西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

コーポラティブ住宅地「つなね」の庭 (住まいと庭(7))

2005-06-30 | 住まい・建築と庭
このブログの記念すべき最初の記事が窓から見える「つなね」の中庭だった。この中庭の植栽計画については、23軒で色々考えた。どういう樹木を植えるかについて議論した。23軒あるのでパーソナルな個木を各1本で計23本、皆の共木として三本選ぶことになり侃侃諤諤(かんかんがくがく)議論した。そのトップになったのはOHPを駆使し生活体験を述べたFさん提案の欅(けやき)だった。確かに欅は春から夏の緑も良いし秋の紅葉も良い。天に向かって「末広がり」なのもよい。二位は私の提案した楠木だった。私は大器晩成型の「楠木学問」という言葉が「梅ノ木学問」の対極にあって思い入れのある樹木だと説明した。Ⅰさんが、人生の最後に儲かる「楠木長者」という言葉も井原西鶴時代からある、と応援してくれた。それで、決まった。三位は、私の妻が提案したコブシだった。春一番に咲く春を呼ぶ樹木である。これもすんなり決まった。特別に桜も植えることになった。ところで私達は、個木に柿を選んだ、柿の葉寿司や「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)のように奈良らしい樹木である。そこで、これらを眺めて言葉遊びが思い浮かんだ。「柿に楠(くす)欅(けやき)にコブシ かきくけこ」 座布団二枚!の声が飛んだのである。

自分の庭と隣の庭 (住まいと庭(6))

2005-06-30 | 住まい・建築と庭
住まいと庭、というテーマを出した時、住まいの町並み、庭の庭並みが「つながり」の要諦であるように述べた。単に孤立した住まいや庭では意味がない。例えば、植生の合理性を考えると、庭から庭、庭から並木、並木から公園樹木そして里山樹木、山樹木と「つながって」いるべきであろう。そこまででなくとも、隣の庭と連携がとれていることが重要と思うがどうであろうか。

家から見える庭や山 (住まいと庭(5))

2005-06-30 | 住まい・建築と庭
皆さんの家からどういう庭や山が見えますか。さっき紹介した芭蕉の句では座敷から庭や山が見えていることを示している。現在の私の家からは自分達でつくった庭と西側には遠く生駒山が見えている。やや東側の家がまだ建っていなかった頃には遠く奈良の若草山も見えていた。住み始めの10年ほど前には若草山の「山焼き」も見えていたのである。自分達の庭造りはおいておいて、更に向こうの山がどう見えるかは、その地域の自然条件に依存している。富士山のような孤立した高い山だったら広い範囲から見えるであろう。井上 靖の幼年時代を思い出しての自伝的小説『しろばんば』では伊豆半島にあった幼年時代の彼の家の土蔵の窓からも富士山が見えていたことが分かる。とにかく地域のアイデンティティになるような山がある場合には、皆、借景になるように窓の位置や向きを考えるに違いない。では庭はどうか。古い寝殿造りに模したいというのも一つの見識である。私の故郷の金沢では、私の仮説では多くの人達が故郷の名園・兼六園を少しでも模したいと思っているのではないか。(拙著『キラッと輝くいい住まい』参照)その伝だと、岡山では後楽園、水戸では偕楽園、高松では栗林公園、そして熊本では水前寺公園がモデルになるかもしれない、と思うがどうであろうか。

山も庭もうごき入(いる)るや夏座敷 (住まいと庭(4))

2005-06-30 | 住まい・建築と庭
芭蕉の俳句と住まい、というテーマは別に考えるとして、庭について芭蕉の一、二句紹介したけれど、多分これに関して最も有名な句をここで紹介しておきたい。表題のものである。暑い夏の座敷に座して窓等を開け放って、外部空間に涼しさを求めるのが人情だろう。そこで、こちらから涼しい庭や更に遠い借景の山の緑に目をやって涼しさを求めるのであるが、芭蕉は、こちらの視線が外部の庭や山に向かって動くのではなく、逆に向こうの山や庭が、自分のいる夏座敷に「動き入ってきたなあ」と感じているのである。外部の自然は受動的に鑑賞されるものではなく、積極敵に我々に働きかけるものだ、との認識を示している。我々と環境の新しい「つながり」を見事に捕らえているというべきである。

百歳(ももとせ)の気色(けしき)を庭の落葉哉 (住まいと庭(3))

2005-06-30 | 住まい・建築と庭
直前に紹介した句の一つ前(『芭蕉俳句集』733番、岩波文庫)に表題の句がある。ここでは、逆に百年も経った庭の落葉に感慨をもよおしている格好である。住まいの様子は、この句では直接に分からないが、やはり古びたものに違いない。庭を含む住環境は、こういう自分が死んだ後の百年後までも想像して創造することが肝要ということに違いない。

作りなす庭をいさむるしぐれかな  (住まいと庭(2))

2005-06-30 | 住まい・建築と庭
一寸正確な漢字仮名混じりになっているか怪しいが、表題にしたのは松尾芭蕉の句であり私の好きな句の一つである。一寸季節はずれだが、住まいと庭の話として聞いて欲しい。この話はもともと俳人の小澤 実さんが書いた『ひととき』という新幹線グリーン車においてある雑誌で読んだ。(雑誌はグリーン車に席を取って読んだ訳ではなく、万葉学者・中西 進先生の助言により「自由に持ち帰った」ものを読んだのである)小澤さんの解説では、意味は、自分が招かれたのは立派に新しく造った庭(本竜寺)であるけれども折からの時雨は、その「人工庭園」を諌めるように降っていることよ、とのことである。つまり、人知を尽くした人工も所詮は自然にはかなわないものだ、ということである。そして、むしろ、新しい人工に自然が時間をかけて加わって(つまり時雨が何年か降り込んで)親和性が出てくるということでもあろう。この句は、実は疋田洋子先生のご退官(この時は、まだご退官!)の記念会食で宇治平等院の近くの料亭に宮城俊作先生の案内で訪れた時、宮城先生への「挨拶句」として引用したものである。そこでひるがえって疋田先生には、次の句を進呈した。
つくりたる家を良くする大掃除 市路

最近、出版した地域居住関連の二冊のPR

2005-06-30 | 地域居住学
最近、地域居住関係で、二冊出版しました。

(1)『これからの郊外戸建住宅地』-「思い出し・思い入れ」から「つながり」へ、平城・相楽ニュータウンを事例にー(2005年5月6日、せせらぎ出版、定価1800円)
 この本は、前田真子さん(奈良女子大非常勤講師)との共著です。実は、私はこの3月まで奈良女子大学に勤めていたのですが、それまで10年間ほど(阪神・淡路大震災前後から)研究室で戸建て住宅地の問題を卒論や修士論文で取り上げてきました。ところが、私が大学の管理職の端くれになってしまい、調査研究の成果をまとめて、学会や社会に報告する機会がもてなかったのですが、助手をしてもらった前田真子さんと相談して3年間で二人でまとめたものです。調査対象として大学に近く、学生諸君がアプローチしやすく、かつ私自身が住んでいて土地勘もある平城・相楽ニュータウンを事例としています。とりあえずの中間報告です。今後も私自身、継続的事例研究で、づっと取り組んでいこうと思っています。(昔、ハムステッド田園郊外を歩いたとき、ここを計画したレイモンド・アンウィンの家があって「ブループラーク(青銘板)」がかかっていたことを、何故か思い出します)

(2)『地域居住とまちづくり』(2005年5月6日、せせらぎ出版、定価1800円)
これは私の「編」になるものです。私の研究室と中山徹先生の研究室は、卒業生を含み「地域居住懇話会」というゆるい組織をつくり、年1回の集まりと同人誌発行をしてきましたが、その10周年と私の退職を期に中山 徹先生や前田真子さんの世話で、関係者15人で書いた共著です。「地域居住とまちづくり」の現代的問題を、それぞれの持ち味を生かして論及しています。共著者は書いている順で、西村一朗、宮島朝子、斉藤功子、立松麻衣子、井上芳恵、久保妙子、姜 恵京、西 英子、辻本乃理子、井倉雅子、久保加津代、前田真子、阿波根あずさ、宮川智子、中山 徹です。
 以上は、直接「せせらぎ出版)http://www.seseragi-s.com で注文できると思いますが、私か各著者に言っていただくと、「著者割引」になると思います。宜しく。