私が内山興正老師に出逢ったのは昭和45年の秋のことである。当時京都市北区玄琢にあった安泰寺の住職をされていて、そこで開かれていた日曜参禅会に参加するようになったが、一番驚いたことは仏教の生命観、世界観がそれまで自分が了解してきたものと全然違うことであった。
老師は仏教語をできるだけ現代語で分かり易く説明することに腐心されていたが、「仏法」のことを「生命の実物」と言われるのである。
「生命の実物」とは「あらゆるものは自己に生命体験されるところに存在するのであり、自己はあらゆるものを生命体験するとことに生きているのである」
仏教は自己生命が根本であるということ。自己生命のないところに何ものも存在し得ないということである。
「いや、俺がおらなくても世界は存在する」と言われるのであろうか。そういう言葉を発することが自己の存在を前提としているのである。
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また、こんな疑問を呈される人も当然あると思われる。「今の説明では認識外のものは存在いないことになる。現に認識外のもので存在するものがいくらでもあるではないか」と。
認識外のものがあるというのは既に認識にかかっているということである。「認識外のものがあるはず」という程度の認識が働いている、その認識程度の存在の有様があるのである。
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