「週刊ベースボール」のコラム「おれが許さん」で豊田泰光いわく・・・・、日本のスポーツ新聞は昔から「人事新聞」と言われてきたが、これは日本ジャーナリズムの体質で、大新聞だって建前は「政争よりは日本をどうするかが大事」なんて格好をつけているくせに、実際は、「政治化の右往左往を面白おかしく扱って、ほとんど政界芸能新聞といった感じ」だ。
これを注して丸谷才一いわく、「まさしくその通りで、程度の低いすつたもんだを低級に報道して騒ぎ立てるのが大新聞の政治面である。『文藝春秋』の『田中角栄の人脈と金脈』以来その傾向がひどくなつて、軒なみ政界芸能雑誌化してきた。ただしあの大スクープほどの花やかな成果はあげずに。つまり前まへからの人事偏重がいつそうはなはだしくなり、しかも品格が下がつたやうな気がする」。
で、人事の反対語は何か。ちょっと困るのだが、「人事」なんかよりもっとずっと大事なこと、貴重なこと、本質的なこと、必要なことを「大事」と名づけ、日本のジャーナリズムは今後、大事も扱ってくれ、と要望することにしよう・・・・。
わがジャーナリズムは大事を余り上手に扱っていないのだが、上手に大事を論じる人もたまにいる。かつての林達夫はその最たるもので、大問題をじつにおもしろく読ませた。ものの見方が鋭く、語り口がしゃれていた。この型の近ごろの評論家として、長谷部恭男に注目している。
彼の『憲法のimagination』(羽鳥書店)には、たとえば「認識を示す」という一文がある。
朝のニュースで、○○党の幹事長が××の財源を確保するためには消費税率を2%上げる必要があるとの認識を示した、云々。長谷部はいう、「認識は評価とは違うし、実際の行動とも違う。言ったことの中身が評価や実践と紛らわしくて取り違えられそうなときには、認識であることをはっきりさせるべきだ、というのが『認識を示す』という言い回しが用いられるときの前提である」。
つまり、価値判断は含まれていませんよ、というのがこの言いまわしの含意だ。
しかし、まったく含まれていないのか。
長谷部はいう、「意味論上の意味を超えた語用論上の意味が、『認識』ということばに込められている。/結局のところ、あたかも価値判断を全く含んでいないかのように装いつつ、実は特定の価値判断を前提として人々の行動を一定の方向に誘導するためにこそ、『認識』は示されていることになる」。
丸谷才一は、「微笑し、哄笑し、爆笑しながら大いに教へられ、なるほどと納得」するのであった。「一体に政治化の言葉づかひをこんなふうに丁寧に正確に分析し、しかもおもしろがらせてくれた人は今までなかつた」
家庭の事情(【読書余滴】では割愛)と天下国家の取り合わもじつに楽しい。ユーモアの才に富む憲法学者なんて、晦日の月とか遊女の誠とかに似た矛盾概念のような感じがして、びっくりする・・・・。
そして、丸谷はさっそく応用するのだ。「言葉は人間生活の基本だが、その言葉を手がかりにしてわれわれの文明をあざやかに論じる評論家を一人、新しく得たらしいといふ認識を示したい」
【参考】丸谷才一「人事と大事 ~無地のネクタイ8~」(岩波書店「図書」2010年12月号所収)
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これを注して丸谷才一いわく、「まさしくその通りで、程度の低いすつたもんだを低級に報道して騒ぎ立てるのが大新聞の政治面である。『文藝春秋』の『田中角栄の人脈と金脈』以来その傾向がひどくなつて、軒なみ政界芸能雑誌化してきた。ただしあの大スクープほどの花やかな成果はあげずに。つまり前まへからの人事偏重がいつそうはなはだしくなり、しかも品格が下がつたやうな気がする」。
で、人事の反対語は何か。ちょっと困るのだが、「人事」なんかよりもっとずっと大事なこと、貴重なこと、本質的なこと、必要なことを「大事」と名づけ、日本のジャーナリズムは今後、大事も扱ってくれ、と要望することにしよう・・・・。
わがジャーナリズムは大事を余り上手に扱っていないのだが、上手に大事を論じる人もたまにいる。かつての林達夫はその最たるもので、大問題をじつにおもしろく読ませた。ものの見方が鋭く、語り口がしゃれていた。この型の近ごろの評論家として、長谷部恭男に注目している。
彼の『憲法のimagination』(羽鳥書店)には、たとえば「認識を示す」という一文がある。
朝のニュースで、○○党の幹事長が××の財源を確保するためには消費税率を2%上げる必要があるとの認識を示した、云々。長谷部はいう、「認識は評価とは違うし、実際の行動とも違う。言ったことの中身が評価や実践と紛らわしくて取り違えられそうなときには、認識であることをはっきりさせるべきだ、というのが『認識を示す』という言い回しが用いられるときの前提である」。
つまり、価値判断は含まれていませんよ、というのがこの言いまわしの含意だ。
しかし、まったく含まれていないのか。
長谷部はいう、「意味論上の意味を超えた語用論上の意味が、『認識』ということばに込められている。/結局のところ、あたかも価値判断を全く含んでいないかのように装いつつ、実は特定の価値判断を前提として人々の行動を一定の方向に誘導するためにこそ、『認識』は示されていることになる」。
丸谷才一は、「微笑し、哄笑し、爆笑しながら大いに教へられ、なるほどと納得」するのであった。「一体に政治化の言葉づかひをこんなふうに丁寧に正確に分析し、しかもおもしろがらせてくれた人は今までなかつた」
家庭の事情(【読書余滴】では割愛)と天下国家の取り合わもじつに楽しい。ユーモアの才に富む憲法学者なんて、晦日の月とか遊女の誠とかに似た矛盾概念のような感じがして、びっくりする・・・・。
そして、丸谷はさっそく応用するのだ。「言葉は人間生活の基本だが、その言葉を手がかりにしてわれわれの文明をあざやかに論じる評論家を一人、新しく得たらしいといふ認識を示したい」
【参考】丸谷才一「人事と大事 ~無地のネクタイ8~」(岩波書店「図書」2010年12月号所収)
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