伊勢すずめのすずろある記

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伊勢・志摩・度会の石紀行 その9 伊勢市粟野町の 「 八柱神社の御手洗石 」

2019年09月22日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


粟野町の八柱神社境内の「真ん丸い奇妙な自然石の御手洗石」

 伊勢市の市街地南西の宮川左岸の田園地帯には、散村型の村落がぽつりぽつりとあるが、市街地の西南西約4kmの所にあるひと塊の村落が粟野町である。 その村落の南西のはずれに、こんもりとした常緑樹林があるが、ここが八柱神社である。


粟野町の村落と、その南西のはずれにある「八柱神社」


 一見どこの村落にもあるような規模の、氏神様を祀るお宮風の神社であるが、この参道を少し入った境内の入り口に、黒っぽいまん丸い直径1m20cm程の、一風変わった外観の奇妙な自然石の御手洗石 (みたらしいし) がある。
 この巨石の上部30cm四方が穿たれて、浄水溜めとなっているが、かなり苔むした巨石のぐるり一面は、全く特異な亀甲状の節理を呈し、乾裂に似た皮殻に覆われているようにも見える。


八柱神社境内の「御手洗石」の裏側(背面)


 極めて奇異な形状のこの岩塊は、外観の見かけは全く火山岩の「玄武岩」のようである。 隕石でもない限り、元から地元にあった現地性の転石などではなく、明らかに他所から持ち運んで据え付けたものと思われる。
 近くで御手洗石を観察すると、正面には「奉納」、側面には「天保十三年壬寅春」と刻字が彫られている。


「御手洗石」の正面に彫られた「奉納」の刻字


 そこで、この「御手洗石」の由来について、古老や郷土史家らに尋ね、いろいろと古文書などを調べてみると、この特異な巨石は、天保の江戸時代までは粟野の南方、宮川の対岸奥に位置する沼木村の上野 (現 伊勢市上野町) の山間の谷間に居座っていたものであり、その形が釣鐘に似ていた事から、上野の村落ではその昔から「釣鐘巌」 (つりがねいわ) と言われてきた怪石であると言う事だ。

 それを当時、生活物資の行き来等で交流のあった両地区の村人らが話し合いの末、所望をした粟野村に譲られる事になり、天保十三年 (1842年) 正月に、村中総出で谷より引き出して、宮川を渡し越え、粟野村まで運んだとの経緯である。


伊勢市の広域写真地図 ~ 中央の上に「粟野町」、下に「上野町」がある


 それにしても、上野村の山間の谷間にこの巨石がひとつだけ、なぜ鎮座をしていたのかを考えると、地質学的には摩訶不思議であり、外観は全く火山岩の特徴を具えているだけに、謎はさらに深まる。


 伊勢志摩から奥伊勢の度会郡にかけては、新生代の火山が無いのはもとより、火山岩由来の変成岩 (角閃岩、他) の分布もごく限られ、上野町一帯の山地は、西南日本地質区・中央構造線直南の外帯「三波川変成帯」と、さらにその南の「秩父塁帯」の堆積岩の分布地帯に属する。

 当地の三波川変成帯の一部には、蛇紋岩の貫入岩体があって、上野町の一部はその残丘地形の上に位置している。
 いわゆる「御荷鉾 (みかぶ) グリーン・ロック」のゾーンであるが、広域変成帯の一部であるこのベルト・ゾーンは、東方の伊勢神宮宮域の神路山 ~ 島路山を経て、朝熊山の南麓から鳥羽市安楽島半島へと続いている。

 島路山の神宮宮域内の林道の崖には、枕状溶岩構造を残したまま変成した緑色岩(主に角閃岩)の露頭があり、同様の岩層は、鳥羽市安楽島町の小湧園下の海食崖の一部にも見られる。
 しかし、「八柱神社の御手洗石」のような岩塊は、当地方ではこれまでに全く発見されていなく、学術情報は皆無である。
 ( 但し、表面が亀甲状を呈する放射状節理の玄武岩塊は、日本各地の火山帯に見られ、例えば北海道根室の「車石」や、島根県隠岐・海苔田ノ鼻の「鎧岩」などがあり、いずれも天然記念物になっている。)


「御手洗石」表面のクローズ・アップ


 果たして、氷河期の「迷子岩」の成れの果てか、縄文海進があった頃に、何らかの理由で縄文人が筏ででも運んだものなのか、それとも有史以降の大津波の置き去り岩なのか、まずは誰かが「御手洗石」の岩片を薄片にして検鏡をし、岩石名を同定する事から始め、その上で、上野町一帯の山地の地質を精査しない限り、この「奇岩・怪石」の謎を解く鍵は見つからないであろう。



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