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2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】佐藤優の国家論、加藤周一の内村鑑三論

2010年12月01日 | ●加藤周一
 佐藤優『国家論 -日本社会をどう強化するか-』(NHKブックス、2007)を読むと、内村鑑三を振り返らざるをえない。それは、本書第4章「国家と神 -『聖書』で読み解く「国家との付き合い方」-」が、カール・バルト『ローマ書講解』を一つの軸にすえているから、というだけではない。いかにも、『羅馬書の研究』は内村の最良の散文であり、日本文学史上最良の散文だった。しかし、それはさしあたり重要ではない。重要なのは、同じプロテスタントでありながら、国家に対する態度において、内村と佐藤とは根本的なところで相違があるように思われる点だ。その相違は、内村と佐藤が生きた(生きている)時代の相違を反映しているだろう。では、内村が生きた時代は、どんなものだったのか。

 米国伝来のプロテスタンティズムを受け入れたのは、主として、武士の子弟であり、殊に幕臣または佐幕各藩の藩士の子弟であり、薩長権力に対抗した武士層の者が多かった。したがって、彼らがプロテスタンティズム(長老派、オランダ改革教会派など)を受け入れた理由は、権力批判の立場と無関係ではなかった。しかし、それだけではなく、キリスト教が「西洋への窓口」として見えた、ということもあった。それは単に知識や技術への窓口であったばかりではなく、しばしば徳川封建制への価値観を打破する有効な価値体系への窓口でもあった(加藤周一『日本文学史序説』(以下『序説』と略す)下巻p.341)。
 そして、『序説』下巻pp.343-348は、概要次のように述べる。

(1)第一高等中学校不敬事件
 内村は、札幌農学校で受洗。卒業後3年間余米国で聖書と神学を学び、帰国後に第一高等中学校の講師となった。
 1981年、いわゆる「第一高等中学校不敬事件」が起きた。校長は「敬礼」は「礼拝」にあらずと説き、内村はそれを前提として「敬礼」に同意したが、彼自身および同僚の一人は失職した。
 「この事件が日本近代思想史の上で重要なのは、敬礼をためらった内村の良心において、天皇神格化の否定が明瞭にあらわれていたからである。内村の唯一神の信仰は、国家とその象徴としての天皇に、絶対的に超越する。内村は、烈しい愛国者であり、日本の国家に超越したその信仰が、日本以外の地上のあらゆる国家にも超越したことはいうまでもない。(中略)またその関心が自己の内部ではなく、キリストに向かっていたこともあきらかである。(中略)共同体への帰属と共同体の外にいかなる絶対者もみとめない価値観を中心として築き上げられた日本的世界観の伝統のなかで、こうのような内村の信仰が、例外的であり、かつ画期的であったことは、当然である」

(2)非戦論
 その後の内村は、愛国的立場から日清戦争を支持したが、最後次第に絶対的な平和主義に近づいていく。
 足尾鉱毒事件(1900年)が起きると「万朝報」によって政府を批判し、日露戦争の危機が迫ると開戦に反対し、「万朝報」が開戦支持に踏み切ったとき、幸徳秋水や堺利彦とともに退社した。

 「内村の非戦論の根拠は、二つあった。その一つは、『新約聖書』の争闘を嫌う精神、殊にその無抵抗主義(「羅馬書」12章)である。『聖書』の無抵抗主義の背景には、人は人を罰せず、劫罰は神の仕事である、という考え方があり、その考え方は、晩年の内村においては、キリスト再臨信仰によって強められたにちがいない。他方、人の激しい攻撃に遭ったとき、無抵抗主義をとることで、みずから心の平和を得たという個人的な体験も、その考え方を強めたらしい(「余が非戦論者になりし由来」、『聖書之研究』、1904年4月)。いずれにしても内村は個人間の聖書的な無抵抗主義を国家間のそれへ拡大した。彼の平和主義のもう一つの根拠は現実の歴史の観察である。日清・日露の戦争をみて、彼は戦争が戦争を生むこと、平和のための戦争などというものはなく、戦争が終る毎に軍備はますます拡張されるということを見破っていた」
 なぜ見破ったのか。現実に超越する正義の立場に立ちながら、しかもその立場と現実の条件との緊張関係を彼がみずから生きていたからだ。

(3)キリスト教
 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、単に自己について語るばかりではなく、キリスト教と日本との関係についても語り、またキリスト教国としての米国が彼の目にどう見えたか、ということについても語る。「このときすでに内村は、単に自己の内心を見つめる男ではなく、彼の外の世界を理解し、その意味を発見しようとする人間として、あらわれていた」

 「第一次世界大戦後、内村の後半生は、聖書の研究とキリスト再臨問題に集中される。(中略)殊に優れているのは『羅馬書の研究』である。当時集め得る文献を広く集め、原文に拠って訳語を検討し、一行毎に詳細な註釈を加えながらその意味を説く。そのことはまた同時に、内村自身の信仰の内容を、そのあらゆる面にわたって、提示するものでもある。文章は、内村の他の多くの文章にみられる誇張と華麗な装飾を絶って、簡素で明快、まことに緊密で、筆者の全人格をそこにかけた迫力にみちる。これが内村の著作の中心であるばかりでなく、明治以後の文学的散文の傑作の一つであることに、疑の余地はないだろう」

(3)社会正義
 内村は、鉱毒事件に関わり、平和主義の立場をとって日露戦争以後帝国主義的膨張を志向していた日本の社会に激しい批判を加えたが、みずから社会主義運動に参加はしなかった。キリスト教は天国への教え、社会主義は此世を改良するための主義としたが、キリスト教が此世の秩序に無関心なわけではない。たしかに内村が指摘したように、特定の社会改革を提供はしなかったが、キリスト教は社会正義の観念を明治の日本にもたらした。
 はたして、日本で最初の社会主義政党、社会民主党がつくられたとき(1901年)、創立者6人のうち幸徳秋水を除く5人はキリスト教徒であった。その一人は内村の弟子で、もう一人は札幌農学校の出である。合法的な議会主義の立場をとった社会民主党を、創立の2日後、政府は禁止した。

(4)その他
 1830年の世代は、すぐれて政治的な世代だった(吉田松蔭、成島柳北、中江兆民)。彼らの文学も政治化した。
 内村鑑三は、彼らに続く世代の一人である。明治維新をみずから経験しなかった世代である。そして、西洋の技術と政治思想ばかりでなく、その近代文学の影響を受けた日本人の最初の世代である。明治以後日本文学を作ったのは、1860年の世代の「エリート」であった((『序説』下巻p.159)。

 明治の官僚国家は産業資本主義を積極的に推進した。日清戦争の賠償金を除けば外部からの大きな資本の導入なしに、しかも急激に進められた。高い小作料と低い労働賃金は、大衆の構造的な貧困を、しばしば極端に悲惨な貧困を生みだした。
 内村鑑三、田中正造や木下尚江が鋭く反応したのは、そういう事態に対してである。要するに、政治的な知識人の世代の次に、社会的関心の世代が続いた(『序説』下巻p.283)。

 西洋から輸入された「イデオロギー」の体系のなかで、19世紀後半の知識人にいちばん大きな影響をあたえたのは、あきらかにキリスト教、殊にプロテスタンティズム、殊に北米系のそれである。日本側にはすぐれたキリスト教の指導者がいた。新島襄、植村正久の後に内村鑑三が続く。内村の場合に典型的なように、プロテスタンティズムは、明治の天皇制国家に絶対に超越する立場への道をひらいた。したがって、根本的な体制批判の可能性をも準備したのである。
 日露戦争の頃、反戦論者と初期の社会主義者の指導者たちの圧倒的多数が、プロテスタントのなかからあらわれたのは、不思議ではない。キリスト教が社会的関心を作りだしたのではなく、この世代の知識人に共通の社会的関心にキリスト教が反権力の方向をあたえたのである。その反権力の方向が、単一なものでなかったことは、いうまでもない(『序説』下巻pp.291-292)。

【参考】『日本文学史序説(下)』(ちくま文庫、1999)
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