十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

1月親睦囲碁会

2016年01月19日 | 道楽

今日は寒波到来で滅茶寒い。朝は家の中で温度が6度、今冬一番寒かった。こういう時は血管が縮んで血圧が上昇する。これが困る。

18日(月)は、定例の囲碁の会に参加してきた。リーダーの都合で一週遅れの開催である。

今回は寒かったせいか、参加者は6名。

何とか、レベルアップを狙うのであるが、今回も負け越し。1勝2敗。持ち点1点減点の結果に終わってしまった。

置き石のお陰で圧勝体制でだったのが、大石を殺されてしまった。

リーダーに大勝ちを狙わずに味の悪いところには手を入れて安全を確保しておけば負けることはないとアドバイスを受ける。

ガードの甘さは前から承知のところだが、調子に乗って攻めすぎるのが、我が囲碁の欠点である。それが直らない。遊び事だから勝とうが負けようが楽しめればよいともいえるが、やはり勝ちたいものでもある。

次回頑張る!!

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十日戎=えべっさんは耳が遠くて後ろ向き

2016年01月09日 | 俗信

初詣は全国どこでもあるが、商売の神様えべっさんは西日本が主流。特に商業都市である大阪において盛んのようである。

母親が助産所、助産院をしていたので、近くの大宮神社というところへ家族の誰かが必ずお参りし福笹を買ってきたものである。母親が仕事を辞めてからはその神社へは参っていないが、何年間か通勤の通り道にあった今宮戎は帰りに寄って雰囲気を楽しんだ。

福娘が大勢いて、愛嬌を振りまき、綺麗な娘を見るのが楽しい。TVで放送されるコンテストを見ることもあったが、「ああ、あの娘か」なんて眺めていた。

さて、戎さんを参拝する時に知っておかないと折角のお参りが空振りになる情報があるので、お知らせしておこう。

これは若い時から80歳の高齢になるまで巫女をしてきた祖母から教わった話である。巫女といえば今時は若い女性を連想されることが多いが家の婆さんはそこまでやってきたのかというと、探湯神事の名人だからである。笹の葉で釜の湯を参詣客に撒くのであるが、へたくそは自分の着物を濡らしてしまう。
濡らさずに遠くまで撒く。余人を以って代え難いのである。

若者は若い巫女がいいのだが、年配者は神事が大事というわけだ。

さて、その婆さんから教わったのは、「えべっさんは耳が遠い」。近頃の若い人は言わないが我が河内地方では耳の遠い人のことをえべっさんという。
つまり、これはよく知れたことなのであるが、知られていないのがえべっさんはお宮で向こう向いて坐っているというのである。つまり、参拝客に尻を向けているのである。
耳が遠くて向こう向き、黙って拝んでも駄目、小さな声でも駄目、大きな声を出さんとえべっさんは気づかない。大声で景気良くやらないと祈りは通じないのである。
今宮戎神社は後ろから拝めるようになっている。声の小さい人はそちらで拝んでみるのがいい。
福娘の顔を拝んで、えべっさんは後ろから拝むというのが私の今宮戎での参拝スタイルだった。近頃は全然行かないけれど・・・。


探湯神事の例
http://www.hirotahonsya.or.jp/gyoujipage/gyouji_7tuki.html

盟神探湯
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9F%E7%A5%9E%E6%8E%A2%E6%B9%AF

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絶対一元の自己世界

2016年01月07日 | 生命

自己生命図を形見のつもりでアップしましたが、補足します。
佛教に馴染みの少ない人はあの図で分かりやすかったのではないかと思いますが、佛法としては内山老師の図が正しいのです。

内山老師は正法眼蔵の味読会でいつもされていたことは、初めての人もいるだろうからと前回の話を復習し同時に佛法というものをそれこそ耳にタコができるほど話されました。

「あらゆるものは自己が生命体験するところにあり、自己はそのあらゆるものを体験しつつ生きている」ということで図にすると老師の図になります。

私の図は分り易いようにと生命を分けてしまっていますが、生命は絶対一元、分けようがないものなのです。分けたところに生命はありません。しかし、分けなければなかなか分かりません。

分かったところでそれを忘れて絶対一元の生命を生きるということでなければならないのです。

そこでもう一度理解を深めてもらうために簡略化した図を作りました。

分けて考えると分り易い。真実世界とは物の世界です。自分がいなくなった世界と考えると分かりやすいかも。そこに自分をおいてみる。五感が働いて周りの状況が分かってくる、そこに把握された世界の展開がある、過去の記憶も呼び出して頭の中にイメージを作る、心の世界である。

物の世界を今、五感でサーチしているそれが現実世界である。

しかし、生命はそれをバラバラに把握しているわけではなく今自分の体験としているのです。生命が働いているから唯識とも唯心ともいうのです。この唯心は哲学における唯物論の対概念ではありません。物心一如の唯心です。佛教は自己生命が根本ですから、心の働きを外す訳にはいかないのです。

下図では真実世界は鏡(生命)に事実世界として映っていると理解すると分かりやすのではないかと思います。

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謹賀新年

2016年01月01日 | 共生

皆様のご健勝とご多幸をお祈りします

 昨年もいろいろありましたが、何とか年を越せました

今年もよろしくお願いします

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