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十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

観音さまが見てござる

2009年02月23日 | 人生

 正法眼蔵洗浄の巻に「身心をきよむるのみにあらず、國土樹下をもきよむるなり」とあるが、入浴は単に身体を清めることだけでなく、自身の取り巻く世界をも清める行為とある。 


 ところで、我が家のユニットバスの壁パネルの模様に写真のような観音菩薩の姿が見える。数えてみたら11体。
 前後左右どこからでも観音さんが見てござるから、行儀の悪いことはできないのが有難いことである。


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因果な商売3

2009年02月22日 | 共生

 敵なり、悪者がいるため、それに対抗するために必要とされる職業がある。自衛隊員、警察官なんかそうである。


 自衛隊は仮想敵国があればこそ存在意義がある。金正日は日本からすれば難儀な人物だし、中国なんかも軍事的に日本にちょっかいかけてくる厄介ものだが、そのおかげで自衛隊も存在しうるのである。


 警察も犯罪者が存在するためにそれを捕まえるため必要な存在である。泥棒が警察に捕まって「お前ら、ワシ等がいるから御まんまが食えるのだ。」と言ったとか。警察の存在も犯罪者に依存しているところがある。


 敵と味方、善と悪が持ちつ持たれつ共存しているのが世の実相なのである。


 それはそうと、ウイルスを作る奴はけしからん奴だが、ワクチンを作っているソフト会社は有難がっているのではないか。高いソフトを買わされる我々ユーザーこそいいツラの皮である。その元凶はというと欠陥だらけのOSを作っているマイクロ・ソフトだが、その親玉で数兆円もの金を儲けたビル・ゲイツなんて大泥棒である。そしてその盗んだ金をばら撒いて慈善のつもりでいるのは笑止千万。そんなのを有難がったり、エライを思っている人も世の中には大勢いるんだろうねえ。

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因果な商売2

2009年02月20日 | 共生

 ある坊さんから聞いた話。


 その坊さんが寄り合う機会があってそれに参加した時、地元の坊さんの会話を聞いて驚いた。


坊主A:近頃葬式が少のうなって、寺のやりくりが大変、難儀なこ
     っちゃ。
坊主B:うちもそうや。皆、寿命がのびて死なんようになったから
     のう。しかし、いずれは皆死ぬのだから、遅れるだけの
     ことだわさ。
坊主A:まあ、そういうこっちゃな。


 実際にどういう風に言ったかは忘れてしまったので、坊主A,Bの会話は私の創作、どっかの方言入り混じりでけったいな会話になっているが、坊さんが葬式が減って今までの生活が維持できないとぼやいていて将来に期待しているという話なのである。


 死人が出れば死体の始末をつけなければならない。さすれば寺も葬儀屋も必要な存在であることは間違いない。平生は死人の出るのを待っているのであるが、待っているが待機の意味ならいいとして、収入を得んがために待っている、期待している、となると如何なものか。

 葬式の連絡が入って「しめた!」と思わぬ坊さんがどれだけいるだろうか。

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因果な商売1

2009年02月19日 | 共生

 今日、ある病院へ患者見舞に行った時に、往時のことを思い出したのでそれを書いてみる。 


 一時期とある公立病院に事務職として勤めていたことがある。その時の出来事。その病院はご多分にもれず毎年収支は赤字が続いていた。公立病院とて赤字を出し続けるわけにいかないので、監督機関から経営改善が至上命題として下りてくる。


 収入面では入院患者を増えなければ改善が見込めないのであるが、その病院の利用率は大体が70%台、多い時で80%で偶に90%になる時もある程度、年間通せばやはり70%台に収まるものだった。


 ある時院長室にいたら、総婦長が入ってきて「利用率が100を超えました!」とにこにこしながら報告に入ってきた。院長もそれを聞いて「よかった、よかった」と大喜び。


 傍らでそれを聞いて私も院長も総婦長も経営改善に苦労していたことを知っていたので労をねぎらう意味で「よかったですね」と相槌を打ったものである。


 その後自席に戻って、数字の動きを見るうちに気がついた。「おいおい、患者が増えたといって喜んでいいのか」ってこと。どの患者も痛い、苦しい思いをしている、そういう人が増えたということを喜んでいいのか、素直に喜べないなあという思いが浮んできたのである。また、医療制度からみても負担が増大することは問題でもある。


 しかし、患者が来なければ病院はやっていけない。病院がつぶれれば医療サービスの低下を招く。


 医療事業というのはそういうジレンマを抱えているのである。そんなジレンマを感じず金儲けだけの医療関係者が結構多いように思われるが・・・。


 医療関係者は患者の痛み、苦しみを取り除くということに日夜邁進する。それは尊いことなのであるけれども、その裏で患者のその痛み、苦しみが飯の種になっているを自覚して業務に従事しなければならないと思う。


(注)利用率が100%を超えるのは、朝1人が退院、その病床  に午後1人入院したような場合、2人とカウントされるからである。当然診療報酬も2人分払われるのである。

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ガリレオ”それでも地球は回る”から367年

2009年02月16日 | 他教

  【ローマ15日共同】ローマ法王庁(バチカン)は15日、イタリアの科学者で天文学の父とされるガリレオ・ガリレイ(1564-1642年)をたたえるミサを死後367年たって初めて、ローマのサンタマリアデリアンジェリ教会で行った。バチカンは17世紀、ガリレオの地動説が聖書に反すると宗教裁判で有罪としたが、法王ベネディクト16世が昨年12月、初めて地動説を公式に認めた。ミサは「名誉回復」の象徴。(2009年2月15日(日)18時23分配信 共同通信)


 前法王が進化論を認め、現法王が地動説を認めた。宗教の持つ悪弊の一部が正され、神の領域がぐっと狭まった感じである。元々神なんてものは人間が考え出したものであるから、人間の考えでどうでもなる代物なのである。

 ところでローマ法王ベネディクト16世は先月24日、ナチスドイツ時代のユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を否定する発言をした英国人のリチャード・ウィリアムソン司教らの破門を撤回すると発表した。イスラエルのユダヤ人当局者は、これに強い不快感を示しているとの記事があり、法王に対する風当たりが強くなっているようである。


ベネディクト16世はドイツ出身。ドイツ出身のローマ教皇は950年ぶり。保守的な考えの持ち主であると言われ、同性愛や中絶に否定的である。若かりし頃はヒトラーユーゲントにも入隊、戦争も体験した。
 法王は映画「スター・ウォーズ」に出てくるシスの暗黒卿、ダース・ シディアスに容姿が似ているため、「暗黒卿」とか「老魔法王」と呼ばれるそうである。 

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千の風になって(考)2-追記

2009年02月13日 | 生命

千の風になって(考)2に追記します。


 実際には水が全て海に流れ込むわけでないし、かき混ぜて均等にするわけにもいかない。広範囲にわたって均質化するには相当長期間を要する間違いない。


 一方、人体を構成するのは水だけでない。残りの30~40%は酸素、窒素、炭素、カルシューム、その他ミネラルなどがあるが、それらも微粒子として分散し新たな命の構成要素となるのである。


 四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)の教えの集諦について、かくの如くの考えを取り入れると滅諦への繋がりがよくなるのではないかと思量する。

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千の風になって(考)2

2009年02月12日 | 生命

 千の風になって(考)にコメントをもらったのでもうちょっと考察を膨らませてみたい。

 

 人が死んだらどうなるか。構成要素がバラになる。バラになったものが新たな生命の構成要素となる。その循環が地球上で地球的広がりの中で行われているのは容易に想像がつく。それがどの程度のものか、深く追求されたことはないと思う。

 

 分りやすくするために水を例にとって考えてみよう。ネットを閲覧していたらいいのがあった。

 

 コップ一杯の水を全世界の海水に混ぜるという記事。
コップ一杯180ccの水を海水に注いで均一になるようにかき混ぜたとして、そのコップで水を汲んだら元のコップにあった水の分子はいくつ戻ってくるか。 答えは700個というもの。

 

 さて、死体に含まれる水分子の量は体重の60~70%、痩せた死体が多いだろうから、50Kgの人の60%として30Kg。コップの水の166.7倍。700個にこの倍数を掛けると116,690個

 

 次にそれを生まれたから死ぬまで人体を循環する水分子の数も考えてみよう。
 一日に必要な水分摂取量は2.5Lといわれている。
2.5L×365日×80年=73000L(Kg)

 

コップ一杯当り   700個×73000/0.18=28389万個
水分量30Kgの人には  473億2446万個
子供など1日2.5Lも摂取しない人も多いし、話半分としても途方のない数となる。

 

 御釈迦さんの寿命は80年、その身体を廻った水分子がそれだけ常時自分の身体に来てるとなると感慨が深い。

 

 「千の風になって」に話を戻すと、雪や鳥を〇としたのは、ご理解いただけると思う。
 光と星はそうはいかない。人間が出した空気中の水分や炭酸ガスの影響の屈折が変わったりすることは考えられるが、無視できるものでしかないと思う。とても太陽光や星になるとは言えない。

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千の風になって(考)=死んだらどうなる

2009年02月10日 | 生命

 「千の風になって」は2006年に秋川雅史の歌声でヒット、秋川はこの曲で紅白に3年連続で出場を果たした。

 この歌は人が死んだらどうなるか。従来の宗教の説く死後の世界で個体として生きるという考え方、個体が別の個体として生まれかわるという考え方、また、死んだらお終いという考え方もあるが、それらとは別のあり方を示している。


 多くの人に共感を呼んで、経済的事情もあって墓なんかいらないと人も増えているようである。かくいう私も墓無用論者である。「遺骨」なんて有難がっているが、要するにカスである。骨なんてものは生きている時は新陳代謝して老廃物して捨てられてしまうもの、10年も経てば全部入れ替わってしまうのである。
そんなものに手を合わせてみても仕方がないと思う。


  そこで、歌詞を検討してみよう。


≪私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています≫


 ここまではOKだが、次がおかしい。

≪秋には光になって 畑にふりそそぐ≫      ×
≪冬はダイヤのように きらめく雪になる≫    〇 
≪朝は鳥になって あなたを目覚めさせる≫   〇
≪夜は星になって あなたを見守る≫       ×

 星や畑にふりそそぐような光にはなれない。親に死なれた子供に「お星様になった」というようなメルヘンになってしまっている。 
雪や鳥になるのはあり得る話であって、これは私の採るところで「そうだ、そうだ」と言いたい。


 ”一滴の水も大海に入れば大海となり、一塊の塵芥も大地に埋もれば大地となる”


 我々はどこから生まれてきたのか、母なる大地、大海から生まれてきたのである。大地、大海は命の根源。死ぬとはその大地、大海に帰ること、つまり大地、大海になることである。その大地、大海から新しい命が生まれてくる。鳥も雪も風も生まれてくるのである。


 星や畑にふりそそぐような光は地球の外からの話なのでそうはいかないから否定せざるを得ない。

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宇宙一杯の生命

2009年02月08日 | 生命

毎年の年賀状には内山老師をまねて人生詩もどきのものを書いてきた。平成16年の年賀状には次のようなのを書いた。

 宇宙一杯の生命


物質の最小単位である素粒子には四つの力が働いている
強い力、弱い力、電磁力、重力である
うち、電磁力、重力の影響範囲は実に無限大である
一個の素粒子は宇宙のあるゆるものと繋がっているのだ
ゆえに
一個の素粒子は宇宙全体の力で支えられ、
一個の素粒子の力によって宇宙全体が支えられている
素粒子の塊である私の命は宇宙一杯の広がりをもっているのだ
私の命の中に日月星辰森羅万象一切のものが存在しているのだ


 この詩もどきはへたくそであるが、言っている事は大したことを言っているのである。 


  そもそも、仏教は自己が根本、その中味は縁起である。
縁起とは仏教の中心思想で一切のもの(精神的な働きも含む)は種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じるという考えで因縁生起の略である。


 ところが一般に縁起の考え方が限定的で漠然としているようである。 十二因縁にしても普通言われるところは縦の流れが繋がっているだけだが、それぞれに周辺条件があるわけだし、その条件にもそれぞれ縁起があるのである。。


 もう6,7年も前になるが、本屋を覗いた時科学本の中に四つの力のことが書かれていた。驚いたのは電磁気力と重力の影響範囲が無限大であることである。


 無限大ということはどういうことか。この自分と遠く離れた星々ともダイレクトに繋がっているということである。地球上のものは地球に引っ張られ地球という塊として太陽に引っ張られるということではないのである。力の総和が見かけ上地球の中心にあるだけで直接太陽とコンタクトしているのである。


 太陽の中の1素粒子と自分の中の1素粒子はいかに微小な力であったとしても相互作用している。その結びつきは分離不可能である。
  「此れ有るがゆえに彼れ有り。此れ起るがゆえに彼れ起る」という縁起もこの力あればこそなのである。何故縁起なのかその答えは四つの力があるからということになる。


(参考)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)から


 素粒子の相互作用、自然界の四つの力、相互作用とも。


(おことわり)一部記事の貼り付けを行いましたが、文字色の変更ができず背景色と同系の色なので読み取りが困難です。削除いたしました。上のリンクから直接ウィキペディアをご覧いただければと思います。

コメント (2)
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ブログデザインの変更

2009年02月05日 | 共生

gooブログがテンプレートの種類や機能を追加したので気に入ったのに変更しました。前の山の写真は綺麗ことは綺麗だったのですが、人気を感じず共生山という山号にはぴったりこなかったので変えたいと思っていたところでした。

元々宇宙に関心を持っているので今回は星のデザインを選んだ次第です。

それと「ひとこと」欄も使用することにしました。ちょっと思いついたこと、感じたことを書き込んだり、澤木興道老師が”寸鉄人を刺す”言葉が多く残されていますのでそれらを紹介する欄と致したい。こちらには皆さんのひとこともお願いします。 

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ぶっ続きの生命

2009年02月04日 | 生命

 内山興正老師から生命の実物、つまり世界ぐるみの自己を教わった。ただ、当初は自分とは関係なく世界が動いていてそれを体験するだけ、繋がりがもう一つ感じられなかった。
 見えるものは確かに自分の体験だし、自分のありようで見えるものもそのようにある。それは確かに自分の世界だと思えるし、以前のように自他の別がはっきりして孤立していた時とは明らかに違ってはきたがすっきりしない状態が続いた。
 
 長年宿題として抱き続けてきたが、これを解決したのが、やはりお釈迦さんの縁起という考え方、
 「此れ有るがゆえに彼れ有り。此れ起るがゆえに彼れ起る」


 具体的には「三億分の一の確率」で書いたように、世界は非常に微妙精緻にできていてちょっとした物事の動きが伝播し、それが増幅されるような仕組みなっていることに気がついた。


 この世の一切のものは皆のっぴきならない関係で皆繋がっている、たとえば、あなたと私、あなたがいなければ私はいない。私が存在しなければあなたの存在もない。今日の日本でもっともとんでもない人間といえば、麻原彰晃でしょうが、私がいて麻原彰晃がいる、麻原彰晃がいればこそ私もいる。繋がっているのである、のっぴきならない関係なのである。

 そんなことと思われるかもしれないが、証明は簡単である。自分というものを否定してみればいいのである。生まれてからのことを全て否定してみればいいのである。自分だけでなく自分が関わった一切のものである。それは全宇宙を否定することになるのは容易に想像できると思う。

 過去にもヒトラー、スターリン、毛沢東、トルーマンなんてとんでもない人間がいたが、彼らが存在しなければ私の存在はない。また、御釈迦さんや道元禅師といった方々もいなければ私の存在はない。

 とにかく、過去現在未来、存在するものは全てのっぴきならない関係で繋がっていて無限の広がりを持っているということなのである。 

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己ならざるところなし

2009年02月03日 | 佛教

釈尊は自己探求の末、本来の自己を悟られその我を「無我」と言われたのであるが、「我が無い」とはどういうことか、なかなか解りにくいところである。


後秦(こうしん・384年~417年・五胡十六国の一)のころ、鳩摩羅什三蔵(くまらじゅう・さんぞう 法華経をはじめ多くの経論を翻訳、三論宗の開祖)を師とする肇(じょう)法師という優れた僧がいて、その肇法師の有名が言葉があるが、この言葉で無我の意味がよく分る。


   聖人に己なし、己ならざるところなし
      天地同根 万物一体


 己なしとは、己ならざるところなし ということなのである。何から何までぶっ続いていて自他の別がない。天と地も根源を同じくし万物は一体である。とすると己というものがなくなってしまうということである。


 肇法師は仏法ひとすじ優れた人であったが、王の怒りにふれ処刑されることになった。7日間の猶予を乞いその間に「宝蔵論」という論書を書き上げた。


こうして肇法師は斬刑に服したのであるが、次の遺偈(いげ)残している。


  四大元無主 五蘊本来空


  將頭臨白剣 猶似斬春風


 四大(地・水・火・風の元素で成り立つ人間の身体)に元より主無し。よって人間の五感も本来空である。まさに頭を差しのべて白刃に臨めば、さながら春風を斬るに似ている。


 日本でも切腹させられるような場合、この遺偈を思い浮かべて刑に臨んだ人も多かったのではないかと思う。 

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チェンジ!自己革命の勧め

2009年02月01日 | 生命

  今日テレビを見ていたら、”革命”という言葉が流行ってきているらしい。ゲバラの映画が上映されている影響からだろうか。


 革命とは辞書によれば、「易経(革卦)」による。「革」はあらためる、「命」は天命の意」とある。私が「自己の生命体験によってある世界」を縷々述べてきたのも自己の生命のあり方を単なる一個体でなく世界ぐるみのものに切り替えることなのである。”革命”の勧めなのである。


 個体としての自分なんて、生まれて生きて老いて病んでそして死ぬ、残念ながら永遠ということはない。全体なるものこそ永遠なのである。

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