「宇宙が先か 我が先か」
普通に考えたら、宇宙が先に決まっている。宇宙の開闢は138億年前、その中に我は生まれてからわずか数十年、比較するまでもない。
しかし、我を客観的に観察しただけである。
そんな我は我ならざるものに取り囲まれてそれから圧迫を受け、日々苦悩の連続である。そこで何とか自由に振る舞える領域、つまりテリトリーを作り、その中で快楽を得ようとしている、それが多くの人の幸福である。
仏教はそんな人生は苦しみの人生でしかない、煩悩だらけの人生から解脱せよと説く。無我、空、涅槃とか言って我の存在を否定する。そうすることで「安らぎ」の生活、人生が得られるかも知れない。
それでよいという人はそれでよいかも知れない。それも一つの価値観である。
しかし、そうするためには長年修行に専従しなければならない。多くの人はそんな生き方ができるわけはない。
世俗に生きる我々は「安らぎ」もほしいが、「生き甲斐」もほしい。生き甲斐は働きによって得る、そのためには働きの場がいる。働きの場といえば、学校、会社、社会といったものが考えられるが、ところが得られないと考え、悩み、不満を訴える人も非常に多い。
さて、この働きの場、安らぎの場として、誰でも同じ共通の場、宇宙を提示したいのである。
さて、ここより宇宙より我が先なのか、お話しなければならない。
1 100年前の宇宙、あったに違いないだろうが我はまだ生まれていない。そんなものがあろうがなかろうが、どうでもいいことであろう。
2 次に生まれる瞬間を考えてみよう。その前は過去、過去は過ぎ去り、存在しない。我が生まれてその瞬間新しい宇宙が生まれる。我と新生宇宙とは同時である。
3 我の人生を考えるのであるから我が優先する。
4 我がいて宇宙もある。我がいなければ宇宙も存在しない。
5 我が時々刻々宇宙に変更を加えている、宇宙創造を行っているのである。
6 我の造った宇宙は当然永遠である。我と宇宙は一体である、とすると我の生命も永遠ということになる。
7 人生の目的は、宇宙創造である。そこに生き甲斐と安らぎがある。
我がいて宇宙がある・・安らぎ
我が宇宙を創造する・・生き甲斐
今ここが宇宙の中心・・働きの場
生命力は宇宙力