西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

半世紀ぶりの再会-中山一郎さん(大阪芸大教授)-

2012-11-04 | 金沢の思い出
昨日、高校(金沢大学附属高校)の同窓会(関西支部)が、JR大阪駅に接続しているホテルグランヴィア19階の宴会場で行われた。このホテルは京都駅にもあるが、どうやらJR西日本とも関係が深いらしく卒業生でJR西日本に勤めている人もいて融通が付いたようだ。

宴会場では、高校同窓会は我々以外ににもいくつかやっていた。松本深志高校、大阪教育大附属天王寺中高だ。前者は信州の「進学校」、後者は山中伸弥さんの出身校である。後者は同期会のようで、勿論、山中さんは来ていない。(文化勲章受章のため上京中)

我々の同窓会は、講演、総会(会計報告)及び懇親会で成り立っている。

講演:熱帯雨林にこだまする合唱ー夢に歌を見るピグミーと死後の世界ー
講師:澤田昌人さん(金大附属高卒、京大理学部大学院修了、京都精華大学教授、54歳)

この話は、興味深く、現代の「都市化文明」にも大きな問題提起をするものだが、ここでは、それに詳しくふれない。

参加者は40数名で、見渡せば、どういうメンバーかは大体分かる。その中に一風変った風体の先輩が一人目に留まった。今までの同窓会では(私は殆ど出席しているが…)会ったことがない。髪はぼさぼさで「芸術家風」だった。

講演会でも積極的に質問しておられる。休憩になって私はトイレに行った。吹き抜けに接する廊下に囲いをつけた喫煙所で件の先輩がおられたが、通りがかりに「ひよっとして櫻畠に住んでいた西村君ではないですか」と声をかけられた。

よく顔を見るが、その顔には「見覚えがない」。「えーと…」と言っていると「2番丁と3番丁の間の裏通りに住んでいた中山一郎です」と言われた。

中山一郎さんなら子供のころ良く一緒に遊んだし、附属高校の一年先輩で「鑑」の一人だった。だから、その頃の顔を記憶から呼び出して前におられる現実の顔と参照するが一致しない。

しかし、良く見て声も良く聞くと、確かに中山一郎さんだった。中山さんは字は違うが、同じ「いちろう」だし、アルファベットのイニシアルが同じ「I.N.」で親しみがあった。中山さんのお宅は寺町台地の崖の上に建っていてお庭から眼下に清流・犀川が見下ろされ、遠くに戸室山・医王山(いおうぜん)の山並みが見えていた。

聞くと、あのお宅は昔手放して、両親も亡くなり、金沢に行く機会はほとんどない、とのことだった。中山さんは1959年に附属高校を卒業して阪大工学部造船学科に入られた。その時以来だから半世紀以上経っている。大学院を修了して助手をやっているところまで「風の便り」に聞いていた。ところが、それ以来、二三の噂は聞いたが会ったのは昨日が50数年ぶりなのだった。

名刺を頂き千里ニュータウンに住んでおられると分かった。お仕事は、貰った「資料」によると大阪芸術大学音楽学部教授となっている。へーと思った。どうも造船工学と音楽と「音響工学」で接点があるようだ。

いろいろ話したいのが山々だったが、中山さんは別の会合に行かれるとのことで他日を期すことにした。

(写真は、グーグル検索による中山一郎さん関連)

鯉幟(こいのぼり)の思い出

2012-05-05 | 金沢の思い出
今日は子供の日(端午の節句)で、鯉幟(こいのぼり)が空に元気に泳ぐ日である。

で、僕の金沢の子供時代(昭和20年代)を思い出してみると、僕の住んでいた町内(金沢市櫻畠三番丁)では、鯉幟を「泳がせて」いたのは、僕の家だけではなかったか。

まあ僕の家が「裕福度」で、その町内で一二番だったためである。そして、西村家の男の子は僕だけだったので、その鯉幟は「僕用」だったと言ってよい。

玄関の向かって左側(大略東側)の前庭に鯉幟の竿が立てられていた。4月の終り頃に鯉幟が空に泳ぎ始め、5月一杯、6月頃まで泳いでいたのではなかろうか。吹き流し、お父さん、お母さん、子供達が揃っていたと思う。

確かに、屋根より高ーい鯉幟だった。

「カーネーション」見ながら昔を思う

2012-03-04 | 金沢の思い出
NHKの朝ドラ「カーネーション」は、この3月で「終り」である。「だんじり」の岸和田の洋装店の女主人の物語、3人娘は全部ファッションデザイナーになり成功する。戦後(1945年後)の日本の一つの象徴的物語である。糸を生産し使う業種が伸びたのである。昨日の終りで主人公が尾野真千子から夏木マリに替わった。72歳からのふけ役である。尾野真千子だってふけ役出来ると思うが何故なのだろうか。

これらを見ながら私の金沢における戦後を思い出している。私の母親も布を使う洋裁を手早く学び(文化式、他にドレメ式というのがあった、毎年、東京の文化服装学院に研修に行っていた)金沢で洋裁学校を立ち上げた。名前も頑張ってつけたと思う。「高等文化服装学院」というのである。母は妹を後継者に思っていたのではないか。

ところが私が大学2年生(関西では2回生という)、妹が高校(泉丘高校)を出る時(1962年、昭和37年)に、新しい洋裁学校校舎が寺町二丁目に出来たというのに「働き過ぎ」で「肺炎」になり、あっけなく43歳で亡くなってしまった。祖母と妹が、その後、何年か洋裁学校を継続したが、祖母がなくなって妹はたたんでしまった。

糸偏業種が下火、斜陽となってきたのである。

まあ「カーネーション」のような今に至るも3姉妹が母親を「継いで」頑張っている成功例は稀であるだろう。

金沢大学付属高校同窓会関西支部会合

2011-11-14 | 金沢の思い出
毎年、今頃になると私の出身高校の「金沢大学付属高校同窓会関西支部会合」が大阪で行われる。

昨日の11月13日の日曜日、その会場の大阪北の「ハートンホテル北梅田」に行った。

全部で62回生まで80人位の参加、59回頃から62回卒業の大学1~4回生は「ただ」というのが効いて(支える僕らは8千円)、大学生がどっと参加したため盛況となった。

私は11回生で「大先輩」の部類に入ってしまった。11回生は関西に30人ほどいると思うが、たった3人、1割の出席だった。来年は少し増やしたいものだ。

金沢大学付属高校は、金大付高(きんだいふこう)とも、また霞が関では「金付(きんつき)」とも呼ばれ、そこそこの学校である。

男子2/3、女子1/3の割合は私が卒業した頃と変わっていない。

殆どが大学に進学する。私の同期では、150人の同期生は色々な所に散らばった。国立では、金沢大学(30人位)、東大(20人位)、京大(10人位)、北大、阪大、東北大、名工大、富山大(以上2人位)、神戸大、東工大、秋田大(鉱山学部)、信州大(繊維学部)、東京医科歯科大学、東京外大(以上1人)と半数以上が広く分布、但し私学は早稲田、慶応が圧倒的に多く、上智、明治、青山学院、立教、同志社などに行っている。

今回の関西では、学生は京大、阪大、神戸大、同志社、立命館、関西学院、大阪医大と私の時代より集中している。学部では医学部、理学部が目立つ。工学部が少ないのはどうしてだろうか。

最後の出し物の「ビンゴ」はノートパソコン使うやり方だった。私は最後に「ビンゴ」となり、景品は「抜け毛防止スプレー」だった。若い学生が選んだ製品群だが、年寄りのことも考えているのだな。


小学校4年生の通知票

2011-08-14 | 金沢の思い出
昨今、資料を整理していたら私の金沢市立十一屋町小学校の昭和26年度(4年生)の通知表(コピー)が出てきた。(担任は吉村不二子先生、校長は藤田清正先生である。)60年も前のことである。

教科についての5段階評価、出欠状況、科外活動、身体状況について書かれている。

教科(教の字も「メ」のつく字)では国語(国も「國」になっている)から始って社会、算数、理科、音楽(楽は「樂」になっている)、図画工作、家庭、体育となっており、家庭(科)のみ評価が入っていないので、4年段階ではやっていなかったのかな。家庭科で豚汁などつくり、運針もやった記憶があるので、5,6年生で家庭科があったのかな。

各教科では、それぞれ3又は5つの評価項目(國語のみ5つ)があり、5段階評価である。
年間を通じて、國語、社会、算数、理科は「5」であり、音樂、図画工作と「4」レベルとなり、体育は「3」レベルである。

出欠状況では、年度末の3月に3回休んでいる、多分「風邪」だ。

科外活動は、「演劇クラブ」になっている。

身体状況では、身長131.4cm、体重は26.6kg・・・である。未だ「痩せひょろひょろ」である。

で、この夏、名古屋に住む孫が3人が両親(母親が私の娘)とともにやってきた。長孫が男で中三、次孫が女で小四、末孫が男で四歳である。長孫と次孫は一学期の「通知票」(小学校は「あゆみ」、中学校は「学びのあしあと」と名付けられている。一歩一歩前進する、というイメージだ。)をもってきた。

そこで、小四の次孫に私の小四時の通知票を見せてみた。彼女は丁度10歳で私と60歳違う、つまり干支は同じなので分かりやすい。彼女の「通知表」の教科の並び方順も私の場合とまったく同じで「家庭」は最初から入っていない。各教科の評価項目も国語は5つだが他は4つとなっていて、私の場合より1つ増えている。評価は、何段階なのか分からない。

彼女は、1教科を除き◎、1教科は○となっていた。◎が「5」とすると、私より「相対的に」頑張ったということになる。「頑張ったね」と声をかけておいた。彼女も60年前の年期ものの「通知票」を興味深く眺めていた。


金沢の「古代」は?

2011-07-28 | 金沢の思い出
私は、金沢生れだが、まあ「百万石の町」として余りにも有名で、加賀前田藩からの歴史は、色々と学ぶ機会が多いが、それ以前の歴史については、余りにも知らない。

現在の町の形も前田藩の城下町に原型がある。

昔、チカモリ遺跡に行ったことがあるが、この時代は、またポンとかけ離れ過ぎている。

古代というと、金沢ではなく大和(奈良)などになってしまう。隣りの越中(富山県)では、万葉集の「痕跡」が高岡などに見られるが、そういうことも加賀では、余り「発掘」されていないのでは・・・、と思える。

つまり、金沢という地において、古代から現代までの「通しの歴史」が知りたいのだ。

こういうことは、金沢に限らず全国いたるところで感じられることかもしれない。

金沢の歴史を、アジア大陸との交流の始まった時代位から振り返ってみたいものだ。

将来の身の立て方ー官僚忌避ー

2011-07-08 | 金沢の思い出
私の出た高校からは、浪人・現役合わせて東大22名、京大14名(大学院含む)合格した。(1960年~1962年、昭和35年~37年)

東大の場合、文Ⅰとか理Ⅰとかに分かれ、法学部に進学しようとすると大体は文Ⅰに入らないといけない。で東大文Ⅰには複数名合格、京大法学部へは1名だった。で、東大でも法学部へ進んだのが数名いたが、東大でも京大でも中央官庁に行ったのはいなかった。京大法学部に進んだ友人は弁護士希望で司法試験を何度も受けて受からず、あきらめて金大医学部に入りなおして医者になった。(彼は実は理系だったのだ。)

東大から「役人」になったのは、法学部からではなく工学部から確か2名で、通産省と科学技術庁に入ったと思う。「今をときめく」原発関連官庁である。一人は事務次官まで行き、もう一人は途中で天下りした。

で、高校時代の進学雰囲気を言うと、官僚になりたい、という友人は、殆どいなかったのではないか。戦後の民主主義の雰囲気や、理工系ブームが影響している。

私は、大学で学部を出る時、隣りの土木の友人が多く「公務員試験」を受けたので、試しに私も「建築職」で受けて受かったのだが、実際に建設省に行くことはなかった。

最近、テレビで明治政府の伊藤博文が中央政府を形成するのに、帝国議会を経由しないで官僚によって勅令(天皇の命令)という形で法律をつくる道を開いたので、官僚が身分の保障をえて、「偉く」なった、と言っていた。戦後は、議会が行政の上におかれたが、戦前からの伝統で官僚が「力」を持ってきたのだ。

で、民主党政権が、「脱官僚」を掲げたが、一旦廃止した事務次官会議も「復活」している。経産省も原発事故で一旦「落ち目」かと思われたが盛り返しているかに見える。だが、ここにきて又「脱原発」までいくか、との瀬戸際である。私は行った方が良いと思うが、「脱原発」「脱官僚」が政局絡みで使われるのはかなわない。

1948年の今日は何の日?

2011-06-19 | 金沢の思い出
今日、ラジオで「今日は何の日?」を聞いていて、私が戦後、新制小学校二期生として入学した1948年(昭和23年)の今日は、「教育勅語、軍人勅諭」等が公式に廃止された日だ。

そして、その後、民主的な「教育基本法」が制定された。

こういう原点を確認しながら戦後生活を思い出していきたいと思っている。

昭和20年代(1945~1955年)の再検討『敗北を抱きしめて』より

2011-01-31 | 金沢の思い出
昨日のブログで、昭和20年代の進駐軍やGHQその「親分」のマッカーサー元帥(連合国占領軍最高司令官)の言説や行為あるいは当時「宣伝」されたアメリカ文化の「怪しげさ」を当時の検閲体制の存在とともに指摘した。(入江隆則著『敗者の戦後』(ちくま学芸文庫)による)

で、今日はアメリカ人ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて(上、下)』(岩波書店)を買ってつらつら読みだして、まあ昭和20年代の特に27年4月までの「占領」日本をじっくり再検討する気になった。

当時(アメリカ占領時代)、私は金沢で幼稚園から小学校に通った年代であり、天皇の全国行脚が進駐軍のジープを先頭に金沢も通り過ぎたこと(園児として国旗と星条旗を振っていたのではないか)、進駐軍接収住宅のありようを身近に見たこと、アメリカ文化センターの「温かい、明るい雰囲気」を味わったことなどの実体験はあるが、その意味も噛みしめ、再検討しようと思ったのである。

あること(効果)を狙ってやったことが、思わざる別の効果に繋がることは歴史では絶えず起こっていることだが、日本を「凶暴な軍国主義的天皇制」から根本的に「平和で民主的国家」へと転換しようとしたことが数年を経ずに「軍備国家」に転換させられると言う翻弄がやってくるのもその実例の一つである。

保守・反動主義者は、日本国憲法の非軍事平和主義を、アメリカから押し付けられたと言うが、「再軍備国家」もその後アメリカから押し付けられた国家像であり、(私も含め)日本国民は、より早い徹底した「理にかなう」「押しつけ」(非軍事平和主義)を、より普遍的なものと心底思ったからこそそれが血肉化し、憲法改悪が阻止されていると思う。

こういうことは、もっと言っていかねばなるまい。

進駐軍、マッカーサーの「印象」訂正

2011-01-30 | 金沢の思い出
最近、過去の「頭のつくり変え」が必要だと思うことが多々ある。

その原因は、当時、間違った「プロパガンダ(情報宣伝)」に惑わされていたことがある。その「過去」の一つは、「昭和20年代」のアメリカ(GHQ)による「占領時代」である。

私自身、1948年~1954年(昭和23年~29年)まで小学生時代で、普通の日常的情報に影響されやすい年代だったのだ。昭和27年に「占領」が終るまで、日本の出版、放送界はGHQの「検閲」の下におかれてアメリカの「サクラ記事」しか書けなかったのである。(入江隆則著『敗者の戦後』(ちくま学芸文庫)による。)

そして、小学校では、今でも一寸行われているようだが、NIE(newspaper in education教育における新聞利用)運動が行われていて、私たちは毎日アメリカべったりの記事を読まされていたのである。そのため進駐軍やマッカーサー、アメリカ文化について、仰ぎ見ざるをえなかったのだ。

最近、大手マスコミは終戦時になると時々、戦前の翼賛論調を「反省」し、今後そういうことにならないように・・・、などと言い訳しているが、それなら戦後のアメリカの「検閲」に対して言論の自由を掲げて(これは、ポツダム宣言に入っていて、アメリカ自身が違反していたのだ。)何故闘わなかったのか、言い分を聞きたい。

そういえば、最近も大手マスコミは「右にならえ」で、「日米同盟深化」しか言わないが、まだアメリカの影がマスコミをおおっているのだろうか。そういう仮説を持ち、補助線を引いて見ざるをえないのが現状である。

「坂の上の雲」初めて見る。日露開戦、瓜生外吉のこと。

2010-12-19 | 金沢の思い出
今夕、テレビで初めて「坂の上の雲」を見た。司馬遼太郎原作のテレビ化である。司馬遼太郎は生前、このテレビ化に同意を与えなかったという。日本に変な国家主義が又芽生えないかと恐れたためであるようだ。

しかし、NHKはあえて映像化に踏み切ったのである。このNHKドラマについて、既に中塚 明/安川寿之介/醍醐 聰著『「坂の上の雲」の歴史認識を問う』(高文研刊)という優れた批判書がある。だから、一歩退いて冷静に見ることができる。勿論「娯楽」の要素もあるので、それはそれとして楽しめる。

今日は、ついに日露開戦になるまでを描いていた。明治天皇、伊藤博文、山本権兵衛、山形有朋、大山 巌、小村寿太郎、東郷平八郎などの歴史的人物が出てくる。

日露戦争でフト思い出したのは、遠い親戚だった瓜生外吉のことである。私の祖父・瓜生余所吉の又従兄だった。彼は、加賀藩の支藩であった大聖寺藩士の出、明治に入りアメリカのアナポリス海軍士官学校に留学、帰国して帝国海軍の将校となった。日露戦争では、第二艦隊第四戦隊長(中将)だった。開戦の仁川沖海戦で活躍、以後、大将、佐世保鎮守府長官、横須賀鎮守府長官を歴任、最後は男爵、70歳で予備役、80歳で亡くなった。祖父共々、私が生まれる前に亡くなった。

私の金沢の家の座敷には東郷平八郎元帥の像が額でかかっていた。これは、誰か、大学に行く頃にようやく分かった。父も戦前、陸軍にはいり終戦時、大尉だった。もし、陸海軍が今も続いていたら、そういう家庭環境だったから、私も仕官していたかもしれない。

でも、そうならなくて良かったと心底思うのである。

兼六園の大和武尊像(銅像)について

2010-12-14 | 金沢の思い出
昨日、テレビを見ていたら、「イグ・ノーベル賞」のことをやっていた。1990年にアメリカで始まったらしい。まあ面白い(知的好奇心を刺激する)(笑える)発見や発明に対して与えられる。

「犬語」を理解する「バウリンガル」装置など記憶に残る。で、突如テレビ画面に私が良く知っている郷里・金沢の名勝・兼六園の一角に鎮座する大和武尊(やまとたける)の銅像が写った。

何かというと、世の中の銅像の上には鳩やカラスが糞をして汚れているのに、兼六園の大和武尊(やまとたける)の銅像の頭はそんなに汚れていないと言う。これを何故かと研究して、同じような合金を作り、鳩やカラスを寄せ付けないようにした広瀬幸雄・金沢大学教授(当時)に2003年のイグ・ノーベル賞(化学賞)だったとのことだ。

広瀬さんは、大和武尊(やまとたける)の銅像の修理の時を捉えて銅像の頭の部分を少し削り取って分析、猛毒のヒ素が普通の4倍も含まれていたと言う。これを元に合金を作ったと言う。確かに面白い。

ところで、私が更に疑問に思っているのは、江戸時代に造られた大名庭園の兼六園に、明治以降に何故、日本神話の大和武尊(やまとたける)の銅像が「場所にそぐわず」造られたのかということだ。

子ども時代から、ずっと毎年「花見」のころに見てきて、大人になってから「変だなー」と思いつつ、未だ自分として「解決」していない・・・。

金大付属高校同窓会関西に参加

2010-10-31 | 金沢の思い出
昨日、大阪の上本町近くのホテルであった金大付属高校同窓会関西支部に参加した。年一の行事だが、最近一寸参加者が少なくなっている。私の同期のO.君が支部長をやめるので「ご苦労さん」も兼ねていった。

総会の始まる前は恒例の同窓生の講演で、今回は6年先輩で帝京大教授の志方俊之さん(防大Ⅱ期、京大工博、75歳、自衛隊北部方面総監ー昔の師団長ー歴任)の「国益をどう守るか」というある意味で時機に適うテーマだったが、別用で参加できず、レジュメだけ貰った。後で「自衛隊嫌い、核嫌い」の友人に聞くと「案外、リベラルでリアルに物事を見ている話だった」とのことだった。

レジュメでも「あれかこれか」の政策ではなく沢山のオルタナティブのスペクトルを図示していて面白そうだった。私が京大の大学院生の時、京大で「自衛官派遣反対」の運動があったのを覚えているから、その頃(昭和40年代のはじめころ)に志方さんは工学部の大学院に来ておられ学位を取られたのだろうと思う。

総会の後で懇親会。横に同期のM.君がいて「この3月に完全にリタイアで継続的に何してよいやら・・・」と言うので、その「道」の若干先輩の私は「職場人間から地域人間」の切り替え様子を少し喋った。持っていった昭和29年時の金沢地図(復刻版)でも少し盛り上がった。今はない市街電車の路線も分かる地図で、「自衛隊」は未だ「保安隊」と書かれている代物だ。皆の前でも近況報告でも概要上記を話した。近所の一休寺と前田利常公(加賀藩三代藩主)との関係にも触れておいた。

会費・懇親会費を少し下げないと年金生活者が多くなる状況では参加者を増やすのは難しい、と総会で言うのを忘れてしまった。(「そうかい、そうかい」)

1941-1960年金沢の書き方

2010-10-02 | 金沢の思い出
今日、別宅書斎で、金沢時代について私がかって書いたものを見つけた。

いくつかに分かれている。
(1)幼稚園、小学校、中学校、高校の様子。
(2)自宅の様子、途中の増改築も含め・・・。
(3)桜畠や寺町などの様子。
(4)金沢全般の様子。

これらを上手く増補修正し、配列して当時の金沢の生活空間を「復原」してみたい。

小学校の様子については、「隣の町内」に住んでいて、電話をいただいたT.さんも同じ小学校の3級先輩なのでコピーを送って意見を聞きたいと思った。

金沢・桜畠に住んでいた人からの電話と手紙

2010-09-30 | 金沢の思い出
私は、最近、人生をほぼ4分して最初の18年を早くまとめたいと思っているのだが、そのことで昔の町の様子の情報提供を、石川県人のための雑誌『加能人』9月号に書いてお願いした。

http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/b353a916969e332e58920a44c6c47f33

すると、すぐに電話がかかってきた。隣の小路に住んでいた方で(今もお兄さんが住んでいるようだ)今は枚方市の香里団地に住む私より三歳上の方よりの電話で、色々と当時の町の様子を確認しあった。

で、今日は名古屋から手紙が来た。昭和11年ころに同じ町内に住んでいた人で90歳ほど、私の祖母や母の和服姿も記憶していると言う。また当時、同じ町内20軒ほどの名前、位置、職業などを描いた図面も入っていた。

私が生れ(昭和16年、1941年)、もの心つくころには、その人は、もう金沢を離れていたようだ。だから、その図面を見て、私の昔の家の位置はあっているが、20軒ほどのうち7軒ほどしか私の頃には同じ家はなく、他は移動している。ただ、職業を見ると、昭和10年代の町の雰囲気が想像できる。

すぐに名古屋に電話をかけて、情報提供に感謝しつつ小1時間、当時の町内の様子を聞いた。記憶が細かく、情報がリアルでとても90歳とは思えない。私の母の名前も正確に覚えておられた。当時、同じ町内にいて、未だ金沢にいるのは1人だということで、その人の住所も聞いた。今度、金沢に調査取材旅行する時には、是非連絡したいと思っている。

1941年(昭和16年)から1960年(昭和35年)までの金沢の様子をご存じの方、特に寺町台、更には桜畠あたりに住んででおられた人の情報に期待する。