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十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

物心一如

2008年08月30日 | 生命

 物が存在することは、そこに心意識の働きがなければあることにならない。


 その辺に転がっている石ころだって、そこに我々が認識すればこそあることになるのであって、誰にも知られない石ころは石ころに心意識の働きがない以上、存在を知られることなく、ただだまって存在しているだけである。いや、石ころという以上認識されていることになるので、それこそ何ともないことになるのである。


 認識されなくても存在するものがある、あるはずだという考えも当然あるであろうが、それは「ある、あるはず」という認識程度に存在しているということである。


 存在するもの=物×心 

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仏国土

2008年08月28日 | 佛教

 仏は自らの生命領域として自らの国土を持つ、それが清浄であるので浄土という。


 有名なところでは、阿弥陀仏の極楽浄土、薬師如来の浄瑠璃浄土、毘盧遮那 (びるしやな) 仏の蓮華蔵 (れんげぞう)浄土、阿上ゥ仏(あしゅくぶつ) の東方妙喜浄土、釈迦牟尼仏の霊山 (りようぜん) および無勝荘厳 (むしようそうごん) 浄土、観音菩薩の補陀落 (ふだらく) 浄土、弥勒菩薩の兜率天 (とそつてん) 浄土 などがあるが、どの仏も浄土を持っている。自らの浄土を持たぬ仏はないのである。


 この様相は既成の浄土があってそこに仏がおわすというよりも、仏のおわすところが浄土となるのである。


 

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生命領域

2008年08月27日 | 生命

 生命領域という言葉は一般には使われていない。 私独自の言葉としてここでは自己生命が一体感を持ちうる領域と定義する。

 たとえば小さくは家族であったり、家であったり、会社であったり、団体や地域であったりする。大きくは国や地球、そして宇宙まで広げることができるであろう。


 自分という個体だけでは生きていくことはできないから、誰でもこの生命領域を持っていることは容易に知れるはずである。日常の営みはこの生命領域の拡大、維持に費やされていると考えてもいいわけである。


 しかし、他者を押しのけ拡大する領域というのは相手を打ち負かす闘争が伴いますし、それには必ず限界がある。逆に相手の押されて縮小せざるをえない破目になることもある。

 生命領域を他人を押しやることなく広げる方法はないのか。そう考
えるとだいたい領域を囲っているから囲った範囲に限定されるので囲いを作らなければそれこそ宇宙全体にまで生命領域を広げることができることになる。


 それを教えるのが仏教で、実践が修行ということになる。

 「仏法(生命の実物)は無量無辺」
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実験 自灯明 法灯明

2008年08月23日 | 人生

 夜、照明を消して部屋を暗くしてロウソクを灯してみる。ロウソクは普通のパラフィンのものでもよいが、和ろうそくの方が炎が長く、燃え方にゆらぎあるのでそちらの方がよい。


 ロウソクを自分に見立てるのである。
 
 ロウソクが光を発する。そして周りを照らす、ロウソクの働きである。(自灯明)


 ロウソクの光によって、そこに照らされて存在するものが光を発してくる。光の具合によって景色が変わる。ロウソク独自の世界が展開する(法灯明)


 ロウソク自体と照らされて見えてくる世界は不可分一体である。ロウソクの光なければ照らされた世界もないし、世界がなければロウソク自体意味をもたない。ロウソクの持つ独自の世界、その世界ぐるみがロウソクのいのちである。


 自分のいのちがあってあらゆるものが存在する。その様子がよく知れると思う。

 なお、ここでいう法は一切法のことである。一切法という場合の法は存在するもの、物質的・精神的すべてのものごとを指す。諸法、万法ともいう。

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根性の十階梯

2008年08月21日 | 人生

仏教では根性の十階梯として次のものがある。これを十界という。

1 地獄
2 餓鬼
3 畜生
4 修羅
5 人間
6 天上
7 声聞
8 縁覚
9 菩薩
10 仏


 点数1点の地獄から、10点満点の仏まで10の根性の階梯である。


 その根性に応じて自分の世界(境界)が展開してくる。たとえば、地獄の鬼的根性の持ち主の周りに展開してくる世界、これが地獄である。餓鬼的根性の持ち主に展開してくるのは餓鬼世界である。


 澄ました顔した紳士でもエッチなことを考えれば、その時そこで畜生の世界が展開する。
 オリンピックで勝った負けたとやっているが修羅道の世界というわけである。


 十の境界、そういう世界が現実に存在しているのではなく、そういう根性を持つ人が展開させていることを知らねばならない。つまり、人毎の世界なのである。

 また、自分の根性はこれと決まったものではない。いろんなものを併せ持っていて、これを十界互具(じゅっかいごぐ)という。どの根性をどれだけむき出しにしているかである。


 では仏界はというと、禅門に「一寸坐れば一寸の仏」という言葉がある。坐禅の時間を計るのに線香を用いるが、線香が一寸燃える時間坐禅すればその時間だけでも仏様だという。


 ふつう、成仏というものを死んでからと考えたり、修行を何年もやってなしうると考えられたりするが、たとえ1時間でも1分でも坐禅や念仏の仏行を行じればいいのである。

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天動説

2008年08月17日 | 生命

 元薬師寺管長 橋本凝胤はなかなか面白い昭和の傑僧の一人である。断言坊主とあだ名されるほど断定的にものをいう、つまり「決定(けつじょう)の説」の吐く和尚だった。


 秀逸なのは「人はどうあれ、オレは天動説だ。それで何の不都合もない」と嘯いていたとのことである。


 東大の印度哲学科を出た人だから、科学的真理としての地動説は教養として勿論承知している。しかし、仏教の世界観は違うのである、仏教僧としてその世界観で彼は生きて来たというわけである。


 私も天動説をとる。もちろん、地動説を否定するわけはない。が、天動説と地動説の違いは、視点の違いに過ぎないのである。地動説を確認するためには太陽系の外に視点を持っていかなくてはならない。現実にはそんなところに視点を持っていけないから頭で計算して想像するしかない。要するに頭の中で作られた物の見方の一つに過ぎないのである。


 一方、我々はその動く地球に乗っかって視点をそこにおいて、そこでいろいろ体験していて生きている、視点はいつも自分のいるところに固定されている、それが現実なのである。
 朝、日が昇る、これは地球が東の方向に回転しているのだと実感するであろうか。日の出、日の入りで生活のリズムを刻んで生きているのである。何万年も人間はそれで生きてきたのである。地動説なんかで生きてはいないのである。


 世界の中心は視点のあるところである。天も地も自分を中心として動いているのである。カーナビ付きの自動車に乗っているように。 

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先祖の数

2008年08月09日 | 生命

 盂蘭盆会という行事が全国的に行われる時期になったが、考えてみるとおかしな行事なのである。
 盂蘭盆会は盂蘭盆経が基になっていると伝えられるが、そもそも盂蘭盆経はニセのお経なのである。本物のお経は皆インドで作られたものであるが、盂蘭盆経は中国で作られたもの、これを偽経(ぎきょう)というのである。


 偽経でも延命十句観音経のようにすぐれたものもあるが、盂蘭盆経の内容は、要するにウソ話なのである。文字通りの偽経である。どのような内容かはネット上で検索を掛ければ出てくるからここでは省略するが、早い話が追善供養を勧める話である。


 坊ンさんに拝んでもらってこの世で縁者が供養すればあの世の亡者が良いステージに行くという話で、あの世に亡者が存在しているのも確認できないし、坊ンさんにそれだけの能力があるとも確認できない、坊ンさん自身もそんなことを思っていない。ムニャムニャ言っておればお布施になる。施餓鬼や檀家周りで丸儲けという時期なのである。


 迎え火、送り火もおかしなことなのである。死んで49日で往くべきところへ往ってしまっているというのが仏教の教えである。坊ンさんは葬式の時に戻りのない行くべきところへ行かせているはずである。これを成仏という。成仏した者が亡者の格好で帰ってくることはないのである。


 しかるに帰ってくるということは往くべきところへ往かせていない、ということになる。高い戒名料を払ったり、お布施弾んだのにである。
 整形外科医が整形に失敗して、整形のやり直しを何回もやっているようなものなのである。
 それに「ありがとうございました」と言っている。


 まあ、この時期先祖のことを思うのも悪くはない。先祖も親、祖父母、曾祖父母あたりぐらいしか知らないし、後は伝説の先祖に思いを致すぐらいであろう。


 で、今年はこんなことを考えてみては如何と思う。


 自分には親が2人、その親に2人ずつ親がいる。一世代遡るごとに先祖は2倍になる。1,2,4,8,16,32,64,128と順に10世代遡ると約1000倍になる。一世代25年として250年前には1000人の先祖がいたことになる。500年前には百万人、750年前にはその千倍で10億人、1000年前には1兆人の先祖がいたことになる。


 勿論、それだけの人口があるはずもなく、ものすごい数の重複がある。誰かさんともどこかで共通の先祖を持っていると考えていいのである。


 また、ミトコンドリアDNAの遺伝状況を調べると現代に生きる世界中の人々の母系先祖は6万年前だか7万年前だかのアフリカの1人の女性であると推定することができるという。 

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生命の実物

2008年08月02日 | 生命

 私が内山興正老師に出逢ったのは昭和45年の秋のことである。当時京都市北区玄琢にあった安泰寺の住職をされていて、そこで開かれていた日曜参禅会に参加するようになったが、一番驚いたことは仏教の生命観、世界観がそれまで自分が了解してきたものと全然違うことであった。


 老師は仏教語をできるだけ現代語で分かり易く説明することに腐心されていたが、「仏法」のことを「生命の実物」と言われるのである。


 「生命の実物」とは「あらゆるものは自己に生命体験されるところに存在するのであり、自己はあらゆるものを生命体験するとことに生きているのである」


 仏教は自己生命が根本であるということ。自己生命のないところに何ものも存在し得ないということである。
「いや、俺がおらなくても世界は存在する」と言われるのであろうか。そういう言葉を発することが自己の存在を前提としているのである。


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 また、こんな疑問を呈される人も当然あると思われる。「今の説明では認識外のものは存在いないことになる。現に認識外のもので存在するものがいくらでもあるではないか」と。
 認識外のものがあるというのは既に認識にかかっているということである。「認識外のものがあるはず」という程度の認識が働いている、その認識程度の存在の有様があるのである。


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