十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

本来人権なんてない

2022年09月17日 | 共生

 9月8日に、次のとおり死者に人権がない話を記事にした。

 社民党党首 福島瑞穂の弁護士としてのかつてのツイートが話題になっている。
「死んでしまった人の人権なんて考えても仕方がない。前途ある中学生の3人の人権を第一に考える必要がある。」

 殺人者に人権を奪われた人は放置し、殺人者の人権を重視する、どうしても馴染めない考えである。

 そこで、そもそも生まれながら人権を持っているのかどうか考えてみたい。

 人権なんて持って生まれてくるわけではないというのが、私の結論である。

 例えば、山道を歩いていて熊に出会って、「俺には生きる権利がある」と叫んでみても聞く耳持たずに「ガオー」と食い殺される。
  殺人者は生存権なんて認めてくれない。

 つまり、人権は国等により制度として作られ、その構成員が認めてくれることでなければならない。

 そもそも、権という字の意味として、「仮の」ものというのである。
 人と人との約束によって、力関係が生じるということなのである。

 基本的人権は国によって作られた恩恵である。

 人権、人権と言いながら、その元である国を愛せない人間が多すぎる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死んだ人に人権はないのか

2022年09月08日 | 共生

死んだ人に人権はないのか。

社民党党首 福島瑞穂の弁護士としてのかつてのツイートが話題になっている。
「死んでしまった人の人権なんて考えても仕方がない。前途ある中学生の3人の人権を第一に考える必要がある。」

死んだ人というのが、今、まず 安倍元首相が想起される。
安倍さんの全ての人権の否定し、反対に山上徹也殺人者に100万円超の支援金や減刑を求める署名が8000人を越えたという。(9/8)

死んだら人権がなくなるのか、といえば、死んでもいろんな権利は残り、遺族等に引き継がれると思うが、、、。

「死んでしまった人の人権なんて考えても仕方がない。」には、人間的な労りの感情の欠片も感じられない。冷たい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ライブラリへのリンクを更新しました。

2021年09月26日 | 共生

 ブックマークからライブラリへのリンクがセキュリティ アップデートによってリンクが無効になっていました。新しいリンクを張りましたのでご利用ください。

 アクセスできなかったお方へ、お詫びいたします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日の丸を汚すな! 涜すな!

2021年08月11日 | 共生

まず、2枚の写真を見比べて頂きたい。

どんな感想を持たれるであろうか。

上の1枚は今日のNHK朝ドラ「お帰りモネ」の1シーンを切り取ったものである。
感ずるところがあれば、私が以前書いた文章を一読いただければ幸いである。

願わくば多くの心ある日本人に知らしめたい。

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/551d2ae0a5e65855ec1c157d52229b1e

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ禍のオリンピック 頑張れ日本!!

2021年07月28日 | 共生

 またコロナの蔓延拡大する事態となってきた。

 そんな中でのオリンピック。観客なし。状況としては最低と言わざるを得ない。

 しかし、日本選手は頑張っている。昨日現在で金メダル数10個で第1位、新種目での受賞が多いということもあるが、頑張っている。

 日本人はやる時にはやる。

 最低の大会にはしたくない、そんな思いが日本人の気持ち。大和魂だ!!

 されど、されど、そんな中でも、じっと坐っている時間を持ちたい思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ村に参加しました

2021年03月08日 | 共生

 この度、にほんブログ村に参加することにしました。

 覗いたブログにバナーがあったので、クリックしたらランキングで記事が紹介されていたので、見てもられる人が増えるかもと思い参加しました。

 カテゴリーは「哲学・思想」、サブカテゴリーが「人間・いのち」「仏教」「禅・坐禅」です。

 私はバナーを「人間・いのち」を選択しました。

 私は内山興正老師から、「禅の背景には仏教があり、仏教の背景には自己の人生がある」と聞いたことがあり、自己の生命観、世界観、人生観を禅・仏教に学ぶという態度を採っており、必ずしも仏教に随順するということではないので「人間・いのち」を優先しました。

 一度、クリックして覗いてみてください。いいのがあるかも知れません。

 ついでですが、いつぞやから、下にリアクションの4つのボタンが設置されました。

 しかし、残念ながら、反応が極めて少ないのはいささか淋しい気がします。

 同意されるような記事がありましたら、クリックをよろしくお願いします。凡夫には励みになります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナウイルスと共存共生する生き方

2020年05月17日 | 共生

日本の感染者数が、減少し39県で非常事態宣言が解除された。

残りの8都道府県も早々に解除されることが望まれる。そうでないと経済的ダメージが深刻の度を加えていくことが目に見えている。

ところで、ここ数日のコロナウイルスの感染状況を見ると、感染者数は順調に減少しているが大阪では今日感染者が0になったというが気になるところもある。

それは死者数が増えていることである。744人も亡くなっている。80歳以上は死亡率が高いが、重症患者数の割合が非常に少ない。これは重症化したら助からないということである。覚悟を決めておかなければならないのである。

https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

それと、ドイツ、韓国の例を見ると、収束したり、収束が見込まれる状態になっても、油断すると、再発してくるということ。2波、3波と再流行に気をつけなければならない。スペイン風邪は終息するまで3年かかっている。

コロナウイルスは簡単に絶滅させることはできない。当面、不自由ではあるがコロナウイルスがいる世界を生きていかなけれならない。

仕方がないと諦めるしか仕方がない。

こんな時、良寛さんの言葉を教訓とすべきだ。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自分一人くらい」と「自分一人だけでも」

2020年04月12日 | 共生

 コロナウイルスの感染爆発を抑えるために非常事態宣言が政府から発せられ、人との接触を8割抑えるため行動の自粛を求めらた。

 そうなると皆が足並みを揃えて、外出を控え、人と接する時は2mの距離を取ることに心がけなければならないところだが、そういうことに反発を感じる人間がいる。

 そのような人間が考えることは、大勢が対象なんだから「自分一人ぐらい」構わない。皆がちゃんと守っているわけではない。「自分だけではない」と言い訳を考える。罰則があるわけでないしそれで許される範囲と思ってしまう。

 TVの報道なんかで、自粛要請後も出歩く人にレポーターがインタビューを試みて理由を聞いたりしているが、それを見て「あいつも出歩いている」と、自分のはみ出し行為を正当化している。

 「自分一人くらい」というのは、自分を大勢の中に埋没して自分を矮小化する行為なのだが、それが分かっていないようである。
自己がないこと、おびただしい。

 一方、やらなければならないことを皆がやらないような時でも自分はちゃんとやるというのが、「自分一人だけでも」である。
できにくい行為だが、これが自己を生きているということである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訪問者数30万人超えていました。

2019年07月27日 | 共生

しばらく気づかずにいしたが、訪問者数が30万人を超えていました。10年以上掛かっていますが、これだけのお方が来ていただいたことを素直に喜びたいと思います。

ありがとうございました。

今後ともよろしくお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安泰寺ネルケ無方住職の人権講演

2018年10月14日 | 共生

曹洞宗安泰寺ネルケ無方住職の人権講演の映像がユーチューブで公開されていたので、紹介します。

タイトルは

「赤・青・黄色ー多文化の狭間で人権を考える」

まあ、聞いてみてください。

差別戒名、ゴキブリ、ヤクザ、黒人等々

https://www.youtube.com/watch?v=JVg_yy7mN0M

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出逢うところわが生命

2017年05月16日 | 共生

今日、ネットで「教えて!goo」を覗いたら、切実な相談が出ていた。

「生きづらいんです すごく死にたくて 死にたくて 仕方なくなることが多いんです。目の前に重さに耐えられるだけの縄と結び付けられる場所があったら今すぐにでも首を吊りたいとよく考えます。・・・・・」と。

内山興正老師の言葉、「出逢うところわが生命」。放っとけないという思いで次のような回答を書いた。良い方向に向かうことを祈りたい。

禅的発想をされるとよいでしょう。私も精神的に落ち着かない時期があり、世界観を逆転させたら随分楽になりました。
普通はまず宇宙なり地球なりという出来上がった世界がまずあってその中に生まれ生きている、自分の周りは自分ならざるもので取り囲まれていると考えます。そう考えると気の弱いものは周りからの圧迫を強く感じて自己防衛上自分の周りに殻を作るのです。嵩じると自閉症です。

ところが禅ではまず自分がいて自分の周りに世界が展開しているのだと考えます。自分がそこにそれがあると認識してそれがあることになるのです。認識しないものは言及不能です。言及できないものはないものと見做すのです。
あらゆるものは体験すればこそある、体験したもので自分の世界はできているのです。
きれいな花が咲いている、あなたがきれいだと思ってこそその花がきれいになるのです。あの人が憎らしい、そう思うことによってその人が憎らしくなるのです。他の人からするとそうでもありません。

世界というのは自分が体験することによってできた自分独自の世界であり、その中でそれを新たな体験をしつつ生きているのです。自分が自分独自の世界を持っているのです。自分はその世界の中心にいるのです。どこへ行こうとその時その場を中心として自分の世界が展開してくるのです。

そうしますと、出逢うものは実は自分に他ならないのです。「出逢うところわが生命」(内山興正)なのです。
「出逢うところわが生命」というのは素晴らしい言葉です。喜びを増幅し、悲しみや憎しみ、苦しみを緩和してくれます。
何かあったら唱えてみてください。

「行き先に 我が家ありけり かたつむり」(山岡鉄舟)

「われわれだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめいもっている世界は違うのじゃから」(沢木興道)

「自己生命図(下図のとおり)」(内山興正)
1~6図までは私のブログにあります。
http://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/98a90e5750ce61e0 …

「この状態なんですか??? どうしたらいい」の回答画像8
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教の持つ働き

2016年06月17日 | 共生
宗教が持っていなければならない働きとして、私は次の5点を挙げたい。
自由、安らぎ、生き甲斐、共生、喜び、である。

これだけのことを教え与えてくれる宗教を持たないのは、どうかしているというべきである。

無宗教であることを自慢げにいう人もいるが、「私、馬鹿です」と言っているようなものだ。

しかし、それも無理ないところもある。世にある宗教がお粗末すぎるからである。

一つは死後の世界という架空の話を持ち出しそれを教えの根拠としていること。

二つ目は縛りがきつく脅しが用いられること。つまり自由がないということ。

具体的には教えに背くと地獄に堕ちるなんてことである。

先日の銃乱射事件も同性愛は神に背く行為、地獄に堕としてやる、そのことにより自分は天国へいける、そんな思いでやったのだろう。

宗教に脅しは無用である。

そうなると、合格点をとる宗教は限られてくる。
佛教と神道、これもおかしなものが混じり込んでいるから、その部分は自分で摘み出して捨てる作業が必要である。

一番真っ当なのは、私の選んだ道元禅だと思う。

道元禅師の教えの中に三心というのがある。
大心、老心、喜心である。これを五つの項目に当てはめると、
大心=自由、安らぎ
老心=生き甲斐、共生
喜心=喜び
大心とは、十方世界を自己の世界とすること。
老心とは、老婆心のこと。自己世界の中の生命を我が生命の如く接すること。老婆親切という言葉もある。
喜心とは文字通りの喜びであるがエゴ的喜びではない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一神教のこわいところ 米銃乱射事件

2016年06月16日 | 共生

13日産経の号外記事によると、米国でイスラム国シンパによる銃乱射事件があり50人が死亡したという。

イスラム教徒が命懸けでテロ行為を行う事件が絶えないが、宗教の持つ危険な一面が格差の拡大した世界の中で表出してきている。

一神教の持つ独善性とそれに伴う不寛容さが、人のいのちを何とも思わないような行為に走らせる。そのためには自分のいのちも捨ててしまうのだから、狂っているとしか思えない。

聖戦で死んだ者は天国に行ける、天国は素晴らしいところ、「酒は美味いし姉ちゃんは綺麗」だというのである。

一神教にとって異教徒や異端者のいのちは何とも思わない。殺し、奴隷にするなんてことが当たり前なのだ。アメリカが日本に原爆を投下したのも異教徒なるがゆえにものだ。相手がキリスト教国ならきっと躊躇したことだろう。そしてとても正当化できないはずだ。

さて、かの犯人は彼なりの正義感、神への忠誠心を持って犯行に及んだのだろうが、大きな考え違いがあるといえる。彼らの神は彼らにとって偉大なる神のはず、イスラムとは神への恭順を示す言葉だ。この世のことは全て神の思召し、最終的には神が全て差配される、それを信じて耐えることを教えているはずである。

しかるにかの犯人は、神によるの裁きが待てずに神に代わって神の正義を行おうとした。このことは神への不信を意味する。
神への信仰のつもりが、神を冒涜していることになることに気がつかない。

日本もかつて「天に代わりて不義を討つ」と、戦争に出掛けたが、「天に代わりて」が不義だったのだ。

「以下産経記事」

米南部フロリダ州オーランドのナイトクラブで12日未明(日本時間12日午後)、銃乱射事件が発生し、地元当局によると、50人が死亡し、53人が負傷した。容疑者の男は警察と銃撃戦の末、店内で死亡した。オバマ米大統領は同日、「米国史上最悪の銃撃事件」だと述べ、「テロ行為であり、憎悪に基づく行為だ」と実行犯を強く非難した。オーランド市は非常事態を宣言した。

 米メディアは、男が犯行前、警察にかけた緊急通報の中で、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)に忠誠を誓う発言をしていたと伝えた。IS系のサイトも「ISの戦士が実行した」と事実上の犯行声明を出したが、実際に関与があったかは不明だ。

 当局によると、男はニューヨーク出身の米国籍でフロリダ州に住むオマル・マティーン容疑者(29)。家族はアフガニスタン出身という。殺傷力の強い銃や爆発物の疑いがある装置を所持しており、警察当局者は「周到に準備していたとみられる」と述べた。

http://www.sankei.com/world/news/160612/wor1606120033-n1.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「目からウロコの日本の歴史」

2016年06月07日 | 共生
ねずさんこと小名木善行氏による「目からウロコの日本の歴史」という講話がyoutubeにアップされていましたので、ご紹介します。

49回もあるので聞き終えるまで少々時間はかかるが、聞く値打ちは十分あると思う。実は今2回目を聞いている。

私自身目からウロコが落ちた例として、仁徳天皇陵などの巨大古墳は、元々墳墓として作られたものではなく、田畑を開墾したり、灌漑用水を作った時削り採った土を積み上げたものでそれを墳墓として利用したのだという。
あんなどでかいものを墓ごときものでどれだけの労力を使ったのかと大きな疑問を持っていたが、小名木氏の解説で納得した。

話しを聞いて、日本という何と素晴らしい国に生まれたことか、ウロコではなく涙が出てくる。

ところで小名木氏の話でよく出てくる言葉に、「ウシハク」「シラス」と言うのがある。初めの方で解説かあるのでしっかり理解しておく必要がある。


https://m.youtube.com/watch?list=PLgWDZ7Z_8LQYIjACyGC97n7bW4jWWK2aZ&v=usEPYPBe_D4
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原爆投下は大虐殺 オバマは本来謝罪すべきもの

2016年05月29日 | 共生
アメリカ国民は、原爆投下を正当なものと考えるものが半数を超えているという。
原爆投下は戦争の終結を早め、沖縄に続く上陸作戦で米兵の死傷者が出ることを防ぎ、かつ、日本人の犠牲も少なくすることができたというのが、その理屈である。

確かに一理はある。沖縄戦のような状況が本土でもあったとすればどれだけ犠牲が出たか分からない。
我輩は当時3歳になったばかり。母親は近くで艦載戦闘機グラマンが機銃掃射するところを目撃している。住んでいた町の中に松下電器の工場がありそれを狙った爆弾もあちこちに落ち、戦火は身近に感じる迫っていたことから、戦争が続けば我が身もどうなっていたか分からない。

原爆投下が戦争終結を早めた一つの要因となったことは否めないが、日本はもう 戦争継続が不可能な状態になっていたのであり、その上での原爆投下は戦争の目的からすれば意味がなく、ただの過剰な報復行為であり、そして核の実験にすぎなかったと言わざるを得ない。

20万を超える人間を焼き尽くす実験、これにはどこにも正当性は認められない。残虐な殺戮行為でしかないのである。

かかる兵器は当然使用されるべきではないが、せめて初めて使用するからには前もって相手に警告を与えるべきであり、まして、2発目を長崎に落とすなどまさに戦中に鬼畜米英と呼んでいたそのままの所業と言わざるを得ない。
今もって鬼畜の行為であると気づかぬなら依然鬼畜と言わざるを得ない。

しかるが故にオバマは米国を代表する大統領として本来は謝罪しなければならないのである。
しかし、謝罪はしなかったし、日本も謝罪を求めなかった。

どこかの国は謝罪したら罪を認めた、それ、賠償金を払えなんて言い出すのがいるからややこしくなる。そうなると謝りたくても謝れないということもある。

謝らなくもいいという、日本人って本当に優しい民族だ。日本人として生まれて本当によかったとつくづく思う。

さて、ここで我がブロクの読者諸兄によく考えてほしいことがある。あの忌まわしい原爆投下があったればこそ、ご自分が生まれてきたのだということ、あの原爆投下がなければ生まれて来ていない。それをどう受け止めるかということである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする