西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

『伽藍が白かったとき』(ル・コルビュジェ)より

2011-06-04 | 生活描写と読書・観劇等の文化
昨日、テレビの「新日本風土記」で日本の各種建築を見た中で青森県・弘前市に建てられた建築家・前川国男さん設計の一連の建築をみて、改めて前川さんが弘前に因縁(お母さんの生れ故郷)があったことを認識した。

で、ふと前川さんが戦前、東京帝大建築学科を卒業してすぐにパリのル・コルビュジェの事務所に行かれたことの連想から、岩波文庫で買い置きしてあったル・コルビュジェ著、生田 勉/樋口 清訳の『伽藍が白かったとき』を思い出して手に取ってみた。

前川さんが「まえがき」を書いておられるが、宮内嘉久著『前川國男』(晶文社)によると、この『伽藍が白かったとき』は前川さんが後輩の生田 勉、樋口 清さんに「訳させた」もののようだ。この本はル・コルビュジェが1930年代にニューヨークを訪れて書かれたものだ。まあ、ある意味で「ニューヨーク(の建築、都市計画)批判」の書でもある。

この二冊は、ゆっくり読んでみたいが、『伽藍が白かったとき』をぱらぱらと見て、ある一ヶ所に目がとまった。(ニューヨークという)「11 都市に木がない」という項である。

都市には木がない!と言っても言い過ぎではない。木、人間の友、あらゆる有機的創造の象徴。木、全体的講造のイメージ。完全な秩序にありながら、われわれの目には最も幻想的なアラベスクと映ずる魅惑的な風景。開かれた新しい手の、春ごとに数を増す枝の戯れ。葉脈の整然と引かれた葉。空と地の間にあってわれわれを蔽うもの。われわれの目の前にある恵みの衝立。固い建築の偶然的な幾何学とわれわれの心臓や目のあいだに置かれた、快い比例中項。都市計画家の手に任された貴重な道具。自然力の綜合的な表現。われわれの労働や気晴らしを囲む、都市における自然の存在。木、人間の何千年来の仲間!

 太陽、空間、木、それらを私は、都市計画の基本的な材料、「本質的な喜び」の提供者と認める。・・・
」(131~132頁)もちろん、「セントラル・パーク」の存在を高く評価しつつもこのようにル・コルビュジェは言っているのだ。特に木と人間、木と建築・都市の関係を多様な視点から位置付けた点が大きいだろう。

昨日、私が言った「環境との繋がり」の重要性を、太陽と空間と木のサンドイッチによって見事にその基本を抽出したと言えるのである。この文言も頼りとして考察を深めていきたい。

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