「ボディーワーク」とは「体(からだ)を動かす」ことだ。とりあえず、そう理解してよい。
心理学では、ボディワークは心理療法の分野で行われている。心理療法は、セラピストがクライエントに面接し、話を聞くのが普通の方法だ。それに対してボディワークは体を使う。しかも、体の使い方はさまざまだ。伊東博『心身一如のニュー・カウンセリング』(誠信書房、1999)によれば、
<例1>行住坐臥の訓練・・・・歩く、立つ、座る、寝るという日常の振る舞いを改めてやり直すのだ。この訓練のもとになっているのは、ヨーガだ。
<例2>二人や集団で行う訓練・・・・物のやりとりをしたり、体を支えあったりして、他者を知る経験をする。さらに演劇的な要素を含んだボディワークになったりもする。
人間は、心だけではなく、体も取り上げなければ、療法として完全でない。「動く」体だ。ボディワークでは身心を使って、「動く」ことを強調するのだ。
さらに、「センサリ-・アウェアネス」・・・・感覚を豊かにするのだ。心は高度で抽象的な概念を駆使して考える側面もあるが、心のもとは感覚だ。その感覚を意識することが、ボディワークの重要なテーマだ。
カウンセリングは言葉のやりとりだから、認知の働きだ。それに対して、体は認知ではない。
生理学的に見れば、カウンセリング=認知の働き=中枢のことだ。体は末梢のことだ。
脳科学は最近急発展した。人間のこと、ことに心のことはすべて脳で解明できる、という信念すら植えつけてしまった。
また、ロボットを人間に近づける技術も発展してきた。大脳を機械化できるなら、人間に等しいロボットは出現間近だ、と思わせる。
確かに、ロボットは人間の頭脳(中枢)的な面についてはかなり近づいている。他方、ロボットは体(末梢)を動かす点で、人間にまだ近づいていない。アシモ君の設計で難しかったのは、足の運びのメカニズムだった。
両者の著しい違いは、人間の体は有機物であり、ロボットの体は無機物である点だ。人間の体は常に外部から有機物を取り入れて有機体として成り立っているが、ロボットはそうではない単なる無機物(物体)だ。人間は、生存のため外部から有機物をとり入れる。そのために内蔵や筋肉がある。内蔵からの感覚、筋肉からの感覚がある。ロボットにはこれらはない。これは超えられない両者の違いだ。
心の活動には高度に抽象駅なもの(認知)だけでなく、感情、気分といった側面もある。胃腸の活動あるいは筋肉の活動が気分をつくる。肩が凝っていると重い気分になる。感情、気分といった心の原初的活動は、体(末梢)の存在なしに存在し得ない。
高度な心の作用はロボットでも代行できるが、感情や気分はロボットでは難しい。この違いは、内蔵や筋肉の有無による。
ただし、胃腸を共有している下等動物と人間との違いは、脳の有無によるかもしれない。
頭(中枢)の訓練ではなくて体(末梢)の訓練をすることは、とかく体力をつけるための訓練と思われがちだが、ボディワークはそうではなく、心の訓練だ。伊東のいわゆるセンサリー・アウェアネスの向上だ。身体感覚の賦活だ。伊東が言葉を通じてのカウンセリングから「身心一如のニュー・カウンセリング」に転進したのは、前述のことに気づいたためではないか。
春木豊は、心を体の動きから追求していく発想を「身体心理学」と呼ぶ。動きには、(a)心拍のような「反射」、(b)コップをとるといった「意志的反応」の2種類がある。
体の動きが心にもたらす効果を実験的に検証しようとしたところ、生理的な(a)と心理的な(b)の双方の動きを兼ね備えている反応群が見つかった。
その主なものは、呼吸、筋反応、表情、姿勢、歩行だ。対人関係ではタッチ(接触)だ。これらは基本的には(a)だが、同時に(b)もできる。これらの反応群のボディワークをすることで、体と心に同時に働きかけることができる。まさに「身心一如のボディワーク」だ。
<例>呼吸のリズムを整えることによって、自律神経を整え、同時に心を整えられる。これは日常でも経験していることだろう。
昔から東洋の世界では、座禅瞑想や呼吸法やヨーガなどが流布した。現在では西洋の世界でも流行している。これは、ボディワークが心身の健康(ウェルビーイング)のために最良のものだからだろう。
<例>ウォーキング。歩行は(a)だが、(b)の反応できるので、心と体に働きかけることができる動きだ。
ウォーキングは、従来は運動としてのウォーキングの考え方が強かった。スポーツ的な動きが推奨された。競歩的な歩行だ。これに対して、最近スローな動きのよさが指摘されている。春木は、ゆっくりとしたリズムで、呼吸のテンポとあわせ、「今の一歩」に心を集中して、思い浮かぶ雑念を手放しつつ歩いている(「瞑想歩」)。これから得るものがいろいろあるので、続いている。
□春木豊「「ボディーワーク」の意義」(「読書人の雑誌 本」2011年9月号、講談社)
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心理学では、ボディワークは心理療法の分野で行われている。心理療法は、セラピストがクライエントに面接し、話を聞くのが普通の方法だ。それに対してボディワークは体を使う。しかも、体の使い方はさまざまだ。伊東博『心身一如のニュー・カウンセリング』(誠信書房、1999)によれば、
<例1>行住坐臥の訓練・・・・歩く、立つ、座る、寝るという日常の振る舞いを改めてやり直すのだ。この訓練のもとになっているのは、ヨーガだ。
<例2>二人や集団で行う訓練・・・・物のやりとりをしたり、体を支えあったりして、他者を知る経験をする。さらに演劇的な要素を含んだボディワークになったりもする。
人間は、心だけではなく、体も取り上げなければ、療法として完全でない。「動く」体だ。ボディワークでは身心を使って、「動く」ことを強調するのだ。
さらに、「センサリ-・アウェアネス」・・・・感覚を豊かにするのだ。心は高度で抽象的な概念を駆使して考える側面もあるが、心のもとは感覚だ。その感覚を意識することが、ボディワークの重要なテーマだ。
カウンセリングは言葉のやりとりだから、認知の働きだ。それに対して、体は認知ではない。
生理学的に見れば、カウンセリング=認知の働き=中枢のことだ。体は末梢のことだ。
脳科学は最近急発展した。人間のこと、ことに心のことはすべて脳で解明できる、という信念すら植えつけてしまった。
また、ロボットを人間に近づける技術も発展してきた。大脳を機械化できるなら、人間に等しいロボットは出現間近だ、と思わせる。
確かに、ロボットは人間の頭脳(中枢)的な面についてはかなり近づいている。他方、ロボットは体(末梢)を動かす点で、人間にまだ近づいていない。アシモ君の設計で難しかったのは、足の運びのメカニズムだった。
両者の著しい違いは、人間の体は有機物であり、ロボットの体は無機物である点だ。人間の体は常に外部から有機物を取り入れて有機体として成り立っているが、ロボットはそうではない単なる無機物(物体)だ。人間は、生存のため外部から有機物をとり入れる。そのために内蔵や筋肉がある。内蔵からの感覚、筋肉からの感覚がある。ロボットにはこれらはない。これは超えられない両者の違いだ。
心の活動には高度に抽象駅なもの(認知)だけでなく、感情、気分といった側面もある。胃腸の活動あるいは筋肉の活動が気分をつくる。肩が凝っていると重い気分になる。感情、気分といった心の原初的活動は、体(末梢)の存在なしに存在し得ない。
高度な心の作用はロボットでも代行できるが、感情や気分はロボットでは難しい。この違いは、内蔵や筋肉の有無による。
ただし、胃腸を共有している下等動物と人間との違いは、脳の有無によるかもしれない。
頭(中枢)の訓練ではなくて体(末梢)の訓練をすることは、とかく体力をつけるための訓練と思われがちだが、ボディワークはそうではなく、心の訓練だ。伊東のいわゆるセンサリー・アウェアネスの向上だ。身体感覚の賦活だ。伊東が言葉を通じてのカウンセリングから「身心一如のニュー・カウンセリング」に転進したのは、前述のことに気づいたためではないか。
春木豊は、心を体の動きから追求していく発想を「身体心理学」と呼ぶ。動きには、(a)心拍のような「反射」、(b)コップをとるといった「意志的反応」の2種類がある。
体の動きが心にもたらす効果を実験的に検証しようとしたところ、生理的な(a)と心理的な(b)の双方の動きを兼ね備えている反応群が見つかった。
その主なものは、呼吸、筋反応、表情、姿勢、歩行だ。対人関係ではタッチ(接触)だ。これらは基本的には(a)だが、同時に(b)もできる。これらの反応群のボディワークをすることで、体と心に同時に働きかけることができる。まさに「身心一如のボディワーク」だ。
<例>呼吸のリズムを整えることによって、自律神経を整え、同時に心を整えられる。これは日常でも経験していることだろう。
昔から東洋の世界では、座禅瞑想や呼吸法やヨーガなどが流布した。現在では西洋の世界でも流行している。これは、ボディワークが心身の健康(ウェルビーイング)のために最良のものだからだろう。
<例>ウォーキング。歩行は(a)だが、(b)の反応できるので、心と体に働きかけることができる動きだ。
ウォーキングは、従来は運動としてのウォーキングの考え方が強かった。スポーツ的な動きが推奨された。競歩的な歩行だ。これに対して、最近スローな動きのよさが指摘されている。春木は、ゆっくりとしたリズムで、呼吸のテンポとあわせ、「今の一歩」に心を集中して、思い浮かぶ雑念を手放しつつ歩いている(「瞑想歩」)。これから得るものがいろいろあるので、続いている。
□春木豊「「ボディーワーク」の意義」(「読書人の雑誌 本」2011年9月号、講談社)
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