十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

百日の説法屁一つ

2009年01月31日 | 佛教

 ある人のブログでここて私にイチャモンをつけたことのある天神氏が自身のブログでとんでもないことが書いていると知ったので覗いてみた。


 「悪僧はそんなに批判されることなのか?」というタイトルの文章だったが、私に対する批判がまず書かれ、小乗がどうとか、大乗がどうとか。自分は悪僧でないという主張。
 それに対するコメントが6人、「あなたは悪僧ではありません。」
 その中の一人が、天神氏を悪僧と批判した人を「キ〇ガイの類、和尚さんの慈悲も届かない」とコメント、それに対し天神氏はその言葉を引用記述しつつ謝意を述べている。


 「キ〇ガイ」という言葉は非常に悪質である。伏字でない言葉は精神障害者に対する差別語であるが、伏字にしても意味するところはちゃんと分る。伏字にするということはうっかり使ったということではなく知った上でわざわざ使っているのである、悪質度が2乗である。


 こんなにひどい差別語に気づかずそれに乗って使ってしまう。「和尚の慈悲」って何だろう。 

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生命体験によってある世界(4)

2009年01月31日 | 佛教

自己の生命体験によってある世界を縷々述べてきたが、ここでは言い方を変えてみたい。


  我々が認識をするということは、外界から五官を通して取り入れた情報、脳に記憶された内部情報、またそれらを元に計算されたり、直感によって創られたイメージ等が心のスクリーンに投影することなのである。
 それはTVのディレクターがライブ放送を製作するに似ている。外部情報のどこに焦点を当てるか、どういうアナウンスをするか、どういうテロップを流すか、過去の参考画面をはめ込んだり、いろいろ加工して画面が出来上がる。このようなことが自分の頭の中で時々刻々行われているのである。


 つまり、認識世界は自分が創り上げたものなのである。天地創造は自分の中で行われているのである。空が青いのも自分が青いと感じるから青いのである。美しい花も自分が花を愛でる心の美しさを有しているから美しいのである。

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生命体験によってある世界(3)

2009年01月30日 | 佛教

 仏教は認識主体と認識客体を分けない。西洋的考え方は認識主体と認識客体との二つに分けて認識主体が認識客体と関係するところに認識が起こるとする。仏教は主客を分けない。見る者、見られるものを分けない。自他の別が立たない、自他一体のところが仏教の見方なのである。


 普通の人が外界としているところを、自己の風景、背景とし、その世界ぐるみの自己を尽一切自己とか尽十方界真実人体とかいい、それを完全に体現する者を仏といい、それを目指すものを菩薩というのである。

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生命体験によってある世界(2)

2009年01月29日 | 佛教

1/25に書いた生命体験によってある世界の追記。


 仏教は自己が根本。自分が認識していないモノゴトは言及できないし。モノゴトは認識内容のみ言及可能であり、認識されないモノゴトはあることにならない。
 たとえば、今、自分のいる日本の地球の裏側の国はアルゼンチン、アルゼンチンという国は認識にかかっているからあることになるが、その在り様はとんと分らない。その分らないところは在り様がないのである。いや、あえて言うなら何だか知らないが何かあるはずという程度の在り様をしていることになる。

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あー、落っこちる!

2009年01月28日 | 道楽
 昨日はオモチャの飛行機乗りに「落ちてしまえ!」とつい思ってしまったが、人を呪わば穴二つ、こっちが落とし穴に落っこちてしまった。


 場所は大阪モノレール大日駅前、いつもは木の向うからモノレール沿いに走ってきて写真の右手から左手前へ抜けていくのであるが、カーブを走るのが遠心力が働いて快感なのである。
今日は左方にあるイオンに寄って左側を抜けようとしたのであるが、二段の階段になっている。いつもほどはスピードを出していなかったが、階段になっていることに気づいていなかった。



走って来て写真のような按配の階段に気がついて急ブレーキをかけたが間に合わず後輪が飛び上がった格好で階段下へ落っこちた。左側に倒れ左手と左膝をついた。自転車のチェーンが外れただけで人、車
ともに無事。まあ良かったわけだが、気をつけないといけないな、反省。(・_*)\ペチ


 ところで今回転ぶ時、眼をつむらなかったが、大事な事故への対処法である。随分昔になるがある本にとび職の心得が書かれているのを読んだことがある。高いところに慣れたとび職でも高所から落っこちることがある。その時とび職はどうするか。落ちると思った瞬間、飛び降りるのだそうである。自分から飛び降りると降りる場所や体勢を制御できるが眼をつむって落ちたらどこに落ちるやらどこを打つやら訳が分らない。大怪我すること必定なのである。

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落ちてしまえ!

2009年01月26日 | 道楽

 受験生にはドキッとするようなタイトルである。


 今日も寒風の中、淀川堤防を転輪号で走行中、川下方向にパラグライダーのキャノピーというソーセージを連ねたような翼が見えた。


 近づくとエンジンの音が聞こえる。パラグライダーの翼を持つ軽飛行機だった。それが川面や河川敷の上数十メートルで飛び回っているのである。河川敷のは人影も見えるし、地面、水面のすぐ上を飛行したり危険行為に見えた。


 今日まで淀川で見たこともなかったし、許可なく飛行しているのだと思う。しばらく、自転車を走らせながら見ているとどんどん高度が落ちて水面すれすれに、思わず心の中で「落ちろ」と叫んでいた。


 しかし、期待に反し上に反転、無事だった。こっちは川下、向うは川上に向いていたのですぐ見えなくなった。
飛行許可関係はどうなっているのだろうか。

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生命体験によってある世界

2009年01月25日 | 佛教

「仏教の生命観・世界観」(12/29)で次のようなことを書いた。


仏教では生命観と世界観と分けて考えない。
人は生まれてくる時世界を持って生まれてくる。死ぬ時には世界を持って死んでいく。
生命がなければ世界もないのである


「自己曼画」(1/11)では図示した内山老師の自己曼画の第6図は次のようなものであった。



ここではもう少し説明を加えたい。


 大方の人はまず出来上がった共通の世界があると考えその中でたった一人の存在として孤立している。他は皆他者であり、わずかに家族、所有物が自分に属するものと考える。しかし、それでは死に至れば属する何もかも引き剥がされて死んで行かねばならない。
 そういう世界の中では真の生き甲斐も安らぎもない、ただ一時しのぎの快楽を追求するのみ。快楽を得んとすればまず金である、金さえあれば大概の快楽を手に入れることができる。そのために金の奪い合いつまりは生存競争に参加しなければならない。勝ち組、負け組という格差が生じ、勝ち組は驕り、負け組は愚図っている。というのが世の中というものである。


 さて、生命体験によってある世界とはどういうものか。たとえば私は今パソコンでこの文章を作成中であるが、部屋の中にはいろんな物が見える。北側の壁には壁掛けの時計があって秒針の時を刻むのが見える。その時計は私が見て、あると認識して初めてあることになる。
 「そんなことはない、あるのを見ていないからないというのであって、あるものはあるのである。」とおっしゃる。しかし、現実にその時計の存在を確認されていなければあるとは言えない。そこに認識者がいる必要がある。他人の認識は私の認識とはならない。「時計がある」と言われてあることを認めてもどのようにあるのか、全然分らない。自分が過去に体験した時計をそこに想像的においてみるだけである。しかし、これってまさに生命体験によってある世界の1コマに該当する。


 世界がまさに体験世界だという例を引いてみよう。
それは雷様が教えてくれる。落雷があって閃光が走る、しばらくして雷鳴が轟く。落雷というたった一つの事実が光と音という二つのルートを通して伝えられ二度落雷を体験する。どこでどんな時にどのように出合ったのか、その人の視力は、聴力は過去の体験は等々いろんな要素が加わった形で雷が認識される。
その人のその時々のナマの体験する世界が展開しているのが理解されるであろう。誰一人体験しなかった落雷はあったことにならないのである。


   もう一つ例を出してみよう。
たとえば太陽、この存在を疑う人はまずいない。しかし、たった今太陽が間違いなく存在しているかどうか。経験則上どうしても認めざるを得ないなどというのも人間の体験上引き出されてきた結論である。今見える太陽は8分20秒前のもの、過去の太陽を見てあれが今太陽と思っている。そんな太陽しか見れないのである。地下のトンネル工事をする人にも太陽はある。その太陽は過去に体験した太陽を心のスクリーンに映すことにあるのである。太陽もまた自己の生命体験の中にあるといえるだろう。


  さて、大事なことは五官から飛び込んできた情報だけで認識が行われるのではない。必ず過去情報と照合し加工され認識が完成するのである。時計の話に戻すと、目から入ってくるのは時計の表面の反射光だけである。時計だと認識するのも過去の体験に拠るのだし、時計の厚み、裏の状況等見えないところも記憶の呼び出し、時刻の把握も過去の体験による。時計を知らない者にあっては針の動きが見えるだけのもの。


 そう、万人共通のように思っている世界は、個々人がどこに位置するか、どのような認識力をもっているかによって実は皆違うのである。
そしたらバラバラかというとそうではなく、皆が宇宙一杯の世界を持っているのであるから繋がっているのである。いうなれば私の世界の中にあなたがいてあなたの世界の中に私がいるということになる。

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心のホームレス

2009年01月23日 | 人生

  不景気で派遣切りのためホームレスになる人が多くでているそうで、国の制度としてセイフティーネットが早急に確実に張り巡らされることが望まれる。その住む家を持たないホームレスは数万人程度だが、その何百倍、何千倍の人が心のホームレスではないのか。これも大問題。


 つまり、心の拠りどころを持っていない、心の住み家を持っていない人がほとんどである。


 無宗教を自認する人がほとんどだし、宗教を持っているという人もじつは信仰対象を自分の欲望を満たすための手段にしてしまうたわけた宗教が蔓延っているのである。


 下の写真は関西のある寺の風景、こういうところに心のホームレスが参りに行くのである。今はやりの占いに心をとられるのも心のホームレスというべきである。


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過去・現在・未来

2009年01月22日 | 生命

 過去は過ぎ去り今はない。未来は来たらず今はない。現在は過去と未来挟まれてしかも幅がない、幅のないところに刻々と一切のものが展開している。


過去はどのようにあるかというと、我々の頭の中に過去の情報が記憶として蓄えられているだけ。未来は予想、予測としてこれまた頭が描きだしたイメージとしてある。


さて、現在は今この瞬間、五官で捉えられた情報を頭が情報処理して認識したものですでに時間がかかっていて、今そこに存在していると思っているものもすでに過去のものである。気がついた時にはすでに過去のもの、つまりはないのである。


過去もなく、未来もなく、現在はとらえようがない。ないもの、とらえようないものをあるがごとく見せるのは生命の働きである。生命が時間というものを造り出しているのである。 

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内山興正老師の年賀状(9)

2009年01月21日 | 人生

H10年



      生と死と二つそのまま  わがいのち
        この二にして一が  いのちの深さ
      いのちもていのちを拝む  安らかさ
        楽しく拝み  いのち深さ行く



 



 この年、3月13日に老師は示寂されました。11日に、私と小山さん(澤木老師の在家弟子)と2人で老師を訪ね1時間程話をさせていただきましたが、思ったより元気そうで何よりと思っていたところ、夜半に倒れられ2日後に亡くなられたのですが、訃報を聞き驚きました。最後の客になってしまったのです。



  小山さんはS45年秋頃本屋で澤木老師の全集本を何冊かまとめ買いしていた時に、それを見て京都にあった安泰寺で内山老師が参禅会をされている案内チラシをくださった人です。最初に内山老師に会うきっかけを作ってくださり、最後にお別れする時も一緒、不思議な縁を感じてしまうお人です。

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内山興正老師の年賀状(8)

2009年01月20日 | 人生

H8年


観音稱名


       いまはよい
       わるいではなし
       死を前に
       出会う処を
       只観じ居り
       南無観世音

H9年


老い最後


       生きていればこそ
       生きている思いの中に
       生と死の二つあり
       死の中には生死二なし


       この不二いのちの深さに向い
       いよいよ修行を楽しみ乍ら
       老いの最後の日々を暮す

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内山興正老師の年賀状(7)

2009年01月19日 | 人生

H6年


思い手放し禅に近づく


      たとい人間世界という
      家の中に住むにしろ
      できるだけ窓一杯開け放ち
      人間的思いで汚染されぬ
      新鮮な大気で呼吸しよう
      その時生(なま)のいのちで復活(よみがえ)る

H7年


  人生遊行期


      今はもう
      世間凡ては
      遠のいて
      ただ自己ぎりの
      自己のうち
      南無仏念じ
      安らいと
      生き甲斐もって
      遊びつつ
      生死一つの
      いのち深さ行く

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内山興正老師の年賀状(6)

2009年01月18日 | 人生

H4年


た よ り


       私は 本年満八十才
       老いても、なお生存本能として
       生きることばかり考えており、
       だが最早死は目前の絶対事実、
       今は寧ろこの矛盾のいのちを、
       その儘、そっと、受けいれる
       いのちの深さを修行すべき時、
       死を真正面に見据えながら、
       南無佛の修行に励んでいます。
       人生最後、この老いの日日。


H5年


常楽我浄


       すべてが  白らけ
       味気なくなった
       老いの最後の私にとって
       残されてあるのは
       不生不滅  不垢不浄
       不増不減  の深さだけ
       ここに常楽我浄の道を
       見出し  つつしんで
       南無仏し  南無仏す

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内山興正老師の年賀状(5)

2009年01月17日 | 人生

H2年  人生詩なし。


H3年


人生一望


      苦楽  愛憎  幸不幸など  どうせこの自分の
      思いが  死後までもっていけるものでなし
      すべての思いを投げ出してのみ  安眠ひとつも
      できるのだ
      ───では悪いことをしなけりゃ損  好き勝手す
      ればしただけ得だ───  そんなことを考える手
      前には自分の悪業が身についてまわり  夢の
      中でうなされるだけ  恰もアクセルふかせば前
      進し  ハンドル右へ廻せば右  左へ廻せば左
      ブレーキ踏めば止まってしまう
      思いの中では本末因果正確に働く故に  結局
      自分の思い以上の一句といえば
      “どっちへどうころんでも御いのち”
      ただこのいのちの深さこそ  わが生きる道
      わが生きるねらい

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サイクリング2500Km達成

2009年01月16日 | 道楽

 冬になって風の強い日が多くなったので、サイクリングはショートコースを回ることが多くなって距離の稼ぎが少なくなっていたが、今日転輪号は2500Kmを達成した。


次なる目標は3000Km。長距離走に出かければ達成も早いが心配性の母親が足を止める、難儀だね~。


 さて、例によってコスト計算してみると、90000円の装備費用で2500Km走行したから、1Km当り36円となる。
 1時間当りの走行距離は高齢者でもあり休憩時間も考慮して15Km程度とすると、1時間当り540円の遊び代となる。 シニアの映画代と似たところとなった。 


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