十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

南無釈迦牟尼佛

2012年03月30日 | 佛教

 平均寿命までは後10年あるが古稀を超えてここまで来れば、体力に自信のない私はいつ何時か分からない。
 寝込んでしまえば坐禅はできない。もともと坐禅は佛法としては素晴らしいものと理解しているが実際にやる段になるとサボり勝ちでちょっと坐るだけでお茶を濁している。

 寝込めばどうなるか、臥禅というものがある。やってみたことがあるがすぐ寝てしまい駄目だった経験がある。

 内山老師も歳がいって坐禅ができなくなれば念佛するのがよいと言われていた。それで、今年の正月から念佛することを思い立ち暇な時思い出しては念佛するようにしている。
 
 念佛といえばまず「南無阿弥陀佛」、実家の宗旨は浄土宗なのだが、私としては「南無釈迦牟尼佛」で行きたいのである。阿弥陀佛は衆生救済を願とする不滅の佛であるが、大乗佛教興隆の時代に釈尊をモデルにした考えだされた佛であり、その架空性が私にはしっくりこないのである。やはり私としては実在されたお釈迦様の方が親しみを感じる。

 「ナムシャカムニブツ」。ちょっとした時間の隙間で称えている。声を出す時もあるし無言のまま口の中だけで称えている時もある。合掌する時もあるししない時もある。
 正月から始めて習慣づいて来たところである。

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安泰寺住職ネルケ無方さんの講演

2012年03月22日 | 佛教

 安泰寺のネルケ無方さんの講演が予定されていますので、お知らせします。

3月24日(土)、大阪中之島朝日カルチャーセンター
11:00~12:30 講演  「迷いながら生きる 禅の知恵」
「一瞬一瞬、己の生きる姿勢が問われています。何が正解か、いまだ分かりませんが、坐禅に問われ、作務に問われ、家庭生活に問われ、この迷える日々こそ私の修行です。「迷える者の禅修行」を人々と分かち合うことこそ、私のつとめです。」
13:30~15:00 「坐禅 ただ坐る!現代人のための坐禅体験」
多くの日本人に欠けているのは、人生のバックボーンとなる精神的なものではないでしょうか。しかし、現代人が、精神的なもの=「こころ」以前に忘れてしまったもの、それはこの「からだ」だと思います。背骨を伸ばして、文字通りのバックボーンを再発見してみませんか。

受講会費:29??円 受講可能か事前に確かめてください。 

越前市国際交流協会
日 時: 3月25日(日)午後2時~3時30分
会 場: 越前市福祉健康センター4階 多目的ホール
講 師: ネルケ無方
演 題: 「迷える者」 ~ドイツ人禅僧が語る「違いを通してみえてきたこと」~
入場料: 無料

 

 

 

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波羅蜜

2012年03月20日 | 佛教

 今日は彼岸の中日。で、彼岸の意味を考えてみたい。 

 波羅蜜は「パーラミター」の音写「波羅蜜多」の多をとったもの。漢訳して「彼岸に渡った」という意味で「到彼岸」と言われている。

 ところが、私がここで自己の世界を持とうと言っている趣旨からするとピンとこないのである。

 何となれば全宇宙が我が世界だと言っているのだから、此岸も彼岸も自己世界なのだから、2つの世界が対立的に存在しているわけではないのである。とすれば、2つの世界を渡って移動するというのはイメージに合わないということなのである。自己の此岸的世界が変じて彼岸的世界になる。つまり、映画の場面が切り替わると感じになる。荒れた乱れた風景が平和な美しい風景に切り替わる、切り替えるのは自己の心、心が変われば心象も変わる。

 現在では波羅蜜を「完成」と解釈する人もいますが、私はそれに賛同したい。覚りの世界の完成である。

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春の詩

2012年03月15日 | 佛教

 今日、妻が「着いていたわよ」と渡してくれたのは、村上光照老師からの葉書だった。葉書には詩だけが書かれていた。

 村上老師は今、伊豆の松崎町に庵を構え、全国に坐禅に行かれることが多い。テレビでの出演を2,3回見たこともある。私は老師とは44,5前に出会い、禅に関心を持つきっかけになってもらった人である。

 さて、その詩だがなかなかよかったので紹介する。ここに書けば記録にもなるので。

      この朝の
   春の匂いの この雨は
    めぐみのいのち
           みちみちて
   ナムアミダブツ と
           ふりにける
   それは、しづかに、ふりにけり。
     

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老人六歌仙

2012年03月05日 | 佛教

 ヤフーの知恵袋に出入りしているが回答を書く中で仙和尚の老人を戒める、『老人六歌仙』なるものがあるのを思い出したのでそれを紹介した。
  なかなか面白いし自分にも当て嵌まるところが多々あり身につまされる。
  仙和尚は仙義梵(せんがい ぎぼん、寛延3年(1750年) - 天保8年(1837年))は江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家。禅味溢れる絵画で知られる。

◎しわがよる、ほくろができる、腰まがる、頭は禿げる髪白くなる。
◎手は慄う、足はよろめく、歯は抜ける、耳は聞こえず目はうとくなる
◎身に添うは頭巾・襟巻・杖・眼鏡・タンポ温石手便孫の手
◎くどくなる、短気になる、出しゃばりたがる、世話やきたがる
◎聞きたがる、死にともながる、淋しがる、心がひがむ、慾ぶかくなる
◎またしても同じ話に孫褒める、達者自慢に人はいやがる

 仙和尚のエピソードとして有名なのは、最期の時を迎え、さぞ立派な言葉を残したであろうところ、なんと臨終の仙さんの口から出た言葉は「死にとうない、死にとうない」であった。まさかこんな言葉が出るとは予想もしなかった弟子達はあわててその真意を訪ねたが「ほんまに、ほんまに」といったと伝えられている。

 老人六歌仙の中に「死にともながる」とあるが、まさにそれ。
 しかし、それでいいのだと思う。そう思いつつそれぐるみ死ぬのだから。
 山岡鉄舟は坐脱(坐禅したまま死ぬこと)したというが、死ぬのにそんなパフォーマンスは無用だと思うのである。 

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