真の佛法には折伏(しゃくぶく)はない
師は日蓮について、好きだという。信者に対するキメの細かい対応に共感しているようであるが、折伏には大きく批判している。
私は「念佛無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という、例の四箇の格言」には断じて組みしがたい。
佛教では「談他過失戒・自讃毀他戒をいう。他人の過失を談じ、自ら讃め他を毀るのは、まだ真に釈尊の説く、「無我」に徹していない証拠である。心の底にどこかにおれがーおまえが」という自他の対立が、いわゆる「人我の見」が残っている。
『法のために』と言って争う人もいますが、そんな『法』はありません。佛法には本来『摂受』(しょうじゅ)はあっても『折伏』ということはありません。それは佛道ではなく修羅道です。不動明王の折伏は、自分に向けてのもので他者に向けるものではありません。
佛教哲学では、「〈空〉とは〈自他不二〉という。自我を「空」じると、すべてが自己になる。天地自然の万物も、他人も、いや敵でさえも、自己(「無相の自己」のある「相」)である。そうした「智慧」はただちに「慈悲(無限の愛)」として働く。
ここに大乗佛教の真髄がある。そこには「争い」はない。他を活かす行と祈りがあるだけである。
私は日蓮は大嫌い。理由は次のとおり。とても佛弟子とは思えない。秋月師は下のようなことを知らないであろうか。
日蓮は法華経のためなら、焼き討ち、人殺しも辞さぬ。蒙古が入ってきた方が皆が思い知るであろうからそれに期待するなんて言動は許し難いと考える。以下のような記録が残っているようである。
★蒙古使御書「日本国の敵にて候念仏、真言、禅、律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頚を刎られ候ける事こそ不便に候へ」
意訳 日本国の敵である念仏、真言、禅、律等の法師は斬らないで罪の無い蒙古国の使者の首を切られた事こそ不憫である。
★撰時鈔「建長寺寿福寺極楽寺大仏長楽寺等の一切の念仏者禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切ずば日本国必ずほろぶべしと申候了ぬ。」
意訳 建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏長楽寺等の一切の念仏者や禅宗の僧侶らが寺や仏塔を焼き払ったうえで彼らを由比の浜で首を斬らなければ日本国は必ず滅びるであると申し添えておく。
★秋元御書「不殺生戒と申は一切の諸戒の中の第一也。五戒の初にも不殺生戒、八戒、十戒、二百五十戒、五百戒、梵網の十重禁戒、華厳の十無尽戒、瓔珞経の十戒等の初めには皆不殺生戒なり。儒家の三千の禁めの中にも大辟こそ第一にて候へ。其故は「遍満三千界、無有直身命」と申て三千世界に満る珍宝なれども命に替る事なし。蟻子を殺す者尚地獄に堕つ、況んや魚鳥等をや。青草を切る者猶地獄に堕つ、況んや死骸を切る者をや。是くの如き重戒なれども、法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説き給ふなり、況んや供養を展ぶべきをや。故に仙予国王は五百人の法師を殺し、覚徳比丘は無量の謗法者を殺し、阿育大王は十万八千の外道を殺し給ひき。」
意訳 不殺生戒と言うのは一切のあらゆる戒の中で一番罪が重い。五戒のはじめにも不殺生戒、八戒め、十戒、二百五十戒、五百戒、梵網経の十重禁戒、華厳経の十無尽戒、瓔珞経の十戒等のはじめにはみんな不殺生戒とある。儒教の三千の戒めの中にも大罪で一番罪が重いのである。それはある経典に「遍満三千界、無有直身命」と説かれるように三千世界に満る珍しい宝があっても命に代わることはないのである。アリを殺す者はさらに地獄に落ちる、魚や鳥類であれば言うまでもない。青草を刈り取る者もなお地獄に落ちる、死骸を切る者も同じである。このような重い戒めであるが、法華経の仇になればこれらを阻害する事は一番の功徳と説かれている、供養をするものは言うまでもない。であるから仙予国王は五百人の法師を殺し、覚徳比丘は数え切れない謗法の者を殺し、阿育大王は十万八千の外道を礼賛するものを殺したのである。
★日蓮は法華経布教のためには蒙古が日本を侵略し自分の予言が的中することを願っていたというのである。
鎌倉武士の奮戦、暴風雨の襲来により蒙古が全滅したと聞いて、がっかりして病気になり、翌年に死んでしまったということである。
『そんなはずが ない。この日蓮を陥れるためのデマだ』(富城入道殿御返事)