西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

「あっ」と驚く万葉集解釈ー白川 静ー

2009-03-25 | 文化論、科学・技術論
万葉集随一の詠み手は柿本人麻呂であろう。

その有名な「安騎野の冬猟歌」について、「漢字学者」の白川 静さんが「あっ」と驚く解釈(仮説)を提出している。

これは長歌と四首の短歌からなっている。

松岡正剛著『白川 静』(平凡社新書440)によると(157頁以下)、この歌は、持統7年(693年)のことで、持統天皇の孫(亡くなった草壁皇子の子)の軽皇子(11歳、後の文武天皇)が安騎野へ、柿本人麻呂等を伴って出かけた時のものだ。

これは、冬至の頃だったことが重要と、白川さんは捉えていたようだ。

四首の短歌で一番有名なのは、「東の野に炎(かぎろい)の立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」であろう。これについて、斉藤茂吉は「安騎野に宿った翌朝、日出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った安騎野にも映えって見える。その時に西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている」という解釈をしている。素直な叙景的解釈と言ってよい。

ところが、白川さんは、違ったユニークな解釈をしている。まず、何故、持統天皇は孫の軽皇子を、この時期に安騎野に柿本人麻呂等を伴わせて宿らせたか、であるが、亡くなった子の草壁皇子の霊を孫の軽皇子に受けさせて「競争者」多数の中で次期天皇の地位を確実にしようとたくらんだ、としている。

そこで、先の短歌の「東の炎(かぎろい)」は、軽皇子を意味し、「月かたぶきぬ」は草壁皇子が消えていくことを表し、この二者の強い「つながり」を意味している、とのことのようだ。つまり、軽皇子は親の草壁皇子を継いで次の天皇になるべく「東より昇っている」とのことだ。

うーん、そういう深読みをするのか、と驚いた。