのです。そんな記憶の断片を年表のように地図のように頭の思考空間に並べているのです。インデックスは言葉です。

太陽といえばいろんな体験によるイメージが記憶されていますが、それを抽象化し一つの太陽として認識しているのですが、富士山でのご来光という個別の記憶された太陽も呼び出せるということです。

そうです。今現に体験している世界、それ以外の頭の中に記憶された体験世界、他者からの情報に基づきイメージする世界、荒唐無稽なイメージだけの世界、そういったもので彩られているのが頭により認識されイメージ化された世界なのです。これを私は真実ならざる事実で出来た世界、事実世界と呼ぶのです。

つまり、船や飛行機が霧の中でレーダーを頼りに航行するようなものなのです。闇夜に懐中電灯を頼りに夜道を歩くようなものです。向こうに何があるか記憶された情報が頼りなのです。

命あるものはそれぞれ独自の体験の事実を持ちそれを頭のスクリーンに投影して世界を描き出しその中でそれを頼りに生きているのです。そうとしかできないのです。

ところが誰も真実を認識として捉えたことがないので、事実を真実と誤認してしまっているのです。知りもしないのに知ったかぶり、それを素に動きまわるのだからモメも事故を起こってくるわけです。

内山興正老師の言葉に「思いは幻影 行為は現実 結果は化けて出る」というのがあります。

「思いは幻影」つまり事実を真実と見誤ることです。「行為は現実」行為するということは真実を動かすということです。「結果は化けて出る」予想外の事実展開があるということです。

老師の話で思い出されるのはこの話。丁度寒い時ですからついでに披露しておきますと、
寒い日に夜道を歩いていたら、何かに引っかかって転倒した。何だとよくみると財布だった。財布が道に凍りついている。たんまり入っていそうな財布だがなかなか取れない。そこでグッドアイデアが浮かんだ。腹の下の方に温たいものが溜まっている。それを放出し氷を溶かし財布を取り出したところで目が覚めた。財布は夢で小便は現実、ふとんは洗って干さなければならない。
私の今回の話では、財布は実物はなく夢の事実、小便する行為は真実、布団干しは行為で真実、それら引っ括めで体験事実ということになります。

つまり、真実中に真実を生きているのだけれど、皆、いい加減不十分な形で頭の中に取り込まれイメージ化されてそれを真実と思い込んでしまっているということです。内のスクリーンに映されたものを外の世界のように思い込んでいるのです。

認識された世界は自己の内の世界なのだと認識すべきなのです。それは自己が作り上げた世界です。良い悪いは別にして世界を創造しているのです。天地創造を私が、あなたが現に刻々行っているのです。その世界の中で生きるのですからどんな世界を創造するか、人生の一大事です。 

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見よ 東海の空明けて~

2015年01月04日 | 人生

今日、1月4日は親父の誕生日だった。親父は大正3年生まれ、15年前に亡くなったが、生きておれば101歳。親父とは考えが合わずに口を利くこともあまりなかったが、今日は朝起きるなり親父のことが思い出された。

親父は元神官だったが8年終戦まで軍人だった。家に20枚ほど入るレコードケースが2箱、軍歌、東海林太郎、広沢虎造のレコードが多くあった。

親父は東海林太郎のファンで、鼻歌を歌う時は決まって「国境の町」。
しかし、親父がレコードを聴いているところに出会ったことがない。小さかったから覚えていないのかもしれない。終戦後娯楽の少ない時代だから、ビクターの蓄音機で親父のレコードをよく聴いた。

好きなのはやはり子どもで軽快なものが好きだった。愛国行進曲と日の丸行進曲、ジャケットも他のと違って彩りも意匠もよかった。

この二つの曲は歌詞もちゃんと今もって覚えている。久しぶりに聴きたくなったのでユーチューブで探してみると東海林太郎が歌っているのが出てきた。

https://www.youtube.com/watch?v=nrQR-8UScTA

いいねえ。日本人生まれてよかったなあと心底思えるね。

しかし、ちょっと残念なのは、韓国が日本海を東海だと言い出し、国際的にもそれを認めさせようとしていることである。朝鮮からは東からかも知れないが、今更それはない。日本からすれば北海になる。

東海の使い方は東の海ということでもっと広い概念である。何でもかんでも後から出て来てパクったものを自分らが起源という韓国人のメンタリティーに驚かされる。

支那、ロシア、韓国、北朝鮮、信義なくろくでもない国に囲まれている我が国にあっては今こそ凛とした精神を持つ必要があると思う。

最後に私は右翼ではない。もちろん左翼であるはずもない。佛教を信奉するものは中道である。宇宙のど真ん中に立っているのである。

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謹賀新年

2015年01月01日 | 共生

明けましておめでとうございます。

大荒れの天気で新年が明けました。朝から風が強く冷たくて、しかし、そのせいか空気が澄んで太陽が輝やきが素晴らしかった。思わず手を合わせ、しばらく間世界の平穏を祈った。

日の丸の旗を出したら、強い風で旗が真横に全開、これも素晴らしい、これには日本の弥栄を祈った。

午後には近所の神社に出かけて家族の1年の無事を祈って吾輩の正月行事は終了。

3時頃には雪が降り出し、屋根や木の上に数センチの積雪、生まれてからこの方、元旦に雪が積もったのは初めて。

今年の世界はどうなるのか、いろんな面で大荒れの場面が多くなるのではと心配もあるが、それもまた人生、それはそれで内山老師の言葉の「出逢うところわが生命」と受け入れるしか仕方がない。

今年もどうぞよろしくお願いします。
皆様も自己世界に素晴らしい創造がありますようご活躍をお祈りします。

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