語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>福島のレジャー施設の損害 ~「ムシムシランド」とゴルフ場~

2011年10月16日 | 震災・原発事故
 福島第一から30km離れた「こどもの国ムシムシランド」は、カブトムシ自然観察園や2,000匹の標本を展示したカブト屋敷など、昆虫をメインテーマとするレジャー施設だ。自然観察園内にある2棟のカブトムシ・ドームは、雑木林を20m四方まるごとネットで覆った中に数千~数万匹のカブトムシが放たれている。
 子どもには大人気だったが、3・11がすべてを変えた。
 4月22日、「ムシムシランド」を含む山根地区全域が自主避難区域となった。「ムシムシランド」は臨時休園を余儀なくされた。
 
 「ムシムシランド」は、幼虫とケースやエサが一式となった飼育観察セットを通販している。毎年100~200セット売れる。3月後半に購入予定だった幼虫を8万匹から4万匹に半減させて販促を再開した。
 ところが、4月中旬、販売窓口となった都内の郵便局に問い合わせが殺到した。「安全なのか?」
 福島大学の放射線計測チームが検査した。幼虫が食べている腐葉土や破砕木は、ヨウ素131、セシウム134、セシウム137のすべてが検出限界値以下だった。昨秋、集めた腐葉土を農家が屋内に保管していたことが幸いした。幼虫の体や糞からも放射能は検出されなかった。
 この時期、「ムシムシランド」のスタッフは、ほぼ毎日スクリーニングを受けた。スタッフのみならずカブトムシの安全をアピールするためだった。
 そんな努力もあって、飼育セットは680セット売れた。だが、各地で開催されるイベントなど大口受注は激減した。1万数千匹は、原価で昆虫関連施設に買い取ってもらった。

 「ムシムシランド」は、4軒の農家と契約を結び、幼虫を羽化させてきた。しかし、今年は15,000匹に数を絞ったため、飼育の一番の達人(兼業農家)にだけ依頼した。
 ところが、彼の勤務先である食品容器製造業会社が被災し、埼玉の本社に出向くことになった。やむなく妻が6,000匹の飼育を担当した。だが、数多く羽化させるには熟練のテクニックが必要で、達人ならば80%以上の羽化率が、今年は33%に終わった。
 「ムシムシランド」で飼育した分と併せて5,000匹の大部分がドームに放たれた(一部は首都圏の復興関連イベントで販売した)。しかし、夏になっても、緊急時避難準備区域の指定は解除されず、子どもたちの目にふれることはなかった。

 以上、安藤“アン”誠起(写真家)「福島第一から30キロのムシムシランド カブトムシも被害者だ」(「AERA」2011年10月17日号)に拠る。

    *

 福島県は、茨城県や栃木県と並んで、東日本ではゴルフ場が多い地域だ。ゴルフ場は、全国に約2,800施設があり、うち福島第一原発から80km圏内には県ゴルフ連盟に加盟する施設が33ある。うち、休業中のゴルフ場は6施設だ。
 もっとも福島第一に近いのは、9.7km南方に位置する「リベラルヒルズゴルフクラブ」だ。現在休業中。

 これに継ぐのは、32.2km南方に位置する「いわきプレステージカントリー倶楽部」だ。現在休業中。
 7月末現在、ひまわりのような黄色い花があちこちに咲き、雑草が生い茂る。フェアウェアーとラフの区別もつかない状態だ。ティー・グラウンドにも雑草が覆う。バンカーは砂が土のようになった上に、固まって亀裂だらけだ。グリーンは芝生が完全に剥げ落ち、表土があらわになっている。
 放射能は、4月18日現在、9番ホールのグリーン近くで5μSv/時。7月2日現在、5.39μSv/時。7月15日現在、4.88μSv/時。
 7月28日現在、1番ホールのフェアウェイらしき場所で0.82μSv/時、最終18晩ホールもティーグラウンドで1.01μSv/時、グリーン上は0.61μSv/時。
 同じ7月28日、いわき市が計測した久之浜・大久支所の空間放射線量は、地上1mで0.20μSv/時だから、比較すると確かに高い。
 適度に水分がある草、排水されない水たまり、木の根元、凹凸のあるコンクリート、植え込み、側溝・・・・ゴルフ場は、放射性物質が溜まりやすい条件をことごとく満たしている。
 ゴルフ場全体を除染するには、もっとも安い見積もりを出した業者でも、18ホールのコースの除染に68億円かかる。ここまで荒れてしまった場合、新しいゴルフ場を一から造成するのと同じことになるのだ。しかも、災害廃棄物の後始末が大変だ。
 修復費用を東京電力に請求したが、弁護士を通じて交渉せよ、と木で鼻をくくる東電の対応だった。
 年会費は、今年1月から12月まで2,500万円を見込んでいたが、入金が滞り、7月に入っても682万円しか払い込まれていない。会員に東電社員72人がいるが、震災後は誰も払っていない。

 ちなみに、福島第一から70.3kmに位置する「茨城パシフィックカントリー倶楽部」は、震災前には3割いた首都圏からの客が来なくなった。全体の来客数は、前年同期比で、4月は2割、5、6月は2割から4割と大きく落ち込んだ。
 放射能は、7月28日現在、1番ホール前で0.21μSvだった。それでも、天気予報が雨だと、キャンセルが相次ぎ、客がゼロの日もある。
 7月に入って前年比5割程度に回復したが、水戸から北の客は戻っているものの、東京方面からの客は少ない。
 極端な値下げはしない。コースの維持、管理ができなくなるからだ。とはいうものの、土・日曜日と祝日の料金h15,000円から8,900円に下げている。

 以上、澤田晃宏(編集部)「『放射能』ゴルフ場の悲惨」(「AERA」2011年8月15日号)に拠る。
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【中村稔ノート】凧 ~戦禍の記憶~

2011年10月16日 | 詩歌
 詩人論『宮沢賢治』で中村稔は言う。賢治に惹かれる理由は、彼が詩人であったからではなく、農業技師であったからでもなく、「詩人であると同時に農業技師であることがなんら矛盾していなかった、そういう人物の精神の奇怪な眺望がぼくを把えるのである」。
 中村は、ここで詩人であると同時に法律家である自分自身をも語っているのだ。自分自身 中村は、ここで詩人であると同時に法律家である自分自身をも語っているのだ。自分の精神についても、「奇怪」と感じていたに違いない。賢治にしても稔にしても、いずれか一方が切り捨てられるべきものではなく、彼(ら)の精神の中で両方とも同じ重みをもって存在していた。そして、精神の奇怪さは、「日常」と「脱日常」との落差の激しさによって、際だつ。
 例えば「凧」。この作品は1953年に書かれた。弁護士登録をして1年経るか経ないかの頃だ。神武景気(1956~57)はまだ先で、世相はまだ厳しい。世に出たばかりの中村は、その厳しい世相に立ち向かうだけの気負い、または倨傲とともに、幾分の怯えがあったはずだ。しかも、戦さはまだ遠い過去ではない。折ふし戦禍が記憶の底から甦る。

   夜明けの空は風がふいて乾いていた
   風がふきつけて凧がうごかなかった
   うごかないのではなかった 空の高みに
   たえず舞い颶(アガ)ろうとしているのだった

   じじつたえず舞い颶っているのだった
   ほそい紐で地上に繋がれていたから
   風をこらえながら風にのって
   こまかに平均をたもっているのだった

   ああ記憶のそこに沈みゆく沼地があり
   滅び去った都市があり 人々がうちひしがれていて
   そして その上の空は乾いていた

   風がふきつけて凧が動かなかった
   うごかないのではなかった 空の高みに
   鳴っている唸りは聞きとりにくかったが

 言葉は4行あるいは3行で1連となり、4連が全体を構成している。14行詩、いわゆるソネット形式だ。この詩人が偏愛するもので、強烈なストイシズムが要求する形式である。堅固な外形のうちに、溶岩のように沸き立つ情念が閉じこめられている。形式で抑制されるがゆえに、かえって内圧が高まる。この危うい、微妙な均衡を端正な日本語がくるむ。からみつくような粘りがあり、のびやかで、しかも引き締まった言葉。そう、詩は言葉である。言葉の奥行きの深さと簡潔を知るには、詩にまさるものはない。
 第1連。起承転結の「起」、導入部。夜明けの空、風、吹きつけられる凧、一見不動に見えながら舞いあがろうとしている。遠方から見た、映像的な、やや軽いスケッチだ。
 第2連。「承」で、カメラ・アイが接近する。風に流されるならば何処へか飛び去ってしまうでだろうが、動かない。いや、動かないのではなくてこまかに平均を保っている。それは細い紐で地上につながれていたからだ、と情景の微細な面が明らかになってくる。
 第3連。ああ、という絶句で「転」となり、隠され抑制されていたものがいっきょに噴き出す。足もとから沈みゆく沼地がある。滅び去った都市は、戦後まもなく発表された作品であることを念頭におくと、戦中の東京大空襲を踏まえたものかもしれない。あるいは、ローマ帝国に滅ぼされた古代ユダヤ民族の首都であるかもしれない。そのいずれでもあり得る。歴史の至るところにある滅び去った都市が重層的にイメージされる。うちひしがれた人々も空襲下の東京のそれだけではない。記憶のその空は乾いていて、現在の空と重なってくる。
 第4連。瞬時、熱く噴き出た記憶は、現在の情景へ立ち戻ることによって、表面的にはぬぐい去られる。最初の二行は、第一連の二行が繰り返される。しかし、読者はひとたび「記憶」にふれたがゆえに、高みへ舞いあがろうとしてあがらず、細い紐でつながれて均衡をたもっていることの、背後に横たわる歴史を知っている。表層では無知なままで入りこんだ第一連と同じ情景だが、その深層がダブって見えてくる。最後の一行は、見事な「結」である。表層と深層を同時に見つめる詩人の、抑制された、乾いた空に応じた乾いた悲しみがかすかなため息のように漏れている。

 いうまでもなく、凧は詩人その人だ。凧、すなわち詩人自身を語りながら、個を越えたものへのまなざしを複雑なレトリックで表現している。視点の二重性は、近代詩から脱却するもので、中村稔の詩業は近代詩と現代詩の架け橋となるものと評される所以だ。

□中村稔「凧」(『中村稔著作集 第1巻』、青土社、2004)
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