十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

形見とて何残すらむーー「自己生命図」

2015年11月30日 | 生命

若かりし頃人生の見通しが立たず悩みっぱなしだったが、内山老師の自己生命図でこれで生きていけると思った。

老師の生命図を機会ある毎に人に紹介もしてきたが、感動したという人が滅多に現れない。ここでもコメントが入ったことが一度もない。中にはケチをつける人までいる。認識世界の中にいるのにそれをそのまま真実だと思い込んでしまっているのである。この思い込みから脱却するのはなかなか難しい。

そこでここ1年ほど図を変えて説明してきたのであるが、自分でももう一つ感がある。今回改善を加えた。これが最終版である。字句等より適切なものがあれば修正はするかも知れないが、基本図は変えない。


図の解説をすると、以前のものに大きい円を描いた。宇宙である。前は余白が宇宙のつもりだったが、やはり、分かりづらい。

この、宇宙がお釈迦さんも分からない、望遠鏡もなかったし分かるはずもない。しかし、現代科学は次第にそれを解明してきた。

宇宙は原初、素粒子よりも小さなものだったが、インフレーション(急膨張)し、センチ大の大きさとなった。そこで相変異が起こって光と熱の火の玉となる。相変異とは液体が気体となるといった相が変わる現象である。その火の玉が爆発的に拡大して今の宇宙になった、ビッグバン宇宙である。最新の計算ではビッグバンから138億年、その広がりは470億光年、未だ拡大が続いている。

宇宙は今や大きく広がってバラバラしているようだけれど、元は一つの塊、それは何の塊か、それは力、パワーの塊としかいいようがないと思う。その力が宇宙全体を余すところなく覆っていて、宇宙は今もって一つの塊である。

宇宙の本質は力、宇宙力である。その力でいろんなものが生み出されてきた。宇宙としては自らを変化させているということになる。人間生命もその力によって生み出されたものである。生命力は宇宙力なのである。
だから、宇宙を生命体と見なすことができる。我々はその宇宙生命の一欠片で同じ一つの生命力を生きているのである。
そうするとその生命力は宇宙から来ると考えてしまうが実はその生命力の一翼を個々の生命が担っているのである。

宇宙生命があって我々の生命がある。我々の生命があって宇宙生命もある。一体なのである。

宇宙生命があって我々の生命がある。このことを知ることによって安らぎを得ることができる。
我々の生命があって宇宙生命もある。このことを知ることによって生き甲斐を得ることができる。自由でもある。

さて、この宇宙に実際に存在するものを「真実」と私は呼ぶ。一般的な辞書的な意味とは使い方が違うから注意。以下の現実、事実も同じである。

さりながら、その真実を我々知りうるかというとそうはいかない。知ろうとすれば五感を用いるしか仕方がない。自分の目で見たものは間違いないと皆妙に自信を持っているが、ところがこの五感がいい加減なものでしかない。何か物を見たといっても決してそのものを見たわけではなく、表面の反射光、あるいは発光を見ているに過ぎないのである。鏡で見た自分の顔など所詮は光の影、鏡を覗いた瞬間、表情を見やすい顔に変えてしまっているものでもある。

今、ここで五感で真実相をサーチして五感で捉えているものが現実と私はいうのである。私のように近乱老乾白緑の眼ではいささか心許ない。眼鏡をかければ世界が劇的に変わる。そんなものなのである。そんな世界を生きなければならない。五感という認識力に大きく依存しているのである。

真実から不確かな情報であるとしてもこの現実相から取り入れるしか仕方がない。行為もこの現実相で行われる、行為は今、ここでしかできない。今ここで真実に手を加え動かし変えていくということが行われるのである。

五官というセンサーで取り入れられた情報は頭の中で情報処理され頭の中のスクリーンに投影されそれを認識する。認識されたものは頭の中の存在であるから私はそれを「事実」という。事実は情報によって形作られたもの、情報多くは過去情報である。体験したものがいっぱい蓄えられてある。それを恣意的に組み合わせるのであるからとんでもないものが出来上がっても不思議ではない。事実は決して真実ではない。

しかし、事実がその人の世界を形成するのである。もっといえば真実と思い込んだ事実がその人の世界を構成するのである。

禅が真実と事実の接点である「今、ここ、自己」と重視するのはここである。

結論、誰でもたった1つの宇宙生命を共有し真実を生きている。しかし、その真実は知り得ない。現実においてわずかに捉えられる真実からの情報を大事にし、それで自己の認識世界を創造していくしかない。その認識世界の中で現に生きているのであり、その中の事実に基づいて真実を揺り動かしているのだということ。 

(追記)図が一部違っていたので差し替えました。 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

形見とて何残すらむ

2015年11月29日 | 生命

先日、叔母のところへ電話をかけたが、なかなか電話に出ない。切りかけたところでやっと出た。「今、ちょうど司法書士さんに来てもらったとこ。後で」というので、2時間後にかけ直した。司法書士というから、遺言書の作成でもするのかと思っていたらやはりそうだった。
叔母には主人は遠の昔に亡くなり子供もいない。2年前には死にかけたことがあったし、最近は体調も不調気味、で後のことも考えたのであろう。

吾輩も病気自慢で書いたように、そろそろ危険水域に差し掛かってきたことを実感するが、財産があるわけでもなし、子供もいることだから法律的に処理すれば済むこととで叔母のような遺言書を作るつもりは今のところない。

良寛さんの歌に『形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉』というのがある。これでいいのだと思いつつも、生きた証となるものを何か残しておきたい気がする。
文才があれば本の一冊でも書いておきたいという気はずっと持っていたが、かかる拙文では・・・。文学者で歌人の折口信夫と親戚になるのだが、その文才の欠片でもあったらと思ってしまう。

仕方がない。で、私の形見としたいものは、「自己生命図」である。

元は内山興正老師の自己生命図で、それを発展させたものである。

昭和45年、今から47年前に安泰寺へ行くようになり、丁度その時期に「人生料理の本」が出版された。その本の中にあった老師の自己生命図に青天の霹靂ともいうべき衝撃を受けた。
普通の考えでは、まず出来上がった世界、宇宙であったり、地球であったりするのだが、そこに生まれてきて生きて死ぬと考える。確かに考えてみればそうである。しかし、それは自分を外から客観視しているのである。客観視するのも大事であるが、本来主観的に生きているのが人間である。生命の実物としての世界は体験している世界こそ現に生きている世界なのである。
澤木老師のいう「世界を持って生まれてきて、世界を持って死んでいく」ということなのである。

そしたら主観だけでとなると、他者との関係が上手くいかない。主観と主観のぶつかり合いでは意思疎通が上手くいかない。
主観と客観の使い分けが大事ということになる。いや、主客を分けないという見方が佛法的見方なのである。つまり、生命的に繋がっているといういうことなのである。

内山老師の言葉に「出逢うところわが生命」というのがある。これも「人生料理の本」で知ったのだが、実に素晴らしい。嬉しいことがあったら「出逢うところわが生命」、嬉しさが倍加する。辛いことに出逢っても「出逢うところわが生命」と胸を撫で下ろす。私の呪文である。

生命が世界ぐるみであらゆるものとの繋がりを知って、「出逢うところわが生命」と称える。坐禅は坐禅で素晴らしいものだが、坐禅修行しなくても、これで結構生きていける、私もなんとか以後47年生きてきた。請け合える。

さて、私の自己生命図であるが佛教的にはどうかという思いがある、つまり、科学的な考えを入れ込んでいるからである。しかし、これからはこうでなくてはと思う。顕微鏡も望遠鏡もなかった時代の世界観では駄目で説得力を持たない。
昔は西方に極楽があるなんて素朴に信じていたのであろうが、今は誰も信じない。


我が自己生命図は次稿で。
以前の分を改変しています。これが形見のつもりですから最終版です。
とか言いつつ、また、手直しするかも知れませんが・・・

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

拓殖大国際学部の呉善花教授の講演「韓国人はなぜ日本を嫌うのか」

2015年11月27日 | 共生

11月22日に紹介した拓殖大国際学部の呉善花(オ・ソンファ)教授の講演「韓国人はなぜ日本を嫌うのか」の詳報が出たので、ご覧あれ。

(1)「韓国は甘えている」「日本人は自信持ち主張を」「韓流ドラマに価値観の違い」

http://www.sankei.com/west/news/151127/wst1511270022-n1.html

(2)「若者は日本の精神に飢えています」「ご飯の食べ方さえ日韓の差異」

http://www.sankei.com/west/news/151127/wst1511270023-n1.html

(3)完「韓国では真実を教えてはいけない」「日本が素晴らしい事をしたのを知らない」

http://www.sankei.com/west/news/151127/wst1511270024-n1.html

いずれも数ページに渉っているのでページを繰ってください。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「韓国は人間関係を国家関係にあてはめて甘えている」 

2015年11月22日 | 共生

韓国からの帰化人 拓殖大国際学部の呉善花(オ・ソンファ)教授の講演、「韓国は人間関係を国家関係にあてはめて甘えている」 

という産経WESTの記事に納得。向こうが兄でこっちが弟、弟が兄を虐げているのはけしからん、儒教の教えに反するというのが、韓国の凝り固まった頭である。

http://www.sankei.com/west/news/151121/wst1511210086-n1.html

ついでに↓これもご覧あれ。

「日韓併合は日本の侵略・収奪ではない…韓国や左翼言論人の捏造に反論、呉善花教授の講演で“目からうろこ”」

http://www.sankei.com/west/news/151120/wst1511200013-n1.html

まあ、日韓併合に反対していた伊藤博文を暗殺したテロリスト安重根が国の英雄なんだから、どうかしている。
テロリズムを認めている国が隣に存在するのはぶっ騒極まりない。

呉善花さん、ちゃんとわかっている人もいるんだね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「宗教持つ馬鹿 持たぬ馬鹿」

2015年11月20日 | 人生

この言葉はいつ、どこで知ったのか、すっかり忘れているが、言葉だけはよく憶えている。
「持たぬ馬鹿」は、これははっきりしていて宗教に関心がなく馬鹿にしているような人間は馬鹿に決まっている。
宗教の宗という字は、一番大切なもの、尊崇すべきものの意味だから、宗教は一番大切なものは何か、どんなものか、それをどのように大切にするのかということを教えるものと言ってもよい。

そのことに思いを到らせないとしたら、人生を無駄に過ごしているというと言い過ぎかも知れないが、少なくともちょっと足りていないと気がする。折角の人生なのに勿体ないと思う。

一方、「持つ馬鹿」は、これはどうしようもない。ちょうど先週13日の金曜日にパリで連続テロ事件が起こった。これなんかは「持つ馬鹿」の典型で「持たぬ馬鹿」より始末が悪い。「持たぬ馬鹿」は無知なる馬鹿だが、「持つ馬鹿」は狂った馬鹿、洗脳が解かれないかぎりどうしようもない。

宗教の効用とするところは、安らぎと生き甲斐を与えてくれるところである。しかし、得てしてそれが束縛された中での安らぎと生き甲斐である。たとえば、これは係留されたアドバルーンみたいなものである。繋がれていることによって安心がロープの範囲の中だけでは好きに動ける。それで満足するなら、安らぎと生き甲斐を得たということになる。しかし、自由を奪われているともいえる。熱気球なら遠くへ飛んで行くことができる。自由度は大きい。そのかわりリスクが伴う、つまり、安心感が減ずるのは止む得ない。
自由と安らぎと生き甲斐のバランスの問題になってくる。誰しも生きる上にこれのバランスを考えて行動しているといえるないか。

しかし、真正の宗教においては、自由と安らぎと生き甲斐が無条件で与えられるものでなければならない。

そう、自己が自己において完結するしかないのである。
「自己の拠り所は自己のみなり。他に帰依することなかれ」(釈尊)

「行き先に我が家ありけり かたつむり」
このかたつむりは、自由も安らぎも生き甲斐もちゃんと持っている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする