十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

私の病気自慢2

2013年01月23日 | 人生

昨秋、私の病気自慢ということで持病と既往症を列挙してみたところ、55に及ぶことが分かった。そんな中先週眼科を受診することになり、新たな病気が追加になった。飛蚊症である。

何か、右目の視野の右下部に黒いゴミがついたように見えるものがあったので、眼科で診てもらった。眼にはいろいろな疾患を持っているので定期的にチェックを受けるように言われていたのにここ数年放置したままになっていた。この機会にと眼底検査を受けた。

飛蚊症の症状を呈しているが、眼底つまり網膜の状態を診てもらったところ、心配された出血の跡もなく問題ないとのこと、稀に眼球が縮んでそのシワによることもあるらしい。1月後もう1度診てみようと言われている。

気にしなければ気づかなく過ごせるが、気になり出すと眼球の動きに合わせてそのゴミがウロウロするので鬱陶しい。これで病気の数が56になる。

加えて時期を同じくして血圧が上昇して朝の最高血圧が177にもなり、160台も数日続いた。温度変化に敏感であり血管の収縮がきついと血圧が上昇する。一方、暖かいところで血管が緩むと正常値にもなるのである。

自己判断だがどうも水分の摂り方が少なかったような気がする。水分が少ないと血液が粘りを増し血圧が上がるのである。ところが、水分を摂ると便所が近くなる、夜何回も起きなければならなくなる。前立腺肥大症もあるからである。

で、医者に血圧の上昇を伝えたら薬を変えるから2週間様子をみてくれという話、で、変えた薬を2日飲んでみたけれど今のところ効果が出たようには見えない。難儀なことである。

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諸佛は大人なり

2013年01月14日 | 佛教

今日は成人の日、晴れて成人式を迎えられた方もおられることだろうと思います。

まずは「おめでとう」とお祝いを申しあげたい。

しかし、心理学者河合隼雄が言っているように成人式をしたから十把一絡げで大人に成るという簡単なものでもなく、今日の人間が大人に成るのは簡単ではないのである。以前にも紹介したが河合さんの話しされた録音があるので聞いてもらいたい。
http://yahoo.jp/nUVPhl

内山興正老師は身体は大人だがその精神はまだ子ども、やることが子どもじみている、そういうのを擬似大人だと言われていた。未熟児が身体だけ大きくなっただけで、「未熟児ちゃん」と呼びたくなる擬似大人ばかりだ、大人の時代はまだ始まっていないと・・・。
マッカーサーは日本人の精神年齢は12歳なんて言って物議を醸したがそれよりひどいね。

そこでこれを機会に道元禅師の正法眼蔵八大人覚の言葉「諸佛は大人なり」を味わってみるといいのではないかと内山老師の講話を録音したものがあるから聞いてもらいたい。
この講話を本にされて大法輪閣から再刊行されていたが、先頃売り切れになってしまった。古書なら入手可能だから読みたい人はネットで当たられるとよいと思う。

http://yahoo.jp/P-eOxT

八大人覚の原文は次を参考にしてください。
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou.htm

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自燈明法燈明

2013年01月12日 | 佛教

年賀状に書いた自燈明法燈明は佛様の重要なお示しであるが、これを実感するには坐禅をするのが一番である。
まず自己の生命があってその周りに世界が展開しているのがよく分かる。
でも坐禅なんていう人もおられるはずである。かく云う私も坐禅はあまり好きではない。何せ足が痛くなる、年がいってくると身体が硬くなってだんだん辛いものになってくる。で、去年念佛にするなんて書いたがあれから早1年になる。
坐禅も念佛もしないという人のために一つ体験してもらいたいことがある。

まず、ローソクとマッチ、それにローソクを立てる物を用意する。早い話が燈明の実験である。
夜、部屋を暗くしてローソクに火を付けるとどうなるか。ローソクを自分と見立ててその様子を見ればいいのである。

物としてのローソクは箱の中に納めてあったり燭台に立てられていますが、それがローソクかというとそうとも言えるが、それだけはそうとも言えないとも言えます。ローソクがローソクであるためには火を点して光を発するという働きを持ってこそなのである。それがローソクのいのち。その光によって照らされた世界はローソクがあっての世界、つまりはローソクの世界なのである。ローソク自体の光が自燈明、それによっていろんなものが反射光を発しながら浮き彫りになってくるのが法燈明と考えればいいと思う。
ローソクの光によってその世界は変化する。色や光り加減、発光の場所によって変化する。

ローソクの光は人間に当てはめると認識力といったところ。
 
まあ、誰もがいのちのローソクを1本持っていてそれを燃やしながら生きているともいえる。ローソクに消えたら全ては終わり。そしてそれは風前の灯なのである。

マッチ売りの少女がマッチを1本する度に彼女にどんな世界が展開しそれをどのように見たのか。そんなことを考えながら実験すると意味深いものになると思う。

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囲碁会に参加

2013年01月07日 | 道楽

今日は定例日より1週間早く開かれた囲碁会に参加してきた。

何でも、100回目の記念になる会だそうで、年6回とすると16年続いていることになる。メンバーが少なくなって今日の参加者は8人、以前は倍以上いたそうである。記念にささやかな品物をいただいた。

日本棋院の段位認定で相当実力アップした気で対局に臨んだが、前回優勝でポイントがアップしたのでハンデがきつくなって2勝2敗。調子に乗って早打ちしたのが原因のようで気をつけていれば石の連結が切られて死ぬようなことはなかったはず、なんて負けてから言ってみても仕方がないのだが・・・。

次回は今日のハンデと同じだから、もうちょっと勉強して成績アップに繋げたい。

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自燈明法燈明

2013年01月04日 | 佛教

今年の年賀状に「自燈明法燈明」というコトバを入れたが、この言葉を意味を考えてみる。

この自燈明法燈明は涅槃経に出てくる言葉で燈明の代わりに「洲(しま)」というコトバが使われたり「自帰依、法帰依、不他帰依」という言葉が使われたりする。寄る辺という意味である。

自燈明は自らを澄明とするということだから、まずは自分のことと考えるといい。ところがこの自分に自信を持てない人が多すぎるようである。何とも頼りなげな顔ばかりである。中には自信満々という人もいるが、その自信とは何かというと、仕事であったり、遊びであったり、容姿であったり他人と比べて自分の方が上というようなものばかりである。そういうものがない人は何とも頼りなげである。こういう人が神や佛、教祖といったものを頼りにする。

しかし、神や佛、教祖なんてものは自己ならざるもの、つまりは他なのである。
「他に依止するものは動揺す」というコトバが原始仏典の一つスッタニパータにあるが、他に依存すれば、その依存するものが動揺すれば自分も動揺してしまうという道理は当然ある。だから、不他帰依なのである。

だから佛教者たるものは、他に依止するすることのない自己を確立しなければならないのである。

では、次なる法とは何かというと、大概の人は教えという意味で受け取っている。そうなるとそれも他なってしまう。教えにと受け取るとそれは自己ならざるものである。教えとは別物の自分でしかなくなってしまうのである。教え通りでない自分を絶えず意識しているはずである。

佛教の法の意味はいろいろあり、勿論教えという意味もあり、法則という意味もあるが、独特の法概念があって法燈明の法はその法によるのである。それは一切法(いっさいほう)と呼ばれるものである。物でも事でも何から何まで一切を法というのである。

言い替えると宇宙もこと、宇宙を構成する一切のものをいうのである。

ということは、自燈明法燈明とは法ぐるみの自己を自覚しそれを生きよという教えなのである。

何度も示している内山興正老師の図がそれなのである。

 

 

 

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謹賀新年

2013年01月02日 | 共生

 

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