十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

サイクルメーター初使用

2011年08月22日 | 道楽

今日サイクルメーターを取り替えて始めて走ってきた。時間がなかったので近くをポタリング。
速度を距離に変えるともとに戻すのに4回ボタン押しをしなければならなかったのが、速度は常に表示され2段表示で文字サイズも大きくなり見やすい。

時間19分、距離4.6Km、平均速度14.2Km、最高時速27Kmだったが、短距離だからもう一つ傾向が測れない。

でも、平均時速を15Kmと見込んでいたがそこそこ近似しているように思える。

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サイクルメーターの買い替え

2011年08月21日 | 道楽

転輪号のサイクルメーターの液晶表示が駄目になった。強い日射のせいと思われる。
旧のものは速度、距離、カロリー、総距離、時計の各メーターがついていた。

今回のはメーカーは前回と同じキャッツアイでありるが若干ランクをあげた。
センサーとコンピュータとのワイヤレス、走行時間、平均速度、最高速度、CO2削減量の機能がプラスになって表示も大きく上下2段になっている。
しかし、カロリー計やCO2削減量なんていらないし、ボタンを押して表示を変えていくのは面倒だ。
プライス2940円で3年前よりずいぶん安くなっている。

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生命の源は宇宙から

2011年08月16日 | 生命

8月13日のテレ朝NEWSでの報道によると、

「地球の生命は宇宙で誕生した」と結論づけるかもしれない証拠が見つかった。

 アメリカのNASA=航空宇宙局などの研究チームが、南極などで見つかった隕石12個を調べたところ、DNAの成分の一つであるアデニンやグアニンを発見した。隕石からは採取された地域に存在しない成分も大量に発見されていて、研究チームはDNAの成分が地球に落ちた後、隕石についたのではなく、宇宙で形成されたのは確実とみている。DNAは生命の設計図とも呼ばれていて、今回の発見は、生命の源が宇宙から飛来したとする説の根拠にもなりそうである。

映像
http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210813034.html

そうすると、アデニンやグアニンがどのようにしてできたか、新たな謎が湧いてくる。
まあ、目下のところ私がいつもいっているとおり宇宙全体の力でできてきたという他はない。

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終戦前日の我が家のエピソード

2011年08月15日 | 人生

 今日は終戦記念日、関西テレビで大阪の空襲後廃墟となった写真と大阪城の第4師団司令部の防空壕跡にカメラが入った報道があった。

 それで思い出したことは親父が昭和16年から終戦まで第4師団司令部に勤務していて、丁度終戦の前日その防空壕で爆弾の直撃を受けて生き埋めになったことである。何とか這い出したが足を捻挫、足を引きずりながら10Km離れた自宅まで歩いて帰って来たのが15日の朝はしばらくして終戦の詔勅を聞くことになった。もう少し着弾位置がずれていたら終戦の前日に死んでいたところだった。

 もっとも、親父が死にかけた防空壕が今回報道されたものかは不明である。親父が生きておれば確かめられたのであるが11年前に亡くなっている。 

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被災松を送り火で使用決定

2011年08月10日 | 共生

 先に五山の送り火保存会や京都市は陸前高田市の被災松を送り火に使用しないことを決めたがそれを報道されると、批判が殺到。結局復活を決めた。当然のことだろう。


 ちょっと反対意見があると事なかれ主義で安直な方を選ぶ、そういう精神が日本中を覆っている。これでは沈みつつある日本の再生はむずかしい。


 ところで今日朝一で菩提寺からお参りがあって、我が家の盆は終了である。そもそも実家は代々浄土宗であるが、その宗旨は死ねば極楽往生、つまり親父を初め先祖は極楽という結構なところへ行って佛に成らんと修行中のはずである。戻ってくるのがおかしいのである。
 今日来た坊ンさんにその辺のところを突っ込みを入れてやろうと思ったが、忙しそうだしどうせ答えられないから止めにした。

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坐禅とは

2011年08月01日 | 佛教

  私の言葉でもってすれば、「坐禅とは生きていることの実感、いのちの実感である」ということである。

 生きていることの実感といえば、誰しも体験があるところだと思うが、多分それは何か感動的なことに出逢った時に感じるものだと思う。つまり、感覚で、思いでとらえられたものである。五感と意識の活動による。

 坐禅によるものはその五感を閉じ思いを手放したところ、つまりいのちをむき出しにして実感するところものである。

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