6月14日(木)曇時々晴
こんばんわ。明日は飲み会でブログはお休みですが、明日からは梅雨が本格化の気配です。明後日はゴルフだと言うのに雨になりそうです。今年は中々良いコンディションでゴルフができません。従って良いスコアも中々難しそうです。
ところで今年のNHKの大河ドラマは平清盛ですが、視聴率があがらずまったくダメなドラマのようです。そこで平家を代表する女性と言えば悲劇のヒロイン、建礼門院平徳子と言うことになるでしょう。平家が栄えた前半生は華やかな宮廷生活を送り、父清盛の意思で徳子は15歳で高倉天皇の女御となり、翌年は中宮となります。と言っても高倉天皇は11歳ですから子供ができるのは7年後でした。ここまでは清盛の描いた戦略通りでしたが、「奢れる平氏は久しからず」の言葉のように清盛と後白河法皇との対立が深まるにつれて、平氏一門は衰退していきます。徳子25歳の時高倉天皇は死んで未亡人となり、清盛も不思議な熱病で亡くなり、諸国では源氏が一斉に蜂起していました。かくて平氏一門は追われるように西に落ちて行きます。建礼門院も幼い息子の安徳天皇を連れて屋島、一の谷、そして最後の壇ノ浦で平氏一族は女も子供も西の海に沈み果てて滅亡することになるのです。清盛の妻で建礼門院の母である時子が幼い孫(安徳天皇)を抱いて海に飛び込んだのは誰もが知っていることでしょう。むろん建礼門院も母と息子のあとを追って海に飛び込むのですが、幸か不幸か水に漂う彼女の長い黒髪が源氏の兵士の熊手の先に引っかかり、彼女は舟に引き上げられ、そのまま京都に送られることになったのです。すでに父も母も、夫も息子も奪われた28歳の建礼門院は生きていても何の望みもない悲劇のヒロインでありました。彼女は剃髪して真如覚と号し京都の北の草深い大原の寂光院に閉じこもり、ひたすら念仏三昧の生活を送ることになります。彼女の後半生はまさに悲劇のヒロインそのものです。だから京都大原の寂光院のたたずまいは憂いを帯びているような気がしてなりません。かつての父の敵であった後白河法皇が寂光院で淋しく暮らしていた建礼門院を訪れる話はよく知られていますが、はたして建礼門院はどんな気持ちで接したのか我々にはわからない話であります。彼女が美人だったのかどうかもよくわかりませんが悲劇のヒロインと言うものは誰もがきっと美人だったと思うものかもしれません。