十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

誤解だらけの佛教7

2018年04月29日 | 佛教

佛陀は輪廻転生説を超えた

 釈尊も確かにヒンドゥ思想伝来の輪廻説から出発した。ただし釈尊の問題は、そうした輪廻転生の生死ーー「生」と「死」でなく、一息に「生死」ーーの苦からの解脱にあった。釈尊は菩提(悟り、覚)となって、生死を解脱した。だから、悟ったのちの釈尊が、輪廻説などに立ったわけはない。「後有を受けず」と宣言したゆえんである。だから、「輪廻」の説は、あくまで佛教の前提としてのヒンドゥ教説であって、厳密な意味では佛教説ではない。
 このことは、佛教を学ぶ者は、何としても一度はっきり押さえておいていただかないと困る。この一大事をぬきに、「悟りぬきの輪廻転生説」を文字どおり佛説であるかのように説き、またそう受け取っては佛教の基本を見誤ってしまうことになる。

「誤解だらけの佛教」と題する本稿を、佛教は「無神・無霊魂」論であるという主張から始めようとするのは、そうした意味からで、佛教は「無我」説で、そして何より「悟り」を中心とするからである。

ーーー

大蔵経のデータベースで検索したところ、ヒットした数は輪廻が27,転生が2217,輪廻転生が1という結果である。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F&mode=search&uop=1

輪廻転生とよく言うが佛典にはたった1件、六道輪廻も1件しかヒットしない。

転生はたくさん出てくるが◯転生◯(例:流転生死)といった塩梅に四字熟語の中の二文字という使い方となっている例が圧倒的である。

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誤解だらけの佛教6

2018年04月27日 | 佛教

佛教は無霊魂論である


 はっきり知っていただきたいことは、「佛法には無我にて候」(蓮如)である、ということである。インド語の「アートマン」というのは、〝自我″とも〝霊魂″とも訳される。これがインド思想のキー・ワードの】つである。そして、佛陀は「アン・アートマン」、「ニル・アートマン」(「アン」「ニル」は否定の辞)といって、1無我」説を主張されたのである。「自我」ないし1霊魂」の存在をはっきり否定されたのである。

 だから、もともとない霊魂が崇るはずなどあり得ない。

 肉体はなくなっても、霊魂は残る。だから先祖の霊魂を祭る。祭りを怠ると、その先祖の霊が崇る。ーーなどと、いうのは、まったく佛教とは何の関わりもない話である。事実、長いあいだインドの佛教では死者儀礼とは何の関わりももたなかった。思うてもみよ、親は子のために祖父母は孫のために、善かれ幸あれと願いこそすれ、子孫に崇るなどというのは、どこの極道者の考え出したことか。「子孫に崇るような先祖は、きょう限りこっちから線を切るがよい」と私は言う。

ーーーー

道元禅師も佛教の無霊魂説なのに霊魂の存在を説くのには口を極めて非難しておられます。

以下は正法眼蔵弁道話の一節です。文語体なので読みにくいですが、それとなく意味は読み取れるのではないでしょうか。

『問うて曰く、ある人が曰く、生死を嘆くことなかれ、生死を出離するにいと速やかなる道あり。いはゆる心性の常住なる理を知るなり。その旨たらく、この身体は、すでに生あればかならず滅に移されることありとも、この心性はあえて滅する事なし。よく生滅に移されぬ心性わが身にあることを知りぬれば、これを本來の性とするがゆゑに、身はこれ仮の姿なり、死此生彼さだまりなし。心はこれ常住なり、去來現在変わるべからず。かくのごとく知るを、生死を離れたりとは言うなり。この旨を知る者は、從來の生死ながくたえて、この身をはるとき性海にいる。性海に朝宗するとき、諸佛如來のごとく妙徳まさに具わる。今はたとひ知るといへども、前世の妄業になされたる身体なるがゆゑに、諸聖と等しからず。いまだこの旨を知らざるものは、ひさしく生死に巡るべし。しかあればすなはち、ただ急ぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらむ。かくのごとく言う旨、これはまことに佛佛諸祖の道にかなへりや、如何む。

示して曰く、今言うところの見、またく佛法にあらず。先尼外道が見なり。
曰く、かの外道の見は、わが身、うちにひとつの靈知あり、かの知、すなはちに逢うところに、よく好惡をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒をしり、苦樂をしる、身中の靈知の力なり。しかあるに、かの靈性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこに生まれるゆゑに、ここに滅すと見ゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりと言うなり。かの外道が見、かくのごとし。
しかあるを、この見を倣うて佛法とせむ、瓦礫をにぎつて金宝と思わんよりもなほ愚かなり。癡迷の恥ずべき、例ふるにものなし。大唐國の慧忠國師、深く戒めたり。いま心常相滅の邪見を計して、諸佛の妙法に等しめ、生死の本因を起こして、生死を離れたと思はむ、愚かなるにあらずや。最も憐れむべし。ただこれ外道の邪見なりと知れ、耳に触るべからず。』

※文章の中に先尼外道という言葉が出てきて外道(佛教以外の諸説)のこととされているが、最近次のような文章を発見した。道元禅師もご存じなかったようである。

『先尼は外道(げどう)だとしている。しかし、雑阿含経「仙尼」では「仙尼」は「外学の出家」だとしている。「外学の出家」とは外道出身の出家者(佛教僧)を意味している。即ち、「仙尼」は外道出身の出家で今や佛教僧だとしているのである。この点は道元は誤解していたことが分かる。この誤解は訂正すべきであろう。』

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佛陀は丈六金身??

2018年04月26日 | 一法言

お釈迦様、身長4メートルもあったってマジ?」という質問がヤフーの知恵袋で出てきたので次の通り回答した。


佛像の基準に丈六金身(じょうろくこんじん)というのがあります。


昔からのその解釈は「佛陀の姿を表した言葉であり、丈六とは佛陀の身長が一丈六尺であること、金身とは佛陀の皮膚が金色であることを言う。ただ「丈六」とだけ示されることもある。」

ということなのでありますが、つまり、4.8mということになります。私の解釈は違います。

三十二相のなかの

15. 丈光相(じょうこうそう)
身体から四方各一丈の光明を放っている(いわゆる後光(ごこう))。光背はこれを表す。

1丈(10尺で約3m)は光背のことであり、御身は6尺(180cm)と解するのが適当と思うのです。そうでないとイメージが狂って慕わしくなくなります。

三十二相
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%9B%B8%...

このような姿がはたして素晴らしいことなのか、甚だ疑問であります。


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誤解だらけの佛教5

2018年04月24日 | 佛教

釈尊は後生を説かなかった

私は道元さんに私淑する。

その道元にも何としてもついていけない思想がある。その一つが「三時業」(前世・現世・来世の三時にわたる行為)である。道元は今生で、「善因楽果・悪困苦果」の業報(業の報い)の勘定が合わぬ者は、次生で、いや次々生で必ず合うと言う。カント先生も、道徳家だから、善いことをした者がこの世では不幸になり、悪いことをした者が幸せになっている事実を見て、来世がなければならぬと言った。道元は「三世の因果」を信じない者は「断見外道」だと口をきわめて非難する。

しかし、私は「因果」の道理を信ずることと「三世」を言うこととは別だと思う。

禅佛教は、常に「即今・此処・自己」の立場だけに立つ。そして前世を言い来世を問題にするのは、絶対現在の心のゆるみだと自省する。

それなのに道元さんの先の言い方を素直に取ると、文字どおりの「次生」(来世・後生)の存在を信じていたように聞こえる。我々現代人は、道元の時代と違って、初期佛教の経典を読むことができる。日本の仏教者の中でも、空海と道元だけは、大乗に執ゎれずに、小乗の『阿含経』典を読んだが、それにしても現代の我々のように、初期仏教の経典を古代インド語で読める幸せは持たなかった。その初期経典で、釈尊は「後有を受けず」と言い切っている。悟ったら、もう輪廻の生死は解脱した。だから、私はもう後有(死後の存在)は受けない、と言う。これは明らかなアフター・ライフの否定である。すると、道元さん流に言うと、お釈迦さんは断見外道か」ということになり、まことに妙なことになる。

ーーーーー
この件は道元禅師の正法眼蔵三時業に対する批判である。(http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou.htm)

私も秋月師の考えに同意する。

道元禅師は霊魂の存在を否定している。なのに生まれ変わりを三時業では肯定している。業というものを個体的に捉えているとしか言いようはない。業は全体的に捉え、生きている限り影響力は及んでくると考えるべきで、死んでいなくなってはその者に業の及びようもないと言うものである。

死後において衆生は迷っているから六道輪廻で、釈尊は悟られたからアフター・ライフがないというものでも勿論ない。誰でもそうでなければ真理でも何でもない。覚者と迷いの衆生との差はない。

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誤解だらけの佛教4

2018年04月23日 | 佛教

真の佛法には折伏(しゃくぶく)はない

師は日蓮について、好きだという。信者に対するキメの細かい対応に共感しているようであるが、折伏には大きく批判している。

私は「念佛無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という、例の四箇の格言」には断じて組みしがたい。

佛教では「談他過失戒・自讃毀他戒をいう。他人の過失を談じ、自ら讃め他を毀るのは、まだ真に釈尊の説く、「無我」に徹していない証拠である。心の底にどこかにおれがーおまえが」という自他の対立が、いわゆる「人我の見」が残っている。

『法のために』と言って争う人もいますが、そんな『法』はありません。佛法には本来『摂受』(しょうじゅ)はあっても『折伏』ということはありません。それは佛道ではなく修羅道です。不動明王の折伏は、自分に向けてのもので他者に向けるものではありません。

佛教哲学では、「〈空〉とは〈自他不二〉という。自我を「空」じると、すべてが自己になる。天地自然の万物も、他人も、いや敵でさえも、自己(「無相の自己」のある「相」)である。そうした「智慧」はただちに「慈悲(無限の愛)」として働く。

ここに大乗佛教の真髄がある。そこには「争い」はない。他を活かす行と祈りがあるだけである。

私は日蓮は大嫌い。理由は次のとおり。とても佛弟子とは思えない。秋月師は下のようなことを知らないであろうか。

日蓮は法華経のためなら、焼き討ち、人殺しも辞さぬ。蒙古が入ってきた方が皆が思い知るであろうからそれに期待するなんて言動は許し難いと考える。以下のような記録が残っているようである。

★蒙古使御書「日本国の敵にて候念仏、真言、禅、律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頚を刎られ候ける事こそ不便に候へ」

意訳 日本国の敵である念仏、真言、禅、律等の法師は斬らないで罪の無い蒙古国の使者の首を切られた事こそ不憫である。


★撰時鈔「建長寺寿福寺極楽寺大仏長楽寺等の一切の念仏者禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切ずば日本国必ずほろぶべしと申候了ぬ。」

意訳 建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏長楽寺等の一切の念仏者や禅宗の僧侶らが寺や仏塔を焼き払ったうえで彼らを由比の浜で首を斬らなければ日本国は必ず滅びるであると申し添えておく。


★秋元御書「不殺生戒と申は一切の諸戒の中の第一也。五戒の初にも不殺生戒、八戒、十戒、二百五十戒、五百戒、梵網の十重禁戒、華厳の十無尽戒、瓔珞経の十戒等の初めには皆不殺生戒なり。儒家の三千の禁めの中にも大辟こそ第一にて候へ。其故は「遍満三千界、無有直身命」と申て三千世界に満る珍宝なれども命に替る事なし。蟻子を殺す者尚地獄に堕つ、況んや魚鳥等をや。青草を切る者猶地獄に堕つ、況んや死骸を切る者をや。是くの如き重戒なれども、法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説き給ふなり、況んや供養を展ぶべきをや。故に仙予国王は五百人の法師を殺し、覚徳比丘は無量の謗法者を殺し、阿育大王は十万八千の外道を殺し給ひき。」

意訳 不殺生戒と言うのは一切のあらゆる戒の中で一番罪が重い。五戒のはじめにも不殺生戒、八戒め、十戒、二百五十戒、五百戒、梵網経の十重禁戒、華厳経の十無尽戒、瓔珞経の十戒等のはじめにはみんな不殺生戒とある。儒教の三千の戒めの中にも大罪で一番罪が重いのである。それはある経典に「遍満三千界、無有直身命」と説かれるように三千世界に満る珍しい宝があっても命に代わることはないのである。アリを殺す者はさらに地獄に落ちる、魚や鳥類であれば言うまでもない。青草を刈り取る者もなお地獄に落ちる、死骸を切る者も同じである。このような重い戒めであるが、法華経の仇になればこれらを阻害する事は一番の功徳と説かれている、供養をするものは言うまでもない。であるから仙予国王は五百人の法師を殺し、覚徳比丘は数え切れない謗法の者を殺し、阿育大王は十万八千の外道を礼賛するものを殺したのである。

★日蓮は法華経布教のためには蒙古が日本を侵略し自分の予言が的中することを願っていたというのである。
鎌倉武士の奮戦、暴風雨の襲来により蒙古が全滅したと聞いて、がっかりして病気になり、翌年に死んでしまったということである。

『そんなはずが ない。この日蓮を陥れるためのデマだ』(富城入道殿御返事)

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誤解だらけの佛教3

2018年04月22日 | 佛教

秋月龍珉著「誤解だらけの仏教」から

第1章 佛教は「無霊魂論」である

この指とまれ

 誤解だらけの佛教。ーーーこんな代を掲げると、だからこれから私が、そして私だけが誤解でない正しい佛教を説く、というように受け取られかねない。しかし、私はそんな不遜な思いでせっきょうするのではない。自由/民主の世の中なのだから、どなたがどんな佛教を説かれようと勝手である。だが、私はそうは思わない。私はこう思う。ーーーこの指とまれ。私に賛同する方がいたら、私といっしょに佛法を生きようーーーと説くだけである。

 私が憂えるのは、霊魂の話とか、輪廻転生の話とか、葬式法事の話であるとか、そういう前近代的なあまりにも奇怪な話だけが喧伝されると、そんなことに抵抗を観じるまともな若者たちが、佛教に縁なしと、せっかくの先祖の尊い遺産を頭から捨ててしまって顧みなくなる。そのことを思って、あえてこんな題でペンを執った次第である。

この項は短い文章のゆえ、そのまま全文転写した。著者の意図を踏まえて読み進めたい。

ちなみに私は科学的な観点からして納得できないもの、また、佛教の根本教説である無我をいうあまり自我を否定してしまって顧みないものには与しないという立場でいることを承知ありたい。
我々は自我意識によって生きている、生活できているのである。それが悪いものであるはずはない。

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誤解だらけの佛教2

2018年04月21日 | 佛教

先日、秋月龍珉師の「誤解だらけの仏教」という本の紹介をした。

師は本のまえがきに次のように書かれている。

 今日のこの日本の国の佛教観はひどい。佛とは死人のことだ、佛教といえば葬式と法事を考える。正月三が日に坊主に逢うなんて縁起が悪い、などと言う。売れる佛教の本といえば、霊魂の話か、あの世の話だけ。そんな佛教があるものか。

 私は霊魂を認めない。あの世も信じない。輪廻転生も否定する。三世の因果も信じない。葬式だ法事だのいう死者儀礼は本来の佛教と関わりなかった。佛教は無神・無霊魂論なのだから、霊魂どころか、「神も佛もあるものか」などいうような佛も認めない。私はひたすら「摩訶般若波羅蜜多(悟りの智慧の完成)は佛道の第一義なり」ということだけを信じ、それだけを提唱する。(部分抜粋)

私は在家の人間だし俗な心情を一杯有していて、人生観においては師とは見解を異にするところもあるが、こと佛教に関しては師に同意するところ多である。

どういうことを言わんとされているのか、書いてあるところを引用、要約して本の内容を紹介していきたい。それをもって、諸兄の佛教への正しい理解の一助となることを期待したい。

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誤解だらけの佛教

2018年04月19日 | 佛教

秋月龍珉師が1993年に書かれた「誤解だらけの仏教」(柏樹社発行)いう本は私にとって、佛教の基本的知識を得る上で非常に重要な意味を持つ本の一つです。

調べ物をしていたこの本に書かれていたことを思い出し、復習がてら読み直ししているところです。

読者諸兄におかれても佛教の基本を知る上で非常に有用と思われるので読まれることをお勧めしたい。

しかし、新刊で売られているものは今やなく古書しかありませんが、ネット上で入手可能です。
また、講談社学術文庫から「誤解された仏教」というタイトルを変えたものが出版されていますのでこれも古書で入手可能です。

秋月龍珉(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E9%BE%8D%E3%81%BF%E3%82%93

 

以下、目次を紹介します。

1.誤解だらけの仏教

 第1章 仏教は「無霊魂論」である
      この指とまれ/真の仏法には折伏はない/釈尊は後生を説かなかった/仏教は無霊魂論である
      /仏陀は輪廻転生を超えた  
 第2章 仏教は本来葬式・法事に関わらない
      仏教は本来葬式やお墓とは関係なかった/仏教は無霊魂論で本来法事とは関係なかった
      /では葬式・法事をどう考えればよいか
 第3章 仏教は「輪廻」説をどう考えたか
      ここ掘れワンワン/「六道輪廻」ということ/「中有」と「廻向」のこと/仏陀とは無神論者である
 第4章 「輪廻」説をどう超えるか
      「輪廻」など信じない仏教がある/輪廻説の実存的理解/正しい仏教は「霊魂」を語らない
 第5章 仏教は「無神論」である
      三界に家なし/「梵我一如」説は仏教なのか
 第6章 「梵我一如」説は仏教ではない
      インド的伝統と仏教/仏法には<無我>にて候
 第7章 なぜ「梵我一如」説は仏教でないか
      「梵我一如」に対する違和感/「梵我一如」と「般若直観」の違い/ダンマはどこで露わになるか
 第8章 正しい仏教は土着思想と対決する
      日本人の魂―あの世を観る―/釈尊の仏教は「あの世」を語らない
      /「是真」の「唯仏」とは「虚仮」の「世間」を否定する
 第9章 仏教は「神秘主義」ではない
      密教は仏教か/仏教は汎仏論(汎神論)ではない
 第10章 死者を「仏」と呼んではならない
      まちがいだらけの日本人の仏教観/宗教と宗教文化を峻別した上で/神も仏もあるものか
      /「仏」とは何か
 第11章 釈迦牟尼は何を悟ったのか
      釈尊は「縁起の理法」を悟ったのではない/釈尊は「無我の我」を悟った
      /悟りの内実は「心性本清浄」の自覚/仏教の第一義は「般若波羅蜜多」
 第12章 真の仏教学は「三学」の学でなければならない
      薬師寺新塔に象徴される問題点/仏教学は「三学」の「学」でなければならない
      /いわゆる「日本人の魂」を否定する仏教/「唯識」は西洋の"唯心論"とは違う
 第13章 仏教のスローガン(法印=旗印=要約)
      小乗の三法印(四法印)/大乗の一実相印
 第14章 仏性論(如来蔵思想)は非仏説か
     「仏性」(「如来蔵」)の語義/大乗に見る実体思想混入の問題点
      /私は「仏性」を「一息に<超個の個>」という
 第15章 「覚り」(覚)の宗教と「救い」(信)の宗教
      宗教の二つのタイプ/禅仏教と真仏教/禅宗と親鸞教を貫くもの
      /キリスト教と仏教の共通の根拠
 第16章 まとめ――仏教は無神・無霊魂論である
      諸聖を慕わず、己霊を重んぜす
      /唯一神を信ずる者は、同時に仏教徒であることはできない
      /仏教の悟りと「神」の無
      /今日の霊魂流行は仏教とはまったく無関係である
 
2.新大乗の提唱

 第17章 後近代(ポスト・モダン)と無我
      宗教という言葉/近代の終末/後近代者(ポストモダニスト)の自覚
 第18章 三学と念仏
      「三学」には「上り道」と「下り道」がある/「念仏」の「方便」と「真実」
 第19章 「日本的霊性」の展開
      「霊性」と「精神」/「日本的霊性」の目覚め/「大地性」と「直接性」
 第20章 「新大乗」を提唱する
      「新大乗」の五つの誓願
       一、「大乗非仏説」の誤りを正して、真の大乗精神に徹する
       二、自宗絶対主義を相対化して、教主釈尊に帰る
       三、他宗教との対話を通して人類宗教の理念を掲げる
       四、後近代(ポスト・モダン)の自覚に立って、歴史的仏国土を建設する
       五、真の出家道を尊重して、仏教の新たな在家道を成就する

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八重桜も大方散ってしまったところで一句

2018年04月15日 | 俳句

川面に寄せられた落花の花筏を詠んでみた。

「風寄せの 岸に名残の 花筏」

この歳になると来年桜が見られるかどうか分からない。落ちた花びらが愛おしい。

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大谷翔平と藤井聡太

2018年04月14日 | 世相

今の世相は政官界の闇が深いようである。

そんな中で明るいニュースは2人の若者の活躍である。

大谷翔平は「投げてよし、打ってよし、走ってよし」

藤井聡太は「序盤よし、中盤よし、終盤よし」

順調に成長を期待する。

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灌佛会に佛祖礼

2018年04月08日 | 佛教

4月8日は大恩教主 お釈迦様の誕生日。

この日は私にとっても特別の日である。37年前の昭和56年4月8日、安泰寺で内山興正老師の跡を継がれた渡部耕法老師に在家得度していただいた日なのである。

前日から安泰寺に宿泊、朝の朝課に参加させていただいて佛祖礼を修させていただいた。搭袈裟の偈を唱えて袈裟をつけ、宝鏡三昧を諷誦し、その殊勲を三国伝燈歴代祖師のために奉り、慈恩に報いんとするものである。

過去七佛から釈迦牟尼仏、達磨大師、道元禅師、澤木興道老師にいたる佛祖の御名を読み上げるのである。内山老師は当時ご存命中であったから佛祖礼には入りません。

今日は、延命十句観音経を読んで、その後佛祖礼を行い釈尊への思いを新たにした。釈尊から数えて私は85代目になる。

 

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相撲は神事

2018年04月06日 | 世相

大相撲の舞鶴巡業で挨拶に立った舞鶴市長がクモ膜下出血で卒倒。命に別状がなかったが1月ほど入院とのことである。

女性看護師が土俵に上がり救急の措置を行った。その間に行司が「土俵から出る」ようにアナウンスが数回なされた。また、その後塩で清めるようなことをしたことについて、女性差別だというような意見がマスコミで数多く報じられている。

https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/05/salt-sumo_a_23403415/

今回の事象は緊急措置で早期の対応が救命に繋がったもので、場内アナウンスは適正を欠くものと言えよう。

しかし、土俵に女性を挙げないということは女性差別でもなんでもない。

人の立ち入りを認める認めないはその場所を管理するものの権限である。これくらいの理屈の分からない輩の多いのに驚く。

大相撲の土俵は公共の場ではない。

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