西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

向島ニュータウン(6)-3街区は「化粧直し」

2005-11-23 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウンの駅前左手の3街区は七つの住棟で構成されている。京都側からタクシーで24号線を帰る時、宇治川を渡る辺りから良く見えた。現在、三つの棟では大きく覆いがかぶさっていて外壁(外面)全体が補修中である。この街区は、私が4街区に住み始めた1978年3月以降に出来たものであるが、もう25年以上は経っている。だから、ひょっとして2度目の補修(化粧直し)かもしれない。
この街区には、私の知り合いが何人か住んでおられる。奈良女子大で10年ほど「先輩」のE.先生(現・名誉教授)、やはり奈良女子大におられたが京大に替わられた6年ほど「先輩」のS.先生である。阪神・淡路大震災の後にE.先生に聞くと、廊下のつなぎ目の「エキスパンション・ジョイント」のピンが飛んだ、と言っておられたのが記憶に残っている。よほど揺れたに違いない。
(写真は、大きく覆われた3街区の住棟)

向島ニュータウン(5)-小学校と中学校

2005-11-22 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
近隣住区論では、住区の中心は小学校であるが、向島ニュータウンでは、向島二の丸小学校があり、向島中学校が隣接していた。娘は小学校4年生になる時に松ヶ崎小学校から転校し、中学校も向島で卒業した。中学校2年から3年生にかけて私達一家はロンドンに滞在したので、その時は娘はロンドン日本人学校だった。
今回、向島で小学校や中学校を見て、体育館の屋根が、鉄板葺きのせいか、錆びて赤茶けていたのが気になった。ニュータウンに隣接の向島北小学校でも同じだった。錆びは他にも気になったので又の記事でも描写、考察することにする。とにかく向島二の丸小学校は、運動会その他、私にも思い出のあるところである。ところで、何故「二の丸」なのか。豊臣秀吉の伏見城は、宇治川の北にあったが、巨椋池(おぐらいけ)の向島に出城の「二の丸城」があったため、地名として現在、向島二の丸町となっているからである。(写真は二の丸小学校の体育館)

向島ニュータウン(4)-2街区の集会所

2005-11-21 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン2街区には、ABCDの4つの高層住棟があるが、ABとCDの間の中央に全体に対応する集会所がある。(写真)これが、この街区の共用空間の一つである。他に各住棟の上層に共用フロア部分があり「幼児遊び場」のような位置づけだが、うまく使われていないようだ。この集会所は、良く使われているようだった。時々、前の広場も使って葬儀が行われていたのも目撃したことがある。
後の1、3、4、5、6街区でも集会所があるが、それぞれの供給主体、管理主体の違いに応じて、それらの集会所はまちまちだった。1街区の公営住宅では、集会所に自治会(町内会)のための部屋もあるようだった。とにかく、1街区から6街区まで簡単に歩いて行ける範囲なので、それぞれの集会所は「使い回せば良い」と思ったが、私が住んでいた1994年までは上手くいっていなかったが、今はどうなっているのだろうか。(写真は、2街区の集会所、後ろの南に1街区が見えている)

向島ニュータウン(3)-1街区から6街区、2街区より

2005-11-21 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
11月8日のブログで向島ニュータウンの立地や位置づけを書いた。これは、その「続き」である。近鉄の向島駅から東に国道24号線までに1街区から6街区までの六つの街区がある。私が住んでいたのは4街区のテラスハウス(分譲)であるが、1街区と5街区が公営住宅(高層)、2街区と3街区が分譲住宅(高層)そして6街区が公団賃貸住宅(高層)である。1と5が京都市が供給・管理、2、3、4が京都市住宅供給公社が分譲供給、6が当時の日本住宅公団(現・都市再生機構)が供給・管理である。向島駅を下りて来ると、やや北側に東に伸びる道があり東西の幹線だ。その道を歩くと、左右に3街区と2街区の高層分譲住棟が見えるが、2街区の方が「すっきりと」立ち上がっている。(写真)市浦建築事務所の設計ではなかったか。A,B,C,Dと4つの棟があり、真ん中に集会所がある。ここの高層部に住んでいるT.先生は、昭和28年(1953年)頃の南山城水害で宇治川・巨椋池が氾濫したことを知っておられ、もし仮に宇治川が氾濫したら、何階まで水が来るか、も考えて住む階を決めた、と言っておられた。思わぬ災害の可能性は、何処でもシュミレーションする必要があるのは論を待たないであろう。災害は、思わぬ形でやってくるのである。(写真は向島ニュータウン2街区の4住棟)

向島ニュータウン(2-位置づけ)

2005-11-08 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウンは、京都市住宅供給公社により全体が開発、大半が供給された。中に当時の日本住宅公団(現・都市再生機構)による賃貸住宅も含んでいる。又、京都市の公営住宅も含んでいる。昭和40年代後半(1970年代)に開発された。当時、京都市でも郊外に向け民間開発がスプロール(虫食い的に展開)しており、近鉄沿線では、この向島の南の小倉地域(宇治市)に既に進みつつあった。京都市では、何とか「食い止めよう」と、干拓地で農地であったが、この「向島地域」に狙いをつけて計画的ニュータウンを造って、南に向かう「スプロール的エネルギー」を吸収しようとしたのである。近鉄の桃山御陵前と小倉の中間に向島駅を造り、その東側にニュータウンを計画し開発したのである。まずは、向島駅と国道24号線の間に六つの街区からなる「町」を造り、続いて国道24号線を越えて東側に8,9,10街区を造った。私は、4街区の「テラスハウス地域」に昭和53年(1978年)3月から住み始めたのである。娘が松ヶ崎小学校から向島二の丸小学校4年生に編入した。

向島ニュータウン(1-立地など)

2005-11-08 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
カテゴリー検索したら、向島ニュータウンの記事が一つしかない。愛犬ジョンの死についての記事だ。(8月21日ブログ)考えてみると、京都の向島ニュータウンには、1978年3月から1994年11月まで16年8ヶ月ほど住んでいて、今のところ、金沢の櫻畠に子ども時代18年間ほど住んでいたことに次ぐ長さなのだ。思い出していくと、色々のことがあるので追々記していきたい。まず場所であるが、京都から近鉄に乗ると、特急の場合、7,8分で宇治川を渡ると、左手に高層住棟が沢山見えてくるが、その一帯が「京都・向島ニュータウン」である。これは「むかいじま」と読み、東京の「むこうじま」とは違う。元々は、宇治川の遊水地の巨椋(おぐら)池のあった所を干拓して出来た農地の一部を住宅地に開発したのである。今も干拓農地は、向島ニュータウンの西側に広がっている。そちら側には、可愛い「種智院大學」が見えている。
巨椋池は、平安京時代は、都にあるべき「東南隅」の池だった。宇治川の方面、東北には、再建・桃山城(豊臣秀吉居城)が見えている。そういう歴史的環境にある立地である。

愛犬・ジョンとその死に関連して

2005-08-21 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
京都の向島ニュータウンに住んでいた時(  ~1994年11月)、ジョンという犬を飼っていて最終的にそこで死んだ。最後は、フィラリアだったと思う。保健所に連絡して引き取りに来てもらった。火葬のためである。一晩、箱に入れ「通夜」をした。娘も未だ子供だったが記憶に残っていることだろう。今でも、家族で集まるとジョンの話題になることがある。このように、ペットは一般に人間より寿命が短いので先に死ぬ場合が多い。だけど、一緒に暮らした記憶は長く残って、日々の生活の色合いを作っている。
ところで、道端で交通事故の犬や猫が放置されている場合、どうしたらよいだろうか。保健所に電話して引き取って貰うのが正解かもしれない。しかし、子供達に命のことを伝える良い機会と考え、地域で場所を選んで子供達も含め、そのペット達を丁重に土葬するというのはどうだろう。命は土に、自然に戻るのが自然な訳だから・・。