伊勢市民にも県内外の地学関係者にも、殆ど知られていないが、伊勢市辻久留2丁目の宮川右岸の護岸堤防の下には、一志層群に対比される第三紀層の露頭があり、そのすぐ東の残丘を成す秋葉山(徳川山)へと続く、コンクリート状の礫岩層が河床に広く露われている。
当地は、丁度中央構造線の真上にあたり、岩盤には東西方向と、これに共役する大小の断層が走り、礫岩層内のあらゆるサイズの円礫~亜円礫を圧迫し、特に断層沿いの礫を圧砕・破断しているが、これらの中には「くいちがい石」が多数含まれている。
地元ではここを「平岩」(ひらいわ)と呼んでいるが、護岸の改修工事が成されてから数年しか経っていない現地の真新しい堤防には、当地の「中央構造線」についての詳細な解説板が設置されている。 この中に「くいちがい石」についての説明もある。
我輩が、この「くいちがい石」を知ったのは、京都の益富壽之助先生(元 日本礦物趣味の会代表・薬学博士)の御高著「石-昭和雲根志(第1編)」(昭和42年4月1日初版・益富寿之助博士紫綬褒章受賞記念会発行)である。 本書の中に、中華人民共和国産の「くいちがい石」の写真が掲載され、その詳しい記述に接した事による。
それには、
『 地層のくいちがいに対しては "断層" という地学用語があるが、これは一種の地殻変動の記録で、野外では河ぶちの崖や道路の切割などでよくみるものであり、又たまたまこのような断層の部分が自然に崩壊して川におちこみ、亜角礫や円礫にそのくいちがいの跡をみることも決して珍しいことではない。
しかしここに掲げる "くいちがい石" は上記のようなあり来たりの、月並な断層石ではないのである。 恐らく世界広しと雖も、断層の記録の仕方としてかゝる特殊な表現が果たして他にあろうかと思うくらい珍奇なものである。
では、どういうものかというと、それは図(本文では71図になる)に示したように、もとたくさんな円礫をふくむ礫岩層に側方から強大な圧力がはたらき、そのために礫岩中の礫の個々に割理(かつり・われ目)を生じ、その割理面に沿って礫の一半が他半に対して滑動し、その結果図にみるような食いちがいを生じたと考えられる奇石である。 このようなくいちがいをもつ石が一、二個といった偶然の発見ではなく、得利寺(中華人民共和国の地名)付近付近の古い時代の礫岩層から無数にみつかるのであるからショックである。
( …中略… )
この石は昭和八年ごろ満鉄資源館々長ドクトル新帯(にいのみ)国太郎先生の命名にかゝるものである。』
その後、この「くいちがい石」は、愛知県鳳来町阿寺の阿寺七滝付近の岩盤をはじめ、全国各地の断層帯の第三紀の礫岩層などから次々と発見され、「地学研究」誌等に報告が成された。
我輩も読後に、「くいちがい石」を探しに、一志層群の各地をはじめとする県内の礫岩層の露頭を見回ったが、全く発見出来なかった。
それが、秋葉山(徳川山)から宮川右岸下へと続く、高倉層(一志層群に対比される当地の地層名)の砂岩層から産する、植物化石や珪化木、琥珀を探しに当地「平岩の岩盤露頭」に下りてみた処、礫岩層内の細礫から巨礫に至るまで、無数に「くいちがい石」が生じており、いくらでもある事が判った。 正に「灯台もと暗し」であった。
昭和40年代の半ばの事である。
但し、当地の「くいちがい石」は、膠結度が弱く、母岩層からタガネで外すと簡単に壊れてしまうものが殆どであった。
しかし、中には採集してもしっかりと膠結しており、見事な食いちがいを呈するこぶし大程の「奇石」レベルの標本も幾つか得られた。
今では、きれいな食い違いを示す手ごろな礫は少なくなったが、ひとかかえもある巨礫の中には、はっきりと解る「くいちがい石」や、食い違いの無い「ひび石」がかなり見られる。
我輩発見の、当地の「くいちがい石が」が地学関係者に紹介されたのは、昭和50年代の初め頃であったと思うが、京都の日本地学研究会の研究発表会で、実物を幾つか持参し講演を行い、その時に人頭大の標本を益富先生の研究会館に寄贈したのが最初である。 その大きさには、皆なが大変驚いてみえたのを記憶している。
その後年に、ご高齢の益富先生ご夫妻と研究会館のスタッフら数名の御一行を、松阪市の高速道路の工事現場の化石の露頭(一志層群)から堀坂山のキラ谷(ペグマタイト脈)、丹生鉱山跡とその近くの中央構造線の露頭へのご案内を経て、最後に当地宮川の「平岩露頭」へと立ち寄って頂いた事があった。 まだ日の長かった初秋の事であったと思う…。
確かこの時、現地に下りるのに、当時宮川の岸沿いにあった石山材木店のご主人にお世話になり、平岩露頭に行く益富先生の為に、ご主人自ら川船を出して下さったのを覚えている。
学術研究の為とは言え、全くの他人であったにもかかわらず、大変御親切な方であった。
後になったが、この礫岩層からは副産物として、繊維状を成す含ストロンチウム霰石が産し、礫岩礫をコーティングしていたり、礫を膠結(こうけつ)する砂礫と共にミックスしていたりしている。
これも我輩の発見であるが、幅数mm 以下の繊維状であった為、最初は石膏かなと思ったが、石膏よりは硬くて希塩酸で発砲するので、多様な産状を示す方解石だと思った。
しかし、マイゲン反応(化学試験)を試みた処、着色が見られたので霰石だと判った。 さらに紫外線を照射してみた処、一部は淡橙黄色に発光するのでおやっと思い(普通の霰石は、クリーム色~卵黄色の蛍光・燐光を放つ)、当時ご指導を仰いでいた櫻井欽一先生(東京の民間鉱物学者・理学博士)に、産状を書いてサンプルの小片をお送りした。
数週間後に頂いたご返事のお手紙には、微量のストロンチウムが検出されたとの事であり、ご参考品として、石川県能登産のきれいなライトブルーの繊維状の霰石を下さった。 ご多忙の中、分析をして下さった櫻井先生には、今も感謝を禁じ得ないでいる。
益富先生と櫻井先生には、ご生前にははかり知れない程、御懇切な御指導を賜りました。先生方との数々の思い出を回想しながら、本記を稿了するにあたり、ひたすら両博士の御冥福をお祈りし、改めて合掌をする次第である。
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