十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

真実と事実(4)

2023年12月06日 | 一法言

 真実と事実には、タイムラグがある。真実が先で、事実が後である。前回は太陽の例を挙げたが、もう一つ分かり易い例を挙げてみよう。

 落雷があったとする。初めに光が走って次に音が聞こえる。光と音の伝わるスピード、つまり、情報の伝わり方が違うのである。それぞれが事実と受け止めることになる。真実は一つ、事実は2つあることになる。

 つまり、事実は全て過去なのである。

 確かに見たといっても、どうせ過去に自分の目で見たものに過ぎず、自分の視力でどんな光の下でどこから見るか、限定された認識にすぎない。
 私の眼なんか、近眼、乱視、老眼、白内障、ドライアイ。錯誤、歪み等まともに見えていない。

 全ては幻影。ところが皆、この幻影に結構自信を持っているのである。

 自信があってこそそれを元に生きているのである。事実なくして生きられない。そこがやるせない。

 これに関して内山老師の言葉を紹介しよう。

 「思いは幻影、行為は現実、結果は化けて出る」

 思いは幻影(事実)、行為は現実(真実)、結果(真実)は化けて出る(事実)

 これを仏教用語では、惑業苦という。 

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真実と事実(3)

2023年12月02日 | 一法言

 真実と事実について、もう少し分りやすく説明したいために今回次のように図示することにした。
  六根、六境、六識は仏教用語。
  六根は感覚器官。眼耳鼻舌身意。
       六境は六根によって捕らえられた映像等。色声香味触法。法境は意根により知覚される概念を含むすべての存在。
       六識は認識作用。

 例えば、具体的に上図の実物を太陽としてみると、太陽から光が情報として眼に飛び込んでくる。それを情報処理して頭の中に映像を作る、これが色境。その作られたイメージに対して、太陽であると判断したり、言葉を当てたり、過去の記憶と照合したり、記憶したりするのが認識。

 その認識されたものが事実。頭の中の存在するイメージ、太陽のイメージは過去に記憶されたものを思い出しても太陽と存在する。頭の中のイメージは無数に存在する。それを「太陽」という言葉で抽象化して一つのものとしてしている。

 とにかく、真実は絶対に認知できない。認知したと思うものも情報を得たに過ぎないのである。それは真実でない以上頭の事実というしかないというのが私の主張である。

 誰もが真実でない幻影的事実に自信を持ち過ぎである。

 次の図は、内山興正老師が「進みと安らい」という本で図示された自己生命図である。私もこのブロクで何回となく紹介したことがある。また、これに私の考えで補足的につけたした図を示したこともある。

 この図は上の図でいうと、事実の世界を言っているだけ。しかし、これが仏教の世界なのである。

 六根があって、六境がある。六根+六境を十二処という。十二処に六識をプラスしたものを十八界という。十八界が仏教の世界なのである。
 仏教の世界は認識世界、私の言うところの事実の世界である。真実は見えない、見えないものは言及不能、言及できないものはないものとするしか仕方がないのである。

 老師の図は仏教的には間違いではではない。念のため。

 

(追記)

 図において、分りやすくするために真実と事実を左右の分けて描いたけれど、真実は全体つまり宇宙のことで、事実の世界は真実の世界に含まれます。

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真実と事実(2)

2023年11月19日 | 一法言

真実と事実の違いについて、分かり易い例が見つかったので、理解を深めてもらうために、紹介する。

スケートの羽生結弦の離婚事件である。

 8月に結婚したばかりの羽生結弦が、17日に離婚したと発表した。なぜか、事態を驚いたが、羽生は「一般人であるお相手、その親族や関係者の方々、そして私の親族、関係者に対しても、ひぼう中傷やストーカー行為、許可のない取材や報道がなされています。現状のままお相手と私自身を守り続けることは極めて難しく、耐えがたいものでした。これからの未来を考えたとき、お相手に幸せであってほしい、制限のない幸せでいてほしいという思いから、離婚するという決断をいたしました」とSNSで発表したとのことである。

 これは酷い。羽生の「真実」を、それを覗き見ようとするメディアや野次馬、ストーカー。これら人間の見たものを「事実」というのである。真実は一つなのに事実は見る者聞く者、人の数だけある。それは真実からすると歪み、誤謬だらけのものである。それを自分だけの興味に留まらずメディア、SNSで拡散しようとするのであるから、悪質である。

 頭の中にあることなんか、真実ではなく単なる記憶、それを事実といい真実と思い込んでいることがなんと多いことか。自分の記憶に自信持ち過ぎである。

「NHKニュース記事」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231118/k10014261851000.html

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将棋竜王戦 藤井聡太竜王 4戦4勝でタイトル防衛

2023年11月11日 | 一法言

 応援している伊藤匠七段の竜王戦挑戦を期待していたのであるが、やはり、藤井竜王は強かった。

 途中、伊藤匠七段が優勢を取っていた場面もあったようだが、詰碁名人藤井竜王の終盤力は抜群だった。37手の詰めを読んでいたのだとか。

 伊藤七段もレーティングによる棋士ランキングでは6位に上昇。一流棋士に仲間入りしているので、今後の活躍に期待したい。

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真実と事実

2023年11月08日 | 一法言

 入院後、1週間経った。身体が鈍って体力の低下を実感しているところである。夕方、2Kmほど散歩してきたが、さっさと歩けず、トロトロ歩き。すっかりお爺ちゃんになってしまった。

 入院中に世話になった美人の看護師さん。〇〇真実(まみ)さん。

 真実と言えば、内山興正老師が16,7歳のころから自分の人生をみつめ「真実に生きよう」と考えたというのです。そのことを思い出したのです。

 老師も真実とは何か。その時は分からんかったという。長年の坐禅修行を経てその意味が理解できたという。老師の真実の定義は「絶対事実に随順すること」だと聞いている。しかし、事実についての説明はない、それとなく分かっているということなのだろう。

 真実という言葉について、澤木興道老師の言葉に次のようなのがある。
「真実、真実と言いよるが、どうせ俺の目で見た真実ではないか」

私は前にブログに「真実は知りようがない。知り得たものが事実である」と書いたことがある。

 そうなんです。入院中思いついたことがあるので、紹介しておきたい。

 「真実とはそのまんま 事実とは見たまんま(聞いたまんま)」

 鏡の前に立った自分を考えてみてもよい。「自分自身が真実、鏡に写ったものが事実」 

 ところがおかしなことに、Bingの説明では、私の言っていることと逆になっている。これじゃ、真実も事実も分からないことになろうかと思う。

ーーー以下参考ーーー

こんにちは、これはBingです。

真実と事実の違いについてお答えします。

「事実」は、誰から見ても変わらない、実際に起きた出来事のことをいいます。例えば、「日本はアジアにある国です」というのは事実です。

「真実」は、事実に対して人それぞれの考えや解釈のことをいいます。例えば、「日本は美しい国です」というのは真実ですが、人によって感じ方が違うかもしれません。

つまり、「事実」は客観的な事柄であるのに対して、「真実」は主観的な事柄であるという違いがあります。言い換えれば、「事実」は常に一つで、「真実」は複数存在します。

以上が、真実と事実の違いについての説明です。ご参考になれば幸いです。

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病気自慢17

2023年10月29日 | 一法言
 丁度、平均寿命81歳4月に達したところで入院する羽目になった。
 10月24日、微熱が出て手足の力が入らなくなった。寝ていて身体を起こすところまではできるが、立ち上がることはできなくなった。
 
 立ち上がるには妻の介助がなければできなくなってしまっていた。
 掛かりつけ医へ通院することもできず、救急車を呼んで市内のM病院へ連れて行ってもらった。
 
 早速、各種検査を受けたところ、「腎盂腎炎」との診断。細菌性のものなので抗生剤の点滴注射による2週間の治療を要するとのことだった。
 
 治療を開始して、まもなく、水を飲んだところしゃっくりが出始めた。
 
 このしゃっくりが止まらず、丸7日間思いもしないことで苦しい思いをした。相部屋のためできるだけ音を立てないようにするため、片方の鼻穴に綿球を詰めたりしたものだから余計息苦しかった。
 
 しゃっくり止めの薬を3種取り換え試したが、効果なし。
 
 睡眠はとれていないので、睡眠剤を処方してもらい、睡眠を取ったら朝目が覚めたらしゃっくりは止まっていた。その日はまだ途中がしゃっくりが出たが2日目からはしゃっくりは止まった。
 
 2週間大人しく寝ていればいいと思っていたが、とんでもない入院になってしまった。
 
 抗生剤による抗菌治療は順調で、結局、11日間で治療は終了。4日に退院した。
 
 これで、病気自慢は病気怪我数は79。
 歳とともに体力が落ちているから、いつどうなるか分らんなあ、が正直な述懐。
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2つの命 2つの世界

2023年10月16日 | 一法言

 大概の人は命は一つ、世界も一つの生命を生きている。

 まず世界があって、その中に1個体として生まれ、それを生き、老い、病を得て、死を迎える。それでは虚しいから死んでからも別世界で生き続けたり、生まれ変わったりすることを考えたりしている。

 しかし、死んだ人間がその生命の形態を残したまま存在し続けるなんてありえない。

 古代ギリシャ哲学者 キケロが「死者の命は生ける者の記憶に留まる」といっているが、これなら分かる。生きている人間が記憶や記録から頭の中に死者のイメージを呼び起こす。

 人は二度死ぬとよく言う、一度目は実際に死んだ時、二度目は忘れられた時だという。忘れられない何かを残す、子・孫・ひ孫の代なら誰でも行けそうだが、それ以上は余程のことがない限り記憶もなくなり思い出しもしない。

 さて、2つの命は一方は肉体を持った個体的生命だが、もう一つはその個体生命は宇宙一杯の広がり持っていると考えて宇宙生命のことである。宇宙生命があって個体生命があり、個体生命があって宇宙生命がある。

 宇宙生命は死なないのだ。
 私の宇宙生命は、あなたの宇宙生命であり、プーチン宇宙生命であり、ハマスの宇宙生命であり、誰でもどんな生命も同じ宇宙生命を生きているのだ。

 彼あるがゆえに我あり、我あるがゆえに彼あり。皆、生命として繋がっている。そのことを深く知れば戦争など起こしようがないのである。

 2つの世界とは、認識世界と実物世界である。宇宙は実物の世界である。我々は実物を生きているのであるが、実物をそのまま知ることはできない。実物を認知したものはみなイメージである。頭の中の作り物である。

 実物とイメージの違いをよく了知しなければならない。

 宗教はイメージの世界である。架空の世界に取り込まれている。どれだけ実物に触れているか。 

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王座戦 第4局 藤井七冠が勝利 8冠制覇達成

2023年10月11日 | 一法言

 本日、藤井聡太七冠が永瀬拓矢王座に勝利。王座のタイトルを獲得。

 8つの全タイトルを獲得。最年少記録を次々と更新、感嘆するしかない。

 棋士になって10連勝したあたりから、彼の将棋を観て応援してきたが、8冠を取ってしまうと、応援のし甲斐がない。将棋そのものもどうせ勝つだろうとなると面白くない。

 今日は永瀬王座を応援していた。一時終盤藤井7冠が1分将棋となり永瀬王座がAIの勝率80%越えまで行ったが、大悪手を差して形成が丸々ひっくり返って負けてしまった。

 しばらく、藤井8冠の全盛時代が続いて、面白くないことになるかも知れない。

 これからは、伊藤7段の将棋をチェックしていきたい。

「追記」

 最後の様子を見ていなかったが、永瀬99%の勝率が藤井99%勝ちにひっくり返ったようである。これにはビックリ。

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竜王戦 第1局

2023年10月07日 | 道楽

 竜王戦 タイトル戦 7番勝負 第1局 が、昨日から2日がかりで行われた。

 挑戦者 伊藤匠七段を心の内で応援していたが、7冠 藤井竜王が第1局を制した。

 昨日から、藤井竜王は優勢になりそのまま徐々に差を広げ押し切った。竜王の貫録勝ちと言ったところだった。

 伊藤七段には次戦で頑張ってもらいたいと思う。

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我なくして宇宙なし

2023年09月30日 | 一法言

 先に「我ありて宇宙あり」ということを書いた。

 逆の言い方になるが、「我なくして宇宙なし」なのである。

 大方の人は、宇宙の広大さと比べたら、自分なんて比べようもない小さな存在、そんな小さなものがいようがいなかろうが、宇宙としては何の変化もないと考えそうである。

 しかし、どんな小さな存在も宇宙の中にある以上宇宙の一欠片、宇宙の一欠片である以上宇宙の法則が働いている。

 今あるその一欠片を存在しないものとすると、法則の働かない完全な無の空間ができることになる。宇宙は何か力の働いた場であるから、そこに完全な無の空間ができたとしたら宇宙はその穴に落ち込んで崩壊することになる。

 つまり、我という一欠片がある以上、それなくして宇宙は存在し得ないということになる。

 まあ、宇宙の中にある素粒子は、4つの力を有しているという。強い力、弱い力、電磁力、重力の4つ、中で電磁力と重力の影響範囲は無限大。宇宙内のものは遠い近い、力の強弱はあっても皆、繋がっていて切り離しようがないということである。

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彼岸になったらいつも思うこと

2023年09月25日 | 一法言

 夕方、花屋の前を通ったら、彼岸用にと花が売られていた。

 そういえば、今日は秋の彼岸の6日目。明日までが彼岸の期間となる。墓参りや寺の行事に参加する人も多い。

 「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通り、快適な季節ともなり、彼岸のイメージにも合う感じがする。でも、今年は特別暑かった、今日も真夏日、明日も真夏日の予報である。

 彼岸というのは、迷いの世界である此岸との対比として架空の理想世界と想像されたパラレルワールドに過ぎない。

 川によって区切られた二つの世界があって、手前から向こう岸に渡るイメージ。

 そうではない。前にも書いたが我がいて我の世界が展開しているのである。清浄な世界を見つけてその世界に入ることによって自身が清浄になることではない。誰かに連れて行ってもらうことでもない。世界は自分の影のごとく切り離しできない。

 自業自得。自身の世界が汚れているなら、自分自身が浄化しなければならない。

 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(阿含経)である。

 諸悪莫作 衆善奉行は善悪を意識し悪を捨て善を目指す、意識脳を浄める修行法、それはそれで必要なことであるが、善悪という部分に拘ることになる。

 自浄其意は綺麗汚いの話ではない、真に清浄ならそれは透明にして覚知できない。

 瞑想では届かない。つまり、只管打坐の坐禅をするしかないのである。

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宇宙が先か 我が先か

2023年09月15日 | 一法言

「宇宙が先か 我が先か」

 普通に考えたら、宇宙が先に決まっている。宇宙の開闢は138億年前、その中に我は生まれてからわずか数十年、比較するまでもない。

 しかし、我を客観的に観察しただけである。

 そんな我は我ならざるものに取り囲まれてそれから圧迫を受け、日々苦悩の連続である。そこで何とか自由に振る舞える領域、つまりテリトリーを作り、その中で快楽を得ようとしている、それが多くの人の幸福である。

 仏教はそんな人生は苦しみの人生でしかない、煩悩だらけの人生から解脱せよと説く。無我、空、涅槃とか言って我の存在を否定する。そうすることで「安らぎ」の生活、人生が得られるかも知れない。

それでよいという人はそれでよいかも知れない。それも一つの価値観である。

 しかし、そうするためには長年修行に専従しなければならない。多くの人はそんな生き方ができるわけはない。

 世俗に生きる我々は「安らぎ」もほしいが、「生き甲斐」もほしい。生き甲斐は働きによって得る、そのためには働きの場がいる。働きの場といえば、学校、会社、社会といったものが考えられるが、ところが得られないと考え、悩み、不満を訴える人も非常に多い。

 さて、この働きの場、安らぎの場として、誰でも同じ共通の場、宇宙を提示したいのである。

 さて、ここより宇宙より我が先なのか、お話しなければならない。

 1 100年前の宇宙、あったに違いないだろうが我はまだ生まれていない。そんなものがあろうがなかろうが、どうでもいいことであろう。

 2 次に生まれる瞬間を考えてみよう。その前は過去、過去は過ぎ去り、存在しない。我が生まれてその瞬間新しい宇宙が生まれる。我と新生宇宙とは同時である。

 3 我の人生を考えるのであるから我が優先する。

 4 我がいて宇宙もある。我がいなければ宇宙も存在しない。

 5 我が時々刻々宇宙に変更を加えている、宇宙創造を行っているのである。

 6 我の造った宇宙は当然永遠である。我と宇宙は一体である、とすると我の生命も永遠ということになる。

 7 人生の目的は、宇宙創造である。そこに生き甲斐と安らぎがある。

 我がいて宇宙がある・・安らぎ
 我が宇宙を創造する・・生き甲斐
 今ここが宇宙の中心・・働きの場 

 生命力は宇宙力 

  

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阪神タイガース 18年ぶりセ・リーグ優勝

2023年09月14日 | 一法言

 大阪人として、素直に優勝を喜び、祝福したい。

 18年か、長いね。待ちかねていたファンは大喜びだろう。

 道頓堀川はきれいになったというが、飛び込みはやはり危険、馬鹿者が出ないことを祈りたい。

 「追記」

 やはり、出た。道頓堀川に飛び込んだ阿呆が8人。

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親が先か 子が先か

2023年09月13日 | 一法言

 「親が先か 子が先か」 なんてクイズめいたものを昨日お示ししましたが、お考えいただいたでしょうか。

 普通に考えたら、親が子を産むのだから、親が先ということになるはず。

 子が先というのはどういう理屈か?

 簡単です。親は子が生まれて初めて親になる。子が生まれる前はまだ親ではないということ。

 第1子はそうかもしれないが、第2子を生むときはもう親ではないか、親が子を生むことになるのではないかと考えられる向きもあろう。

 親子関係においては、親は子の対関係、子がA、Bの二人なら、Aの親であり、Bの親でもあるということになる。

 さて、次は「宇宙が先か 我が先か」について、書いてみたい。もう答えはお分りでしょう。

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親が先か 子が先か

2023年09月12日 | 一法言

 前回は「鶏が先か 卵が先か」で、Bingの回答を紹介したが、今回は人間の生まれについて「親が先か 子が先か」について考えてみたい。

 で、今回もまずBingに問うてみたら、どちらの死が先か、つまり、相続の問題として回答が表示された。再度、生まれの後先を聞いてみると、「鶏が先か 卵が先か」の回答になってしまった。

 Bingの回答には期待しえないので、私の答えを言ってしまうと、「子が先」となる。

 どういう理屈でそうなのか、考えてみてください。回答は明日にします。 

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