語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】家田荘子の、女性の一人遍路 ~ノンフィクション・ライターと宗教との関係~

2010年12月07日 | ノンフィクション
 家田荘子は、愛知県出身。女優としてTVや映画などに出演後、作家に転業した。『私を抱いて そしてキスして ~エイズ患者と過ごした1年の壮絶記録』」(文藝春秋)で第22回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。平成19年、高野山で伝法灌頂を受け、尼僧となる。
 以下、真言宗の行を家田が語る(要旨)。

 50代、60代で四国88ヶ所を一人で歩く男性は多い(オッサン遍路)。同じ遍路宿に泊まることも多い。皆友だちになっていって、宴会を始める。
 女性の一人遍路は少ない。
 観光バス遍路のおばちゃんの一部は、自分しか見えていない。納経の列に割りこむし、金剛杖はお大師なのに平気で蹴っとばす。
 オッサン遍路は思いやりがある。スタート地点の徳島県にいるときは普通の顔をしているが、皆さわやかな顔になっていく。自分をみつめなおすことができるからだろう。

 私(家田荘子、以下同じ)が在家出家したのは、1999年11月16日のことだ。それ以前から山行や水行をしていた。最初は弘法大師ゆかりの東寺で得度したくて訪ねたが、そこでは女性は得度できない。紹介してもらったのが、今の師匠、池口恵観博燈大阿闍梨だ。
 88ヶ所では、何度もしんどい思いをしている。私がやっているのは、「つなぎ遍路」で、二泊三日で途中まで歩いて、電車かバスで戻る。次にその地点から歩いてつなぐ。1日35~40数キロ歩く。最初、靴が合わなくて足の爪を剥がした。親指の爪が元どおりになるまで、ちょうど1年かかった。

 今、高野山の大学院密教学科に在籍している。卒論に遍路実習を選択している。
 大学院に入ったきっかけは、「なぜ人を殺してはいけないのか」の答を見つけたかったからだ。子どもに教えられる答を。「大日如来様からいただいた体だから、殺してはいけない」だけでは、今の子どもはわかってくれない。
 卒論のテーマに歩き遍路を選んだのは、就業者に遍路をしてもらいたいからだ。

 行とは、修行のことで、山行、水行、護摩行などさまざまな種類がある。行の一番の目的は自分を見つめることだ。
 私はじっとしているのが嫌いなのでめったにやらないが、禅宗の座禅、真言宗の阿字観(瞑想)も行だ。ふだんの状況とは異なる場所に自分を追いやることで、自分自身と対話する機会をつくる。

 山行には、頂上に着いたときの喜びがある。大自然の緑によって体が洗浄される。あちこちにお願いごとをしてはいけない。お願いごとをすると、必ず御礼に再訪する必要がある。「あちらこちらの神社でお願いごとをする人もいますが、神様の世界は縦社会なので、お願いごとは自分のご本尊様にして下さい。そうすればご本尊様が計らってくださる。ご先祖がどこの神社や終え羅に通っていたかを遡っていけば、自分のご本尊様に辿りつきます」
 神社仏閣が大好きでよく行く。その際には必ず挨拶をする。なぜ自分がここに越させていただいたか、を神仏様に説明すればよい。

 山行を途中でやめると願い事がかなわない、という人がいる。私は違う解釈をする。山に行こう、と思った瞬間から行は始まっている。その気持ちがすばらしい。途中で怪我で挫折しても、そのとき与えられた行だと思って受けとめればよい。
 山行は、白装束でなくとも、最初は白系の服を着ているだけでもよい。無理をしないこと。大峯系のように地下足袋を指定されているのでなければ、登山靴が安全だ。
 ただし、数珠は一つ必要だ。自分で働いて得た金で買った数珠がよい。数珠はふだん悪いものをいろいろ吸ってくれる。それを落とすためには山に連れていき、同行かけたほうがよい。行で数珠がきれいになる。

 水行は、瀧や海に入る修行だ。海で行する場合は、命がけになる。気を抜いたら波に飲まれて溺死する。水行の間は、眼を閉じておくこと。波が来ても頭からかぶるのだ。あまりにすごい波が来たときは、目を閉じたまま一歩後ろに下がる。耳をすませて、波の音で判断するのだ。
 水行は、自分の中の恐怖心とjの闘いでもある。無理はしない。最近は、自分のレベルに合った行を積み重ねるようにしている。
 真冬の吹雪の中では、水行で手が凍傷になることがある。けっして易しい行ではない。
 冬の滝行の場合、水のあたる体の部分が痛くなる。どんなに寒くても軽く凍傷になっても、水行で風邪をひいたことはない。毎回、冬の滝に入る前に、今なら止めることができる、と考えるが、あえて入っていく。続けることが行なのだ。

 中高年になると、釈迦の言葉、生・病・老・死が身にしみてくる。これからの人生を考える。自分のことをよく知りたい。人のために生きたい。充実した毎日を送りたい。そうした願いに行は応えてくれる。しんどい行をすると、人の痛みがわかってくる。何かを続けるという喜びがあるので、生きることに意欲が湧いてくる。死に対する恐怖心が薄れる。

 山行では長い時間をかけて登るから、自分と対話する機会も増える。山を甘くみないで、ありがたく登らせてもらう、という気持ちが大事だ。霊山に登ると、ぴりぴりとした空気を感じることができる。気持ちが引き締まってくる。あの山を登らせていただいた、という結果が生きることの自信につながる。
 もともと人間は自然の中にいた。自然の中で心が洗われる。きっと発見もある。山から下りてきた瞬間、すぐにまた登りたくなる。そのためには何時までも健康でいよう、という気持ちになれる。

 護摩行は、ほんとうに熱い。顔や手が焼けてウミの出る火傷を負う日もある。正座を続けるので、足の痛みが半端ではない。でも、その苦しみの中から生まれるものが、きっとあるはずだ。
 師匠は何時もいう、「世の中すべての人の苦しみは理解できないが、行によって、一部の人々の苦しみを共有させてもらうことはできる」と。この言葉が励みになっている。

 日常生活の中で一生懸命仕事を続けることも行だ。朝起きて家の中の一番いい場所で、「今日も朝を無事迎えられました。ありがとうございます」と心からの感謝を毎日続けることも、立派な行だ。続けることは難しい。近所の神社の掃除、参道のごみ拾いも立派な行だ。掃除をすれば自分の体も心もきれいになっていく。
 行は、日常生活のいろいろな場所に転がっている。
 小さな行でも続けていけば、自信や意欲に繋がる。そこから生きる喜びが生まれる。

 ブログに書く、という「行」を毎日続けても・・・・(とは、家田は書いてないが)。
 ちなみに、家田荘子の「2泊3日つなぎ歩き遍路ショート日記」は、こちらだ。

【参考】家田荘子「老い、病、死を乗り越えるために行を行う」(『一個人主義』、KKベストセラーズ、2008、所収)
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