西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

「わが青春の金沢 1941-1960」情報収集

2010-09-13 | 金沢の思い出
今日来た故郷の雑誌『加能人』9月号に私の投稿小文が載った。以下に再掲する。

失われた風景と暮らし-我が青春の金沢1941~1960-   西村 一朗

私は、1941年(昭和16年)金沢市桜畠(現・寺町)に生まれ、高校を卒業する1960年(昭和35年)まで18年間住んだ。その住まいは、二戸一棟二階建ての一戸(他の一戸は借家)であったが木造で、私の中学校、高校時代に洋裁学校(高等文化服装学院)を経営していた母が一部その校舎に改装するまで昔の面影を残していた。それは、後に建築や都市計画の勉強をして、桜畠は、加賀・前田藩の足軽組地と知り、私の自宅はその足軽屋敷の間取りに似ていたからであった。

一方、通った学校は、全て寺町台(及びその延長部)にあり、幼稚園は金沢学園幼稚園、小学校は金沢市立十一屋町小学校、中学校は同野田中学校、高校は金沢大学附属高校だった。中学までは歩いて行けるし、高校へも歩けないことはないが自転車で悠々と行ける範囲であった。これらの学校は全て木造二階建てだった。町や地域の様子を思い起こしてみると、寺町一丁目終点から金沢駅前行き、東金沢駅行きの二系統(二番と五番)の市街電車が走っていた。犀川では堤は金網で出来た蛇籠に石を詰めたもので固められており、まあ夏には下菊橋から上流では、泳いだり魚採りが出来た。

ところが、今やそれらの存在位置は、ほぼ変わらないけれども(市街電車はなくなった)、建物などの造りや風景そしてそこでの暮らしの展開は、すっかり変わってしまったのだ。
当時の様子は、我々同期生の脳裏に残るのみになったのではないか。そこで、まあ失われた風景と暮らしを、図面、写真、地図などの資料、同期生への聞き取りなどによって「復元」してみたいと考え始めている。

それは、単なる懐古趣味ではなく、21世紀の新しいシンプルなライフ・スタイルとまちづくりへのヒントも含まれていると思うからだ。正に「温故知新」で取り組んでみたい。皆様の貴重な情報提供にも期待している。
(上記期間の寺町、桜畠の様子がわかる写真、当時の十一屋町小学校、野田中学校の図面や写真、金大附属高校の写真をお持ちの方、見せていただけませんか。)(2010.06.24.)
連絡先:ichiro@cc.nara-wu.ac.jp 電話090-9287-2286 (奈良女子大学名誉教授・地域居住学、京都府精華町在住)


これを見て早速電話があった。3歳年上で、桜畠の次の小路に住んでいたT.さん、現在は枚方市の香里丘の公団住宅に住む。色々話して成果があった。

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