水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
太陽は万物に平等だ。
平等という意識もない。
浴びたければ、好きなだけ自由に。
使いたければ勝手に使えばいい。
ワシが特殊なのではない。
誰でも同じく扱える。
ワシは扱う意識を解放していただいたのだ。
誰でも解放すれば扱える。
扱えなくても、恩恵は受けられる。
意識の解放は無制限ではない。
無制限の解放などありえない。
ある、とすれば・・・神のみ。
だから、段階がある。
範囲がある。
広さや深さがあるのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
何度も繰り返して言われた。
ワシは故御師匠様の言葉を信じている。
おかげ様で、自分の「氣」とは思わない。
全く別な「氣」を扱わせていただいている。
だが・・・差が出る。
扱う範囲を意識で狭めているからだ。
これは扱い者の意識の開放度で差が出る。
意識で「氣」は左右するのだ。
それは自分の「氣」でなくても同じだ。
「氣」を出す為の努力や精進はいらない。
出す事など考えなくていい。
太陽の光みたいなモノだ。
人間としては無限といってもいいだろう。
いつでも、何処でも変わらず輝いている。
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何度も戒められた。
「決して自分の能力だと思うなよ」
この「氣」の威力は、とても大きいからだ。
自分の力だと勘違いしては活かせない。
自分の「氣」だと思うと自分の「氣」が出てしまう。
自分の「氣」もある。
だが、単位が違う。
ワットとキロワット、あるいはメガワット。
グラムとキログラム、あるいはトン。
自分の力だと思うと下がるのだ。
小さくなってしまうのだ。
個人の能力は伸ばせば伸びる。
伸ばせば、人間同士なら差が出る。
だが、遥かに大きなモノとは比べられない。
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努力や精進で能力をつける。
能力を伸ばし、大きくする。
それは、その人の能力となる。
車の例は当てはまらない。
自分の背中に人を担ぐ。
自分の足で早く走るからだ。
故御師匠様から伝えられた「氣」
それは個人の努力で伸びる能力ではない。
人間の「氣」ではない。
だから、例として車とした。
これが一般的な中国気功との違いだ。
練功して伸ばせる「氣」とは違うのだ。
ワシ的な表現。
他人の褌で相撲をとる。
人ではないが、他の「氣」だ。
扱うのはワシだが、褌は他のモノだ。
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例えば
車の運転は教わればできる。
だが、車の能力は千差万別だ。
ボロボロの軽四輪。
F1仕上げのフォーミュラー。
名前で言えば
ポルシェ。
ベンツ。
ロールス。
国産○○の軽(名前が言えない・・・)
20トントラック。
50人乗りバス。
2人乗り軽。
ブルトーザー。
車の運転が出来るだけでは他に活かせない。
その車の能力を充分引き出す。
それは、もう一つの能力が必要なのだ。
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1994年5月だった。
ワシは生駒山にて初めて故御師匠様に出会った。
そして氣功師の身体にさせていただいた。
今年で丸14年。
今月から15年目が始まる。
故御師匠様から伝えられた「氣」は優秀だ。
とてもとても優秀だ。
だが、ワシは優秀ではなかった。
14年経っても充分活かしきれないでいる。
この「氣」はワシのではない。
遥か宇宙からか、地球からかは知らない。
この「氣」は「人の氣」の範囲を超えている。
とても素晴しい力を秘めている。
ワシの力ではないから、プロとして冷静に判断できる。
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ぐい飲みに 桜の花びら そっと受け
花びらを 浮かべ杯 春の宴
独り占め 覗いた花見 杯の中 仰げば広がる 満天桜
桜と酒宴はお似合いだ。
桜は陽気な狂気を漂わせる。
酒宴も陽気な狂気を呼び込む。
桜の木の下で生命は躍るのだ。
桜花の宴は僅かな期間だ。
生き物は生命の躍動に素直に従う。
不妊傾向でも妊娠するかもしれない。
この期間、桜の木の近くならば。
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桜の花は桜の生命ではない。
花は一時の外観だ。
だから、あっさり脱ぐ事ができる。
ここを勘違いしている。
「○○の為、桜の如くいさぎよく散ろう」
戦争時、為政者は平気で誤魔化す。
いつでも守るのは権威であり、弱者ではない。
桜の花は、単なる服だ。
人に例えるなら、社会的評価の部分だ。
桜は服(外観)にこだわらない。
一度咲けば、それでいい。
あっさり脱げる。
他に見せて誇る必要もない。
「桜のように」などという人は、自分の服をぬごうとしない。
他人には煽動しても、自分の立場を捨てようとはしない。
政治家や軍人達・・・
未練たらしく、自分の既得権にしがみつく。
桜はいさぎよいのではない。
自由なのだ。
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自由に生きる。
それは真っ直ぐ生きる事でもある。
正しく生きる事とは違う。
身勝手に生きる事でもある。
自生が共生の一部だと知っているならば。
桜は勝手なヤツだ。
咲く順序を無視している。
花びらも下向きだ。
やや、狂気も振りまく。
だが、誰も迷惑ではない。
迷惑をかけない勝手は「素直」という。
模範になりたいわけじゃない。
むしろ、そんな事を言われるのは心外だ。
桜は日本の象徴になど、なりたくない。
暖かくなったら花開く。
一斉に花開く。
惜しげもなく、最大に開く。
そして、さっさと散る。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
来年を信じる。
明日を信じられる。
明るい生き方だ。
だから、遠慮なしにオープンになれる。
どうせ咲くなら、葉っぱで隠したくない。
順番なんてどうでもいい。
そういうわけで、桜は葉より先に花開く。
節操のないヤツだ。
だが、気持ちいいヤツだ。
桜のように生きたい。
それは武士道のいさぎよさ、ではない。
隠し事の無い、ラテン系の生き方だ。
日本の心は明るいノーテンキが指標となる。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)