十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

スポーツ観戦

2009年08月25日 | 道楽
 近頃スポーツ観戦はあまりしない。どこが、誰が勝とうがあまり興味がないのである。

 しかし、昨日はよい場面をテレビ観戦することができた。
 まず、高校野球の決勝戦が気になってテレビをつけるとちょうど9回表2死、得点は10対4で日本文理の攻撃、そこから5得点の猛攻撃で最後の打者も強烈な3塁ライナーでゲームセット、中京高優勝で終わった。久しぶりに力が入ったので表彰式まで見てしまった。続いて世界陸上女子マラソンにチャンネルを移すとゴール前5Km地点のちょうどよいところ、尾崎好美が頑張っていたいたが最後は中国選手に離され2位でゴール、最終日に槍投げの村上幸史の銅メダルに続いて銀メダルを獲得した。

 この日のスポーツ観戦は久しぶり満足、よかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子育て支援

2009年08月22日 | 人生

 衆院選の各党のマニフェストには子育て支援が重点政策に当てられている。少子化対策の一環であろうが、金だけの支援では駄目である。


 一番大事なのは親としての自覚である。今の人は新しく生命を生み出すということを安易に考えている。出来ちゃった婚というのが流行だが、これって最初から失敗している。共同で子供を作ったのだから共同で子育てしなければならないのに離婚するなど無責任な話である。そこには生命に対する畏敬の念が欠けている。 


 親たる者が子を生み、子を育てるという風しかない考えないのは考えが足りない。子が親を生み、親を育てるという視点が欠けている。
 人は子が生まれるごとに親となる。一人生んだから親という決まったものになるわけでない。複数の子を生んだ場合は子が生まれるたびにその子の親になるのである。子によって親ができるのである。子が親を生むのである。また、親は子を生み育てることによって自身も成長する。子が親を育てるということである。


 親と子は互いに相手を生み、育てる関係にある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚構の絶対神2

2009年08月18日 | 他教
 パソ通で遊んでいた時出合った一神教にかかる出来事を思い出したので書いておく。

・人間はサルから進化したのではなく、初めから人として創造されました。
と前日の記事で近所のプロテスタント系教会のチラシ文を書いたが、カトリックではローマ法王が1997年に進化論を認める声明を出したのである。ただし、何もかも認めたわけでなく条件付であって人間の精神は依然として神の創造によるものであって進化論の埒外にあるということであった。

 権威者の思いによって人間が進化したりしなかったりする。面白すぎるお話である。カトリックでは肉体と精神は別存在のバラバラになってしまった。神はいつ精神を注入するのだろうか。

 法王が進化論を認めた話を掲示板にアップしたらプロテスタントのある信者は法王のことを馬鹿呼ばわりしていたが、この人は聖書の記述そのまま信じるという原理主義の馬鹿なのである。

 また、平成1年にこんなことがった。富山県の小杉町で、イスラム教徒の聖典である『コーラン』が破り捨てられ、コーランを冒涜するものだとイラン人(イスラム教徒)が怒っていて、その怒りが凄まじいとのことであった。というような記事がアップされたので

 私は次のようなコメントをした。「コーランへの冒涜と新聞にありましたが、コーランは神の言葉ということですから、神への冒涜ということになるんでしょうね。彼らはコーランを破り捨てられることくらいで神が冒涜されるって思っているのでしょう。人間に冒涜されるような神を考える、それこそ神への冒涜ではないかと私は思うのですがね。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚構の絶対神

2009年08月17日 | 他教

近くの教会(プロテスタント系)のチラシが郵便受け箱に投函されていた。読んでみると馬鹿げたことが書いてあるので抜粋して紹介する。


《・人間はサルから進化したのではなく、初めから人として創造されました。
・人間は、神様から与えられた知性や感情を悪用して神様のお心に従って生きることを拒み、自分たちの創造者である神様を無視して生きています。
・神様は、正しく聖なるお方です。罪とは、神様に対する反逆なのです。人間は、神様を無視して、罪を犯している結果、さばきを受けなくてはならないのであす。そのさばきは、死後にあるのです。そのさばきとは、地獄です。
・神ご自身が罪人のために救いを用意されたのです。これが福音です。
・私たちは、自分の犯した罪の当然の報いとして地獄でさばかれるべきだったのが、それを主イエス様は、十字架の上において、私たちの代わりに神様の激しい怒りをお受けくださったのです。
・地獄も実在ですが、同時に神様のおられる天国の実在です。
・みなさまも、イエス様がご自身の主すなわち神であると、またご自身の救い主すなわちキリストであると信じるならば、罪赦されて、神のこどもとされて天国に行くことが出来るのです。》


 一神教の神は創造主であり、在りて在る者であり、全知全能ということになっている。人間も神がつくったという。絶対神である。
 さすればこの世のものは全て神の手の中、その手の外に出ることはできない。神と人間の力関係は月とスッポンどころか無限大とゼロくらいの開きがあるのである。そのような絶対者が人間ごときに裏切られるということがあるだろうか。裏切られて腹を立てお仕置きをする神なんてとても絶対神といえないだろう。
 
 絶対神ならこの世の全てのことは神の意思、原爆を落とすのも大地震でぺろっと何万人を殺すのも神の御業、人間が悪を為すのも神の所為というべきである。それでこそ絶対神である。絶対神のもとでは人間に罪はない、責任は全て神にある。


 聖書の神は絶対神といいつつ小さなドジ神の話になってしまっている。ドジ神は人間を作り損なってそれを人間の所為にする。バカにするなと言いたいところである。


 神が絶対神なら神を矮小化した聖書は冒涜の書というべきだろうし、聖書が物語る人間を作り損なったような神なら絶対神というのもおこがましいのである。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死者の霊魂とは

2009年08月15日 | 人生
 今日は終戦記念日、武道館で全国戦没者追悼式が行われた。祭壇には白木の柱に「全国戦没者之霊」とあって追悼の言葉や献花があった。

 あの柱が霊なのか、あの中に霊が存在するのか。ノーである。木の柱に「全国戦没者之霊」と書いてあるだけのもの。

 霊はどこに存在するのか。墓、仏壇、位牌などに神妙に拝んだりするがそこには実体として存在するものでない。

 内山興正老師はこう定義されている。
 「死者の霊魂とは生き残った者の間にただよう亡き人の残映である」

 まさにそのとおり。遺族にとっては亡き人の霊魂は墓においておくものではなく常に心の内に抱き、いつでも呼び起こすことのできるものである。

 墓にあれば墓に行かなければ会えない、仏壇の前に坐らなければ思い出せないというものではない。靖国神社に行かなければ英霊に会えないというものではない。

 亡き人を偲べばいつでもその人に会える。自分の心のうちの亡き人と対話し慰めるこれが慰霊である。時、所を選ばない。

 寺に預け、神社に預けてはいつも会えないことになる。
 盆行事もおかしなもの、盆の間だけ霊が帰ってくる、終われば帰ってしまう。
 そんなものではない、愛しき人はいつも心のうちに抱いておくべきもの、偲べばいつでも目の前に現れる、それが霊である。

 してみれば慰霊は一人密かに行うべきものであることが分る。この観点からすると、政治家の靖国神社の公式参拝というもののいかがわしさが明白であろう。 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

転輪号4500Km達成

2009年08月12日 | 道楽
 本日マイサイクリング車転輪号で走行距離4500kmを達成。   淀川河岸の毎日の休憩場所で珍しい光景を目にした。いつも周りに鳩が群がっているのであるが、今日はいつになく少なかったのである。ところが2羽の鳩が寄り添って1羽がもう一方の鳩の毛繕いをし出したのである。初めてのことなので携帯電話の写真機で近づきながら撮ったのが次の写真、これを撮ったところで逃げられた。
              
例によってコスト計算してみる。 
本日までの装備費 前回より追加なしで98600円。
1Kmあたり22円。1時間あたり330円(1時間あたり15kmとして)  

 イタリアロードレース フォンドピナレログランに 俳優 鶴見辰吾が参加したが、ピナレロはイタリアの有名な自転車メーカーで鶴見はオーダーメイドの自転車を購入したらしいが何と140万円とか。転輪号の40倍の価格、う~ん、ちょっと手が出ないな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のりピーに逮捕状

2009年08月07日 | 共生

 酒井法子が覚せい剤所持容疑で逮捕状が出された。夫の逮捕現場から逃げ出すようにして行方を眩ました。覚せい剤を使用していて尿検査に引っかからないために一定期間雲隠れする気なのだろうか。


 のりピーは交通安全のキャンペーン、麻薬撲滅のキャンペーン、またこの度は裁判員制度の広報DVDに主演参加するなど公的広報に関わってきた。そうするとちょっと他のタレントとは意味が違う。もっと社会秩序の維持について自覚があってしかるべきだったろう。


 どうも夫から悪影響を受けたとしか思えない。自称プロサーファーなんていかにも怪しげだし、ヒモ的存在のように思えるがどうだろう?


 のりピーは好感を持っていたタレントだし、今回の事件は残念だ。一日も早く罪を償ってほしい。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

擬似大人

2009年08月05日 | 佛教
 法制審議会の部会が、成人とする年齢を20歳から18歳に引き下げるのが適当と結論づけた。しかし、この結論には異議を唱えたい。

 確かに戦後、身体だけは大きくなったが、精神の方はいかがであろうか。進駐軍のマッカーサー元帥は「日本人の精神年齢は12歳」と言ったが、今は当時と比べアップしたといえるだろうか。

 道元禅師の正法眼蔵八大人覚の巻の冒頭に「諸仏はこれ大人(だいにん)なり」という言葉が出てくる。とすると、大人ならざる我々は小人ということになるが、その辺りのところを内山興正老師は次のように話されている。

 《原文の冒頭には「諸仏はこれ大人なり」
 とすると、自然に分るでしょう?
 「ははあ、では我々は、大人(おとな)ではなく、小人(こども)なんだな」とね(笑い)
 笑いごとではなく、この一言は、じつにすばらしい。
 我々は、みんな、でかい面して、ヒゲなどはやして、タバコ吸って酒飲んで、風呂代も電車賃も大人の料金払って、いっぱしの大人のつもりでいるけれど、なあにお前らは小人・ガキなのさ、ということだ(笑い)。
 諸仏は本当の大人。一方の我々は、生理的には大人だけど、魂はまるっきり小人。
 だってそうでしょう。まるで幼稚園のガキのように、いつも「アレ欲しい、コレ欲しい」と愚図っている。ただ欲しいものがオモチャやお菓子から、カネや名誉に変わるだけだ。
 こういうのを、擬似大人という。
 そこでお釈迦さまは、そういう我々に対して、本当の大人になれよ、と教えている。
 これが仏教の総結論です。》

 内山興正老師はマッカーサーの12歳どころか、幼稚園児だという。

 大人といっても擬似大人ばかり、もうちょっと育っておらんとね。

参考:内山興正著 「正法眼蔵八大人覚を味わう」(大法輪閣)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身体を作る力

2009年08月04日 | 生命

 若田光一宇宙飛行士が地上へ帰ってきた。無重力で長期間過ごしたので地上の重力のかかった生活に戻るために長期のリハビリ要するらしい。無重力では骨量が減少し骨粗しょう症状態になる。重力が生命保持に大きな影響を持つことは明白。


 しかし、無重力状態でも人間の身体を一定の形状に保っているのは電磁力の働きなのである。原子を結びつけて分子を作るのも電磁力、分子を結合して有機物質を作るのも電磁力、それらの物質を結びつけて細胞を作るのも電磁力、脳神経内を情報伝達する電気信号もまた電磁力、複雑な電磁力の働きによって生命は生きているのである。


 死はこの電磁力の働きがバラになることである。バラになったものが元の働きを取り戻すことはない。生まれ変わりなどあろうはずがないのである。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする