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十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

ナンバーワン

2008年07月31日 | 人生

イチローが3000本安打したそうな。
現役プロ野球選手で安打を打つことでは世界一の男、ナンバーワンだ!


しかし、そんなナンバーワンは野球を知らない者、関心のない者にとって何の価値もない。<何だ、そんなもの>ということになる。


もうすぐオリンピックが始まり金メダルの争奪戦で世界中が大騒ぎすることになるであろうが、我輩にとっては暑い最中に余計暑苦しくなるだけでいい迷惑というものである。


そんなことより誰でも世界一のものを持っているのである。


それは「己が己を生きることである」。これは誰にも追随をゆるさない、つまりナンバーワンだ。このナンバーワンはいかなる境涯に陥ろうがその地位から落ちることはない。ゆえにオンリーワンでもある。


これを天上天下唯我独尊という。


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絶対的自信

2008年07月29日 | 人生

 どれだけの人が絶対的自信というものを持っているだろうか。
自信を持って生きている感じの人ってあまり見かけない。何か頼りなげである。

 自信のありそうな人に「どんなことに自信があるか」と尋ねると、「人より〇〇が得意」程度のことで、それでは上には上があるだろうし、それに何か障害が生じて駄目になるなんてことがよくある話である。人と比較の話はとても絶対とはいえない。

 絶対といえば信仰を持ち出す人がいるだろう。信仰する神や仏に自分の命だって投げ出す。たいへんな自信というべきであろう。しかし、この絶対ははなはだ主観的なものであり、普遍性がない。キリスト教信者は仏を信じないだろうし、仏教者はキリスト教の神を信じないであろう。

 では、何を絶対的自信とすべきなのか。
 「自分が今生きている」ということである。
 これは何人も否定できないし、普遍的事実なのである。

 自分が今生きているという事実は全てに優先するのである。
 というのは、あらゆるものは自分が今生きて体験することによって存在することになるからである。体験しない、知らないものは自分にとって存在するものとはならないのである。

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命あっての物種

2008年07月26日 | 生命

自殺者3万人超、リストカッター100万人。
はっきり言ってバカだ。若い者が命のいの字も知らずに死ぬなんてことは許されない。どうしても死にたいというなら次のことを考えてもらいたい。


 自殺はこの世から自らを消してしまう行為だから、事前に自分を消すことをイメージすること。全否定するのである。
 まず、自分の名前の書かれているものを全部消す。
 戸籍、住民票、健康保険、年金、パスポート、学校の各種名簿、銀行、郵便局etc なんかの紙に書かれたもの、コンピューターに登録されたもの、いっぱいある。それを全部消す。
 
 写真なんかも全て消す。集合写真は自分だけ消すわけにいかないから他の人が持っているものも全部消える。
 自分が作ったもの、壊したもの。飲んだもの、食ったもの。
全部消すなり、元に戻すとしたらこの世界はぶっ壊れてしまうことは容易に想像できるだろう。
たとえば、銀行に何がしかのお金が預けてあるとする、当然コンピューターでデータ管理されている。それをないとする。あるものがないとするならシステムが壊れていることになる。


君は既にこの世を造り替えてしまったのである。君を外してこの世は成り立たないのである。欠くべからざる存在なのである。
君は君が造り替えた世界に責任があるのである。その責任を放棄してはならない。


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死後の世界なんてありゃせんわい

2008年07月18日 | 生命

医師・歯科医の死生観でも紹介したように、合理的思考力を持っている思える人もいい加減にしか死というものを考えていない。こんなことでは自分の人生を間違うことになるし、ましてや他人の生命を扱う者がいい加減であってほしくない。

ここでは死後の世界をはっきり否定しておくこととする。

1 前に述べたように自分の死は体験できない。当然、死後の世界を体験できない。
2 死んで生き返った者はいない。死の体験者はいないのである。よって、体験として死を語られることは未だかつて一度もない。
3 生き返ったと称するのは仮死、臨死からのもので生の側での体験である。
4 一口に死後の世界といっても、宗教によって説く人によってみな違う。言い伝えられたことを勝手な想像を交えて言っているに過ぎない。定説はないのである。
5 死後の世界は自然界を探してもどこにもない。天空を探しても地中を探してもどこにもない。ロケットも望遠鏡もボーリング機械もなかった時代の想像的産物である。
6 死んだら終いという考えに立つと刹那主義に陥り倫理感がなくなる、一方死後の世界があればそこで因果応報の原理が働く。生前の行為の良し悪しが死後の世界の世界のあり方を決めるとなれば勧善懲悪の教えも生き、この世もよくなる。というようなことを宗教家がいったりする。それウソ話の有用性を説いているだけであって無知なる者を欺いているにすぎない。
7 生命というものは非常に複雑なものである。生命を形成する遺伝情報は大きな百科辞典700冊にも及ぶらしい。そんな情報が火の玉ごときものにどのように載っかるのか。情報というものは物的媒体の上に載っているのである。
8 こんなことをいう奴がいる。
  「死後の世界はあるかないか、分からない。もし、ないとして生きて死んであったらどうするのだ、なんの用意もできていない、ろくでもない人生が待っている。あるとしてなかったとしても、ないとしてなかったとしてもないのであるから同じである。だから、あるとした方がよい、私はそちらを選ぶ。」と。
  死という絶対事実に俗世の功利的考えを持ってくる、タワケというしかない。
9 また、あるカルト宗教の信者に、死後の世界はどこにあるのかと質問したら、「死後の世界はある、主宰先生がいわれるには次元の違う世界なのである。先生は9次元の世界が見えるのである、先生の言われることは間違いない。私はそれを信じる」
  この信者はすぐ次元を変えてくる、次元を変えて現実から逃げてしまうのである。
  この教団の広告塔と呼ばれた作家Kは火事で焼け死ぬのであるが、普通なら非業の死と呼ぶべきところ、これを「この世を卒業し次元の高い世界で修行に入られた」というのである。
10 仏教は無霊魂説である。
   釈尊は死後の世界のことについて言及されなかった。これを無記、または捨置という。
   それなのに死者の霊魂を説く、坊ンさんて何?
   内山老師のように生き残った者の中の亡き人の残映だと説く坊ンさんがどれだけいる?
  

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不幸な人間が世界を背負っている

2008年07月17日 | 人生
宮沢賢治の言葉に
「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのがある。これをえらく感心する人がいる。
世界全体の幸福なんてものがはたして有りうるのかどうか、有り得っこない。有り得っこないことを口走ってみても意味がない。

しかし、よ~く考えてみると宮沢賢治の言葉を有効ならしめることもないことはない。自分自身が世界で一番不幸な人間となることである。しからば、自分以外の者はみな自分よりは幸福ということになる。それは自分にとって幸福なことであるはず。で、世界全体が幸福となる。

自分が不幸であればあるほど、それより幸福な人が増える。喜ぶべし。自分が幸福であればあるほどそれより不幸な人が増える。嘆くべし。
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不幸のどん底

2008年07月15日 | 人生
内山老師の逸話を一つ。

ある地方に講演に行かれた時のこと。
会場に入ると異様な様相、前の方に某宗教団体の信者が大勢陣取り、地元の人は後ろの方に追いやられて坐っていた。早い時間にトラックに分乗し大勢で乗り込んで来たらしい。
講演の後質問をし講師をやり込めるのが目的で、何宗の説教にはこういう話が出るから出たらこういう質問をするというマニュアルができていて、講師が応えられず立ち往生ということになれば「勝った、勝った」と喜び、自分らの信仰が上だと誇示するのである。そしてそれをネタに信者を増やすのだという。

まあ、よほど勉強した者でも何故、何故を連発されれば答に窮するのが当たり前、受身に回ってしまってはお終いである。

さて、老師の話が一通り終わって、質問の時間が設けられていたので代表の者が質問に立った。ところが、老師はそんな質問マニュアルに出てくるような話はされない。いわゆる仏教言葉は現代の平言葉で話されるので質問者はマニュアルにある質問はできないで困ったのでしょう。
で、「先生の話では幸福になれません」と言った。老師は「幸福という言葉は漠然とした言葉です。あなたのいう幸福とは具体的にはどういうことなのか、それをお聞きしないと答えようがありません」と逆質問をしたら、一瞬とまどった顔をして「結局、金と健康でしょう」と答えた。アテがはずれてつい本音が出てしまった。

そこで、「あなたもいずれ死ぬ時が来るでしょう。死に掛かっているのだから、不健康の極みでしょうし、いくらお金を持っていても使いようもなく死に行くあなたには何の価値もないでしょう。金と健康を幸福とするなら、あなたは不幸のどん底で死ぬことになるのですね」と老師が言ったら、こらアカンと思ったのだろう。逃げるように帰ってしまったということである。

まあ、こういう宗教団体にあっては信仰も自分の欲望を満足させるための手段に過ぎず、神、仏もムシンの対象でしかない。
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幸福という名の不幸

2008年07月13日 | 人生
日本国憲法第13条には幸福追求権が認められている。
ところが幸福って何と聞かれたら、簡単には答えられない。せいぜい「より良い生活」や「欲望の満足」くらいのところではないのか。学校へ行ったり、会社へ行ったりもそのためになってしまっている。よりよい生活の追求や欲望の満足をあからさまに言うと憚られるので、オブラートに包んで幸福と呼んでいるのである。

しかし、幸福を求めるということは幸福ではない状態、つまり、不幸であるということ。
好き同士がくっついて「私、幸福になりました」と幸福感に浸っていることもあるわけだが、その幸福がいつ崩れるか分からないのである。幸福状態の中にいつ不幸に陥る恐れが内包されているのである。
そして最後に死に臨めばその幸福状態も完全に崩壊し、決定的不幸状態に陥るのである。

「幸せなら手を叩こう、パン、パン!幸福なんて幼稚園児の使う言葉だよ」(内山興正)

「おのれ一人の幸福なんてどうでもいい」、というところまで往かなければ不幸から脱することはできないということ。
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決定の説は真僧を表す

2008年07月11日 | 佛教
禅門でよく読まれる証道歌という書物に「決定の説は真僧を表す」と言葉がある。
決定は<けつじょう>と読む。こうも考えられる、ああも考えられると曖昧なことは言わない。これはこうだと決定的なことしか言わない。それが本当の僧である。

内山興正老師、その師匠の沢木興道老師も決定の説しか説かれない。
私もそれに見習いたい。
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医師・歯科医の死生観

2008年07月10日 | 生命
平成6年ごろある病院に事務職として勤めていたことがある。そこで見つけた雑誌の記事の断片を紹介する。

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医師・歯科医の死生観 保団連調査 (社会保険旬報94.11)
医師・歯科医師のうち、死後の世界の存在を信じるのは23%、回復至難の植物状態での延命処置に反対なのは81%、脳死を死と認める(認めたい)のは78%…。こんな結果が、全国保険医団体連合会の「現代の生と死に関する医師・歯科医師意識調査」(94.2月)で明らかになった。
この調査は、3044名の①死②終末期医療と尊厳死③脳死と臓器移植に対する考え方を調べたもの。
まず死に対する考え方をみると、「死後の世界はある」と考える人は23%で、「ない」46%の半分。ただし、35歳未満では「ある」39%、「ない」24%と逆転現象が生じている。
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14年前の意識調査であるが、ビックリする様な結果が出ている。若い連中はもっとパーセントが上がっているのではないかと懸念する。生命のリセットが効くような考えを持った医者なんか危なくて仕方がない。
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真実とは

2008年07月09日 | 人生
真実は何か。これは定義だから、私がゴチャゴチャ書くより長年考えてこられた内山興正老師の言葉を紹介した方がよいだろう。

「正法眼蔵八大人覚(しょうぼうげんぞうはちだいにんがく)を味わう」(大法輪閣)から

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 「死」は絶対事実です。思っても思わなくても、疑っても信じても、肯定しても否定しても必ず死ぬ。
 このような絶対事実に澄浄(ちょうじょう)する、絶対事実に随順して絶対事実に帰っていく、絶対事実に落ち着くことを、真実という。
 私は中学生のころに「オレは真実に生きよう」と発心しました。この発心が私の一生の出発点でした。しかしそのころは肝腎な「真実」とは何かがよく分かっていなかった。真実とは「絶対事実に落ち着く」ことだと、定義してはっきりいえるようになったのは、ついこのごろのことです。
 そうと分かって仏教の経典に照らし合わせてみると、経典にもそういう意味で書いてある。要するに絶対事実に随順することが真実であり、善であり、反対に随順しないであがくことが不真実であり、悪であるということです。
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要は絶対事実に随順すればいいのである。どんなものが絶対事実でどんなものが絶対事実でないか、別の機会に独り言させていただくこととする。
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死者の霊魂とは

2008年07月06日 | 生命
今回は内山興正老師の「死」という詩を紹介する。

           死

人間は思い固めで生きている
死とはこの思い固めを
手放さねばならぬ時である
高くのぼせて
深く思い固めていればいるほど
その思い固めたアタマにとって
落差の衝撃は大きい

死は生の続きではない
死は 生前の思いの
延長線上にあるのではない

死者の霊魂とは
生き残っているものの間に漂う
亡き人の残映である
自分の死とは
そうした思いさえも手放された
絶対地盤である


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死者の霊魂も地獄も極楽も生きている者の心のうちにあるということである。
たとえば私の心の内には地獄も極楽もない。勿論そこに住まうべき霊魂もないのである。
一方、地獄・極楽を信じる者は心の内にその世界を構築しそこに死者を住まわせるのである。「地獄に落ちろ」といえば、地獄をしつらえ地獄の鬼にならなければならないことを知っておくべきだ。


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生を明らめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり

2008年07月05日 | 佛教
生に暗く死に冥い人生は虚しいと書いたが、曹洞宗の修証義にも
「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」とある。
で、仏教はまず死を明らかにせよと教える。死が明らかにならなければ生の本当の意味も分からないからである。

ところが、どの宗教も死について死後の世界を持ち出してくる。誰も死後の世界なんてみたことがない。死んで生き返った者は一人もいない。つまり体験者がいないのにである。
仮死体験、臨死体験は確かにあるが、それはまだ死んでいない。生の側にあるのである。それを死を体験してきたように言う者がいる。死に損なった者のヨタ話を信用しかけがえのない己の人生をそれにまかせることの愚かしさ、憐れむべし。

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自己の死はない

2008年07月04日 | 生命
昨日 「他人(ひと)の死はあるけれども、自己の死はない」と書いた。このことを思いついた時、俺ってすごいと思ったが、しばらくして朝日新聞の記事に、紀元前のギリシャの哲学者エピクロスの手紙の一節に次の言葉が紹介されていた。

<私が存在する時には、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない>

 ダーッと思ったが、「他人の死はあるけれども」は私のオリジナルかな、なんちゃって(^^ゞ
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死死死死死

2008年07月02日 | 人生
先ほどブログの管理画面を開けてみると、訪問者30人、閲覧数52件とあった。
多くの方に見ていただいていることを思うと嬉しい気持ちと同時に責任も感じてしまう。

 さて、最初の独り言は、弘法大師空海の秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)から引いたことばを素に死について考える。

生生生生始生暗 死死死死終死冥

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く

 次から次と人は生まれて地球上には67億の人がいる。
 全部とは言わないが、大概の人は、何のために生まれてきたのか。どのように生まれてきたのか。何故生きなければならないのかなんて考えてみたことがない。考えてみてもなかなか答えは出ない。そして投げ出す。欲の命ずるままその日その日を暮らしているのが実情じゃないのか。

死に死に死に死んで死の終りに冥し(くらし)

 その日暮らしの末、死ぬことになるのが、死ぬこともまともに考えたことがない。
 で、死んだら終いという人もおれば、天国たら、地獄たら、極楽へ行くと人もいる。生まれ変わるという人もいる。

 要するに何にも分かっていないのである。
 生まれも分からず、死も知らず、なら、その真ん中は分かったつもりで分かっちゃいないということになる。

 で、初っ端の今日は死について決定的事実を一つ挙げてみよう。
 「自己は自己の死を体験できない」ということである。
 「他人の死はあるけれども、自己の死はない」のである。体験主体が無くなるのであるから当然のことなのである。
 この事実を知れば、死ぬことなんか、ちっとも怖くない。
 勿論、この事実を知っても生存本能がある以上死にたくない思いはある。どうせ、死に至る過程では痛い、苦しい目に合わなければならない。しかし、自己の死そのものに対する恐怖がなくなることは間違いない。
 「死ぬのが怖い」「死んだならどうなる」なんて、思い悩んでいるのはまだ生きている証拠なのである。
 


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ネット寺院 「共生山一法寺」開設

2008年07月01日 | 共生

 私こと、一法は昨日6月30日でサラリーマンしての勤めを終え、今日から年金生活者となりました。
 自由な時間がたっぷりあるのでブログで思うところを書き込んでみたいと思います。

 共生山一法寺は、<ぐしょうざんいっぽうじ>と呼称します。共生は今はやりのキーワード、共生(きょうせい)の意ですが、仏教読みで<ぐしょう>と致しました。

 この共生山一法寺は地上に実在する寺院ではなくネット上の架空の寺であり、もともとパソコン通信ニフティサーブの会議室を借りて平成10年から15年まで開設していたものであります。
 その会議室で有縁の方々といろいろ話をさせていただいたのですが、今回は形を変えブログで私の独り言を掲載させていただくつもりです。
 独り言ですからコメントをいただきましても原則としてご返事は致しませんが、大事なことは独り言の中でお話させていただくつもりです。

 いつまで続けられるか分かりませんが、よろしくお願いいたします。m(__)m
 

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