十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

ジャパンカップ

2008年11月30日 | 共生

 今日は東京競馬場でジャパンカップが行われた。2400mの競走で1着賞金がなんと2億5千万円。スクリーンヒーローという馬が獲得、いや、馬はニンジンだけでいいらしいので馬主が獲得、そこから騎手や調教師等に分け前が出る。


 さて、そこで、一跳び4mとして一着馬の一跳び当りの賞金はいくらになるかというクイズを出してみる。


 大方は 2400÷4=600  250,000,000÷600=416,667円 という計算をすると思う。平均的サラリーマンの一月の給料を超えている。


 でも、これは不正解。600回揃って初めて2億5千万円になるのであるから、一跳びだけでは 0 円である。しかし、一跳びがなければ2億5千万円にならないのであるから、一跳びには2億5千万円の値打ちがあることになる。で、答えは0円と2億5千万円。2億5千万円の値打ちがある一跳びが600並んで2億5千万円になる。
 
 個というものは全体の1部で全体に包摂されているが、個なくして全体はない。とすると個は全体と同じ価値をもっているということである。

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スッテンコロリ

2008年11月29日 | 道楽

 本日自転車で車道を走行中、前方正面の信号が赤になったのでスピードをゆるめ停止しようとしたが、ひょっと見るとその交差点はT字型の三叉路で左折道路がなく歩道は信号がないのを発見。


 それなら歩道を走ろうとハンドルを左に切ったが、切る角度が浅かったせいで縁石の高さを越えることができず、タイヤが縁石に沿って滑ったために自転車ごと転倒、左肩と左腰を打撲した。幸い人や物にぶつかることもなく怪我することはなかった。


 しかし、後ろからきたおばちゃんに「大丈夫?」と聞かれバツが悪かった。
年とともに運動神経もにぶってきているので無理をしないようにしなくては・・・(・_*)\ペチ

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天に代りて不義を討つ

2008年11月28日 | 他教
天に代りて不義を討つ
忠勇無双の我兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還らじと
誓ふ心の勇ましさ


 軍歌 「日本陸軍」第1番(出陣) の歌詞である。
 
 26日夜インドのムンバイでイスラム過激派と思われる武装集団による同時多発テロが発生し100人以上の死者が出たとの報道が各メディアによってなされたが、こういう話を聞くとこの歌を思い出す。


 かつて日本の戦争は聖戦であり、「天に代りて不義を討つ」と外国を侵略し多くの人を殺し殺され多くの恨みを買った。イスラム武装ゲリラの論理も「天に代りて不義を討つ」、これは聖戦であるところも同じ。イスラムの教えでは聖戦で死んだら天国でも最もよいところへいけるとか、酒は美味いし、ねえちゃんは綺麗、いくら交わっても処女のまま。エジプトのサダト大統領を暗殺した武装集団が捕らえられ連れて行かれるところの映像を見たが死刑になることが間違いないのに聖戦だと言ってその顔は喜々としていた。


 だいたい聖戦なんてあるべきことではない。この世のことは全て天なり、神なりが統べているところなのである。全てのものは天なり、神なりの意思で存在しているのであり、在るべくして在るのである。


 敵だって害虫だってばい菌だって在るべくして在る。在るべくして在るものを、抹殺しようとするのは人間の都合なのである。人間の都合だけで殺しまくっているのである。


 天に代わるとか、神の名によりて、なんていうのは、天とか神とか信じる者としては本来あるまじき言動なのである。天とか神が人間ごときの手を借りることは何もないのである、全てを統べているのだから、罰を下すことぐらい訳はない。天に代わるなどというのは不遜の極みであり、天、神に対する冒助Kであることに気がつかなければならない。


 とにかく、天でも神でも仏でも在るべくして在らしめているもの、それだけである。人格的な要素を取り入れるとおかしな論理が生まれて人間の都合が入ってくる。そうなると本来無限なるものを有限に、絶対的なるものを相対的なものにしてしまうのである。人間のことは人間同士でカタをつければいいの。自分のことはどうせ自分のことなのだから自分でカタをつければいいのである。


 まあ、キリスト教でもイスラム教でも絶対神ではありません。人間によって考え出された相対神です。相対神だから言うことが違う。その託宣によって今までどれだけの人間が殺されたか、相対神だから殺し合うのです。

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三億分の一の確率 2

2008年11月26日 | 生命

 前回相手3億の競争を経て人間が生まれてくると書いた。
 中央競馬のフルゲートは18頭、それの単勝つまり1着を当てるだけでも中々難しいものである。万が一、万に一つという言葉は普通の会話にもよく使われるが滅多にあることではないという意味で使われる。


 三億分の一の確率とは、万が一×万が一の3分の1であるからまず絶対あるべきことではないと考えるのが普通である。統計的には100万分の1で可能性がゼロということなのである。


 過去へ時点を遡れば遡るほど確率はどんどん下がっていく。生まれるはずもなかったのが生まれてきた、奇跡なのだろうか。
(気牢饑廚鯒Г瓩覆ぁ⇒④襪戮Ⅹ魴錣阿ぁ⇒④襪戮㌃散擇鳳茲辰栃ⅶ阿い突④襪戮Ⅲ覯未犬犬燭里任△襦F鄒叡た考緞櫃♢修領呂魎鵑算屬鬚㎠韻新覯未覆里任△襦/P>

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三億分の一の確率

2008年11月24日 | 生命

 自分がどのように生まれてきたか考えてみたことがあるだろうか。
 両親の生殖行為の結果生まれてきたことぐらいは誰でも知っているがそれはどのようなものか。


 母親の体内で精子と卵子の結びつきで受精卵ができて、子宮内で細胞分割を繰り返し次第に大きくなって十月十日後誕生となる。


 ここで問題とするのは精子と卵子の結びつきまでである。
 性交時に男性から1回に放出される精子の数は3億といわれる。そのうちの一つが卵子と結びつくのである。3億というとたいそうな数という気はするが大方の人にとってピンとこないのではないか。


 そこで3億の精子を米粒に見立てるとどうなるか見てみたい。かつて内山興正老師が1勺の米粒を数えてみたことがあり730粒あったそうでその数を使ってみる。


 すると、3億の米粒の体積は約7.4立方メートルとなる。これを例えば4畳半の部屋に敷き詰めると高さ1m になる。その米粒一つ一つに尾っぽをつけておたまじゃくしのように 動き回っていると想像してみるといい。その中からたった一つが選ばれるのである。これほど強烈な生存競争はない。


 ヨーイドンで一斉に飛び出して卵子めざしての競泳。真っ先かけても駄目で、先駈けするのは皆討死にする。女性の身体には細菌等の異物を排除する防御機能がはたらく。前の精子が切り開いた道を後ろの精子が進ん
で行く。力も必要でもあるが展開にも運にも恵まれんと優勝は覚束ない訳である。


 最善のコースを最善のペースで 泳ぎきらなければならない。その瞬間その瞬間に確実にその位置におらなけ ればならない。非常に微妙だから母親の体の動き一つで位置は変わってしまう。たとえば前日に蚊にかまれたような軽微な出来事でもその有る無しで生まれる子は違ってしまいます。


 自然界の仕組みは微妙精緻で極微の動きも増幅されて新しい生命がそこから生まれてくるのである。死んでから自分だけが生まれかわるのではない。生きている命からその分身として新しい命が次々と生まれてきているのである。一切衆生皆我が子なのである。

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紅葉狩り

2008年11月22日 | 道楽

 今日はネットで知り合った風来坊主さんとその仲間の方と奈良県竜田川へ紅葉狩りに行ってきた。
 在原業平が「ちはやぶる神世も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは」と読んだ紅葉の名所である。
 残念ながらまだちょっと時期が早いようでからくれなゐとはいかなかったが、秋の景色を楽しめた。


 続けて、東大寺造営の勧進で有名な行基の墓所を尋ね、最後は興福寺の特別公開で普段公開されない五重塔と南円堂(不空絹索観音)を拝観してきた。拝観料1000円はちと高いが中本堂を再建する費用集めなのであろう。


 興福寺の五重塔を見ると澤木老師の言葉を思い出す。国宝も金具だけの値打ちしかない時もあったのである。


 (明治時代の廃仏毀釈で)興福寺の五重塔は三十円で買手がついたが、その買手は、下から火をつけて焼いてしもうて、金具だけとろうと言う。-「そんなこと、してもろたら奈良の街が危い」と言うんで、「そんならションペンじゃい」と言うて、今にのこっているんじゃ。

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エコ生活

2008年11月21日 | 共生

 我が家のエコ生活。20年前に転居したが以来駅に近いこともあるが自動車を持っていない。
 夏暑いことで有名な大阪の街中で夏の間ほとんどエアコンをかけず扇風機で済ます。
 冬も暖房はホームコタツだけ。厚着して寒さを防いでいる。


 中越地震の時、防寒で大事なことを教わった。それは首に何かマフラーの類を巻いておくことである。首自体を温めるということもあるが、下着の中に溜まった温かい空気を逃がさないということである。


 それ以来、寒くなると外ではマフラー、家の中ではタオルを首に巻いている。寝る時もそうして寝ると随分と温かい。お試しあれ。

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淀川右岸改修工事

2008年11月18日 | 道楽

 私が毎日走るサイクリングコースは、鳥飼大橋(守口市)から淀川新橋(寝屋川新橋)までの淀川左岸堤防を走る往復14Kmコース、鳥飼大橋から枚方大橋までの往復24Kmコースのどちらかを毎日のように走っている。 


 昨日は走行距離2000Kmを達成すべく、いつもより距離を伸ばそうとコースを変えて復路は枚方大橋を渡り右岸を走ることにした。


 堤防上から河川敷に下りると、ダンプが数台停車していた。少し行くとダンプがゆっくり連なってやってくる。数えてみると20台以上にもなった。2Kmほど行った所にいた警備員に聞いてみると、少し行くと堤防の改修工事が行われており常に40台のダンプが動いているとのこと。工事は堤防の法面の角度を緩くする、つまり堤防断面の下辺を広くし洪水時の耐水力を強めるものということである。


 淀川の洪水で思い出したことがある。小学5年の時だった、昭和28年9月に13号台風がやってきた時のこと。典型的な雨台風で淀川流域で大量の雨を降らせたため、寝屋川市の仁和寺で付近で水が溢れ堤防が決壊する恐れがあるとして非難勧告が出る事態となった。その後最悪非常事態宣言が出され、本当に危ない状態になったが、その後しばらくして上流の宇治川の堤防が決壊したため下流域が助かったことがある。


 ちなみに、淀川の堤防決壊は明治以降3回あり左岸1回、右岸2回ある。
現在滋賀県の大戸川ダムの建設について、4知事が反対表明しているがたとえ100年の1回の可能性でもあったら、往年の被害とは桁違いのものになろうから十分検討してもらいたいものである。



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自転車走行2000Km達成

2008年11月17日 | 道楽

 我が転輪号が本日2000Km走行を達成した。2000Kmというと大阪から青森まで(日本海側)の往復距離である。我なから結構走ったなあと思う。


 例によってコスト計算してみると、90000円の装備費用で2000Km走行したから、1Km当り45円となる。
 1時間当りの走行距離は高齢者でもあり休憩時間も考慮して15Km程度とすると、1時間当り675円の遊び料となる。 シニアの映画代と比べるとまだちょっと高い。


 しかし、「最低10万、ブランドは100万以上 スポーツ仕様「自転車」がブーム」というJ-CASTの記事にあるように、上を見ると限がないようである。


http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jcast-30184/1.htm

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地獄八景

2008年11月16日 | 人生

 このところユダヤ教、キリスト教、イスラム教の独り神様を謗ったり、仏教の三宝のうち僧宝にけちをつけたり、天神様に逆らったりして、これじゃあ地獄行き間違いなし。


 しかし、地獄の様相も各宗教によって違うし、5ヶ所を巡るというのも面白い。いや、去年同じ職場の連中と別府温泉の地獄3ヶ所、つまり龍巻地獄、血の池地獄、海地獄の三つは巡ってきたので合わせて8ヶ所、これで落語にある地獄八景だ。


 「なあに自分くらい地獄に落ちたっていいじゃないか。地獄は面白いぞ。」と澤木老師もいわれていることだしサイクリングで巡るというのはどうだろう、きっと楽しいことに違いない。


リンク:落語 地獄八景(じごくばっけい) 
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2008/06/post_49ae.html

 竜巻地獄


 血の池地獄


 海地獄

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澤木興道老師の言葉2

2008年11月15日 | 佛教

 tenjin95師は破戒僧でも布施の対象、在家が僧侶を差別すべきでないとの主張でした。


 しかし、破戒僧っていかなる者か考えてみると・・・。
 帰依すべき三宝、つまり仏法僧の僧とは本来サンガのことであり和合衆といい仏教の教団を指す。後世、中国や日本で教団に属する出家者を僧と呼ぶようになったのである。
 破戒僧というのは煩悩に負けて罪を犯しサンガの秩序を乱す者で、罪状深き者はサンガ追放となるのである。

 道元禅師や夢窓国師のような厳しい人の下に破戒僧なんているわけはないのである。たとえ在家に対して破戒僧であれ布施すべしとの教えがあったとて、僧に対しては布施を好きに受け取っていいとは決して言われない。己の徳行が布施を受けるに相応しいかの反省を求められるはずのものなのである。


 在家が僧を批判するのが相応しくないということなら、師家であった澤木興道老師に登場いただこうと思う。


 『禅に聞け』(内山興正聞き書き、櫛谷宗則編 大法輪閣)より澤木老師の僧侶批判の言葉を紹介する。


 大谷句仏は大正時代、芸者に一万円のポチをやったというので有名だった。それでいて「モッタイナヤ祖師は紙衣(カミコ)の九十年」(紙衣とは紙でつくった衣服)という句をつくった。句はいいが、一万円のポチを芸者にやる人間のつくる句か。
       *
 金閣寺でも法隆寺の金堂でも、みんな坊主が修行するためにあるのじゃない。ただ坊主が遊んで食えるというだけの話じゃ。
       *
 明治初年に法隆寺の五重塔は五十円で売りに出たが、とうとう買手がつかなかった。興福寺の五重塔は三十円で買手がついたが、その買手は、下から火をつけて焼いてしもうて、金具だけとろうと言う。-「そんなこと、してもろたら奈良の街が危い」と言うんで、「そんならションペンじゃい」と言うて、今にのこっているんじゃ。
 だいたいあんなものは相場が変わるんじゃ。そんな相場の変わるものなんか、どうせ大したことはないんじゃ。 - そんなものあってものうてもいいんじゃ。
 それより大切なものがある。坐禅こそ大切なんじゃ。
        *
 住持とは元来、仏法に住し、仏法を任持してゆくということ、つまり仏法をうけたもってゆくことであった。ところが今の住持ときたら、寺にかじりついて食ってゆくこと--お寺に住し、自分の生活を保持してゆくということだけになってしもうた。
        *
 金をためねばならぬような坊さんは不徳あることは言うまでもない。昔、武田信玄の時は「城は人なり」と言うて、人民を大切にして城を築かなかったが、隣国からおかされることはなかった。
 勝頼の代には立派な城を築いたが、かえって信長から亡ぼされてしもうた。坊主が金をためねばならぬようになったら、それだけ欠点がわが身のうちにあるからじゃ。
        *
 坊主は金のないのが自慢である。良寛さんが死んだ時、金をためておったというウワサがある。それに対して「そんなことはない。死んだ時の帳面にも、これこの通り」と言う人がある。
これは良寛さんを庇った言葉である。してみればやはり坊主に金のあるのは恥なんじゃ。 
        *
 良寛さんが亡くなって金を遺したかどうか、- やはり何も遺していなかったというのでホッとする。
 ところが娑婆の奴はそうは思わぬ。そこで出家者と娑婆の考えが正反対であることが、ようわかる。
        *
 どんなプロから見ても「見劣りせぬ」のが出家者であらねばならぬ。しかるにブルぶろうとする坊主や寺の嬶のあるのは、これまたどういうわけか。
        *
 今の坊さんのは出家ではない。ワラ小屋から瓦小屋に家移りするだけだ。菓子屋の息子が火葬場のオッチャンに商売替えするのと同じじゃ。
       *
 お授戒の戒師さんにでもなると、いちいちお袈裟を着かえるので「坊さんと芸者とあんまり違わんですな」と言うた人がある。いやウッカリすると坊主自身すっかりそのつもりになってしまっておる。
        *
 出家とは「大なる放棄」である。グループ呆けの放棄じゃ、--今の坊主は拾うておるからダメなんじゃ。
        *
 猫でもうまいもの食わしておけば鼠をとらぬようになる。犬でもあんまりかわいがられた奴は番もせぬ。人間だって金もってヌクヌクしておれば働きもできぬようになる。
        *
 徳川三百年、徳川政策は坊主を飽食暖衣させて飼いならしてきたので、イノシシがブタになったみたいに、すっかり骨抜きになり、牙もなければ爪もないようなものができあがってしまった。
        *
 徳川時代、仏教者はまったく徳川政策の手先となって満足し、自ら宗教者という感覚がなかったのが、こんにち仏法の衰亡する原因となった。
      *
 徳川時代の仏教は、宗教に似た役人であったから、明治の廃仏毀釈に遭うて仏教がいっぺんにダメになったのである。
        *
 今の坊主が坊主の服装を恥ずかしがるのは、明治のころの廃仏毀釈に敗けてヒガンデいる姿だ。- そんなヒガンダ姿を、世間の人も、バカにしておる。
        *
 今の坊主は敗け戦さしておる。ナギナタをさかさまに持って、ヒョロヒョロと逃げてゆく姿じゃ
 落武者や鳴子の音も身にこたえ
        *
 今の坊さんは坊さんであることを卑下しとる。なるたけ坊主と思われたくないと思うてコロモやケサさえも、商売以外の時にはつけない。--だが坊主以外には食えん。- そこに往復のナヤミがある。
 カトリックの神父さんは法衣をいつも着ている。これを着ることに誇りをもっているので、これまた是か非か。
        *
 商売でなく坊主をしているということは容易ではない。ふつう坊主は商売とどこでやらツギメなしになっておるが、商売としたら坊主ぐらいパカバカしいことはない。人間は本来のネライに向かって勇敢に進まねばならぬ。仏教者としての人生観をハツキリしておかねはならぬ。
        *
 社会はみな日々試験しておる。それを一生落第せんようにしなくてはならぬ。それが第一「度衆生の心」じゃ。
一度でもムカッ腹たてれば衆生はよりつかぬ。一度でも欲深おこせば衆生ははなれる。その点、社会意識というものが、よおく頭に入っておらねばならぬ。

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学道の人は、先づすべからく貧なるべし2

2008年11月14日 | 佛教

 漢字で書けば天神か天人なんでしょうか。上から目線で私の独り言に対してコメントをつけてこられました。


 最初は「耳を洗え。」(11/22)
 次はこちらのコメントに対して20日以上も経って親切なのか、お節介なのか分りませんが「勉強が足らん、俺の書き込みを読め」とおっしゃる。
 どんなことが書いてあるのかと覗き込んでみると、クソ坊主、ナマクラ坊主に布施しなさい。功徳がありますよというお話、時代錯誤も甚だしい。
 いろんな宗教が出揃った現代にそんな話が通じるものではない。これでは仏教が衰退する一方である。


 ついでだから強欲金満坊主の例を挙げておくと
・ある有名な祈祷寺院の住職は、定期的に北の新地とかへ遊びに出かける。懐には帯の掛かった万円札をぶち込んでお出かけになったとか。(寺に勤めていた人の話)
・ある宗派の本山の高僧といわれた人は、ある成金に帰依を受けて祇園での御茶屋遊びを繰り返し、飲酒がたたって肝臓ガンで早死にした。(弟子から聞いた話)
・ある宗派の本山の管長選挙で億つく金が動いた。
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 こんな連中に布施する理由がどこにあるのだろう。


 で、当ブログは「独り言」にコメントは原則無用としているところであり、tenjin95氏のコメントは以後削除させていただきます。

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汝ら当に如来の誠諦の語を信解すべし

2008年11月13日 | 佛教

 このところ悪口ばかり書いているが、意地の悪い奴と思われるのもしゃくだから、ここらで使徒信条のところ説明なしにおいてある「信解(しんげ)」について書いてみる。


 数あるお経の中で最も大切なお経の一つは妙法蓮華経(法華経)である。法華経は諸経の王であると法華経に書いてある、ちょっと嫌味だが大事なお経であることは間違いない。

 法華経は二十八品(ほん)から成り立っているが、その中でも四要品といって重要とされているのが四つある。「方便品」「安楽行品」「如来寿量品」「観音普門品(観音経)」の四つ。その中でも如来寿量品が最も大切とされているのである。


 それの突端に信解という言葉が出てくる。
爾時仏告諸菩薩。及一切大衆。諸善男子。汝等当信解。如来誠諦之語。復告大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。又復告諸大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。
(ある時仏が菩薩および一切の大衆に告げられた。諸々の善男子よ、汝ら当に如来の誠諦(じょうたい)の語を信解すべし。・・・2回繰り返し)


 「汝等当信解。如来誠諦之語。」が3回繰り返される。大切なお経の大事なところで3回も繰り返す。それが重要なところであるのがよく分る。


 そこで如来誠諦の語のいみであるが、以下内山興正老師の書かれた文章を引用する。


「如来誠諦の語とは何かというと、つまるところ如来寿量は久遠実成(ぐおんじつじょう)だということです。いいかえれば、われわれの真実の生命は、時間的には久遠の昔から久遠の未来にいたるまでぶっ続きだということ。また空間的には宇宙一杯のものだということ」


 ということだが、大方の人はなかなか信解できないと思う。このブログの中で説明して行きたい。

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インフルエンザ予防注射

2008年11月10日 | 共生

 寒くなってきたので近くの内科医院でインフルエンザ予防ワクチンの注射を受けてきた。
 10年来この時期になるとワクチンの投与を受けることにしている。インフルエンザに罹ると自分自身がしんどい思いをしなければならないのを防ぐということは勿論だが、人にうつす事を懼れるのである。それと、仕事を休むことになれば周りに迷惑をかける事になるからである。


 人に傷つければかすり傷でも傷害罪になる。インフルエンザに罹患し人にうつしても罪にはならないのはおかしい。動機がなく因果関係が立証しにくいから法律適用するには困難であろう。しかし、インフルエンザに罹患し人と接触すればうつす可能性は十分だし、うつしておいて自覚がないのを大いに問題としなければならない。


 また、今新型ウイルスの発生が懸念されている。今のワクチンは効かないが旧型の流行が押さえ込まれておれば新型に対する対応もとり易いというものである。


 ワクチン投与が義務化、無料化されるのが望ましいが、自発的に接種を受けるべきだと思う。
 費用は医療機関によってまちまちだが、係りつけの内科では、一般 3000円、65歳以上で1000円、一冬の安心料としては安いものだと思う。共生の趣旨にも沿う。

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使徒信条

2008年11月09日 | 他教

 「使徒信条」はキリスト教徒の信ずべきことで、これを玄義という。玄義とはなぜと聞いてはならないのである。


 処女であるマリアが妊娠したなんて不合理なことも信じなければならない。我々ならどこかで輸入してきたに違いないと疑う、そんなことをしてはいけない。一度死んで3日後に甦ったり、最後の審判が必ず来るということも信じなければならない。


 そもそも、全知全能というのもおかしな話なのである。全能の神がどうして人間ごときに裏切られたのか。それを人間の罪にし贖罪を求める。人間はどこまでも罪人なのである。ドジでイケズというしかない。
 良いことは神様持ちで、悪いことは人間持ちなのである。


  仏教も信ずるということを大切にするが、仏教は信解(しんげ)する、つまり、よく分って信じるのである。

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