水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
アーユルヴェーダという実践哲学がある。
医学、医療法、健康法を含めた膨大な学問だ。
人のアーユルヴェーダ(人以外もある)は
「寿命の科学」「幸福の実践哲学」とも訳される。
単なる医学じゃないのだ。
遥か古のインドで生まれた。
生まれた時には完成していた。
5千年前とも3千年前ともいわれている。
中医学の基といわれる「黄帝内経」が2千5百年前だ。
それより遥か古(いにしえ)なのだ。
おそらく・・・一部が・・・
流れてチベットへ渡りチベット医学の元になった。
医学の部分が中国へ流れて、中医学の元となった。
更に日本に流れ、東洋医学日本版になった。
そのくらい大きく深い学問だ。
完成された学問。
学問は何の為にあるのか?
存在するモノ全てが調和(幸せ)になる為だ。
アーユルヴェーダは完成された学問だ。
今のほとんどの学問は完成されてないのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
もう一つの六感。
直感ではなく「直観」の方だ。
これは感覚が伴わない。
理屈も理由も無い。
一瞬で解ってしまうのだ。
判断力を使わない。
自分の能力ではないからだ。
一瞬、他と繋がってしまう。
瞬間に相手と同化する。
だから、自と他が無くなる。
相手が人でも他の生物でも同じだ。
無機質の自然でも同じだ。
どうやら底の底では繋がっている。
あるいは・・・全体は一つ・・・。
その扉に一瞬だけ触れるようだ。
これは、誰でもありうる。
だだし、自分の意思で扉に行くのが難しい。
出来ないわけでもないが、難しい。
意思と逆の方向に扉があるからだ。
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自分の五感からでは不可能な認識。
個人的な感覚も伴うのだが、それは説明できない。
直感とはいえ、単なる「感じ」ではない。
物理的な感覚が伴うのだ。
だから確信に近い。
その六感には直感と直観がある。
直感は感覚の延長上にある。
だから伸ばす事もできる。
更に鋭く磨く事もできる。
だから鈍る事もある。
「六感が働くんだぁ~」
ほとんどは意識の段階だ。
勘違いがほとんどだと思う。
思い込みがほとんどだと思うぞ。
六感は感覚が伴って、五感の先にあるのだ。
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五感が鋭くなる。
五感が柔らかくなる。
正反対の五感の使い方だ。
だが両方ともに壁を超える事がある。
もちろん壁は超えりゃいいってもんじゃない。
ドロボウだって壁は超えるのだ。
五感を超えると・・・
六感がある。
六感を認識できる世界がある。
だが、勘違いや解釈の違いが横行する世界だ。
ウソではないが・・・信用は出来ない。
鋭くなって超える壁。
柔らかくなってすり抜ける壁。
当然ながら六感の感じ方やか解釈が違う。
自分の(能)力で感じている場合と
自分が解けて感じている場合がある。
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感じる能力も幸せも同じ仕組みだ。
受けるだけでは進めない。
深さや広さや高さや微妙が理解出来ない。
自分から歩く事で進める。
誰かが言っていた。
「幸せは歩いちゃ来ない、だから歩いて行くんだよ」
ワシは別の言い方をした。
「イイカゲンは歩いちゃ来ない、だから歩いて行くんだよ」
イイカゲンも積極的な生き方なのだよ・・・
与えられた分は感謝でいい。
だが、活かすのがその先にある。
感謝だけでは進めない。
(矛盾する言い方をすれば・・・
感謝だけで進める。
感謝だけが進む方法でもある。
でもこの表現はヒネクレているからなぁ)
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
五感は贈り物。
スーパーウルトラ存在からの贈り物。
だけどなぁ・・・
受け手が価値を判ろうとしない・・・
豚に真珠、猫に小判、犬に棒?
五感は深さがあるのだ。
広さがあり、上下があるのだ。
未来があるのだ。
新しい世界に続く通路なのだ。
五感は受ける感覚ではない。
受ける感覚は、まだ入り口なのだ。
入り口で止まってどうする?
もっと進んでくれ。
進まなくちゃ、女神だって愛想を尽かすぜ。
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五感は何の為にあるのか?
幸せの為だろう。
身体は幸せの為に創られた。
苦しみを感じるのも幸せに気づく為だ。
喜び、悦びを感じるのは幸せの深さを進む為だ。
五感を基にして感性が芽生える。
感性は感覚と精神の柔らかさから発達する。
感性は自然の一体化へと近づく。
人も自然の一部だと感覚で認識できる。
感性は自然の認識の深さだ。
自然を意識できない感性は無い。
だから政治家、役人、実業家達に必要なのだ。
感性の無い代表達が増えれば、地球は滅びる。
い、いや、地球は滅びないが、人類は滅びる。
人類は滅びても仕方ないが、他の生物が巻き添えをくう。
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感性を誤解している。
感覚が鋭くなる、一方向に敏感になる。
それが感性だと勘違いしている。
それは、バランスと調和の崩れた現象だ。
「自称芸術家」に多い。
有名なゲイジュツカにも多い。
普通の感覚で、変だと思わないかぁ?
まぁ、他人に迷惑でなければ何だっていい。
ワシだって自称「イイカゲン道家元」だ。
自称「貧乏道宗家某亜流水上一族末裔」だ。
自称「天上天下唯我独善家師範代」だ。
公称の多くの政治家よりは、遥かにマトモだと思っている。
政治家や官僚ほど多くの人々に迷惑もかけない。
感性が出来てくる。
それは、他と自の共通感性だ。
だから感性があれば、迷惑な政治家にはならない。
感性があれば、役人は尊敬されるだろう。
感性があれば、もっとマトモな日本になっている。
感性は、ゲイジュツカより政治家や役人に必要なのだぜ。
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五感は自分の内部から出発する。
深く、広く、静かに、微妙に進歩する。
進歩とは、自由になる事だ。
そして、進歩するほど他の内部へと到達する。
幸せも同じ。
浅い幸せは、自分から出発する。
個人的な幸せを「幸せ感」という。
深く、広く、静かに、微妙に受け止める。
すると、他の幸せと共鳴協調する事になる。
幸せは深くなるほど、自他の区別が無くなる。
五感を磨く事。
それは、鋭くなるのではない。
柔らかくなるのだ。
他へと近づく感覚を「感性」という。
個人的な感覚は「感性」ではない。
他の感覚を受け止めて、感性となる。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
感じる事はありがたい。
感じる能力は幸せの能力。
感じる深さや広さがある。
それは幸せの深さや広さに直結している。
感じるのは個人的感覚から出発している。
だが、深くなるほど
広くなるほど
微妙が判るほど
他との共通感覚に近づく。
他の幸せと自の幸せが近くなるのだ。
社会的に生活する能力。
仕事が出来ると社会では評価される(と思う・・・)
仕事が出来ると報酬も増える。
(まぁ、必ずしもじゃないけどねぇ・・・)
だが五感が広く深くても社会的評価はそれほどじゃない。
つまり
幸せと社会的評価は別な次元にあるのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)