”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話

2012年06月19日 20時40分19秒 | Weblog

6月19日(火)雨・・・台風4号

台風4号がどうも直撃のようです。帰宅時には風が強くて歩けそうにないのでタクシーで帰って来ました。6月の台風の上陸は8年ぶりだそうですが、最近の気候はどうなっているのでしょうか?竜巻が発生したり、梅雨の季節に台風が直撃したり、日本の四季の様子も変わって来るのでしょうか?俳句の季語も気候に関しては使えなくなりそうな感じです。

ところで今日は日本史上もっとも悲劇のヒロイン細川ガラシア夫人の話をしようと思います。明智光秀の三女として生まれた玉子(のちにキリシタンの洗礼を受けてガラシアと名のります)は織田信長の仲介で細川忠興の妻に16歳でなります。彼女の不幸は父光秀が信長を討って、謀反人になってからでした。婚家の細川家から離縁され、京都の三戸野山中に幽閉され、淋しい日々を過ごすことになります。夫の忠興も玉子を熱愛していましたが、主君への忠誠を示すため、やむおえず彼女を身辺から遠ざけるしかなかったのです。この間玉子は悩み苦しみ、キリスト教に接近したと言われています。やがて秀吉が天下をとり、戦功のあった細川忠興は妻を呼び戻し復縁します。そして彼女は洗礼を受けてガラシア夫人となります。その頃日本に来ていた外国人書いたものによっても知られるほど彼女は美人で、聡明で、信仰に篤い女性だったようです。
しかし彼女の美しさ、聡明さを持ってしても戦国の世に生きる武将の妻として、時代の束縛から逃れることはできませんでした。逃れる道はただ信仰しかなかったのです。関ヶ原の戦いが始まると、徳川方についた忠興は息子を連れて関東に出陣したのです。この留守中に石田光成は大阪に残された大名たちの家族を人質として大阪城内に閉じ込めようとしたのです。ガラシア夫人の貞潔は人質と言う状態に甘んじることができませんでした。屋敷を石田の兵に取り囲まれて、彼女は死の道を選ぼうとしました。と言ってもキリスト教では自殺はご法度です。彼女は家老に胸を突かせて、38歳の生涯を閉じることになるのです。
彼女の父が謀反などもし起こさなかったら、忠興出陣の折りもし大阪の屋敷に留まっていなかったら、などと思いを巡らすと悲しい女性としか言いようがありません。彼女は夫から棄教することを迫られても、禁教令の圧迫を受けても少しもひるむことなく自分の一念を貫き通した点においても芯の強い毅然とした潔さがあった女性だったような気がします。

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