語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【片山善博】違憲と不信で立ち枯れ ~安保法案~

2015年08月20日 | ●片山善博
 (1)安倍政権は、安保法制を強引に成立させようとしている。衆議院では、特別委員会と本会議のいずれも与党だけで強行採決した。
 衆議院の審議は100時間を超え、論点も出尽くした、というが、国会の審議は単に時間をかければよいというものではない。しかも、実質的には11本もの法案を強引に一本化しているから、本来の一本当たりに換算するとせいぜい10時間程度に過ぎない。その一つ一つが重大な意味と内容を持っているのに、これでは審議時間がが少なすぎる。
 衆議院での審議は焦点を絞れないまま漂流した感があるし、法案への疑義は深まるばかりだ。
 国民の理解は一向に進んでいない。法案の成立に反対する意見が賛成を大きく上回っている【新聞各紙の世論調査】。むしろ、ここにきて国民の理解がかなり進んできたからこそ、反対する声が強くなったと見るべきか。

 (2)国民の理解が得られない最大の理由は、この法案が憲法違反だからだ。
 国会が制定する法律は、憲法に適合していなければならない。憲法違反の法律は無効だ。
 むろん、憲法には解釈の余地があって、安保法案はその余地の範囲内だから違憲ではない、と政権は強弁する。しかし、この政府見解は、ほんのわずかの例外を除いて、ほとんどの憲法学者から一蹴されている。
 政府が「合憲説」の根拠に持ちだしたのが、いわゆる砂川判決(1959年)だ。ただ、これは米軍の駐留が憲法上容認されるかどうかが争われた事件であって、わが国の集団的自衛権行使とは無縁の判決だ。牽強付会というより、片言隻句を頼りに幼稚なレトリックを弄している。

 (3)しかも、砂川判決そのものの「合憲性」に強い疑いを抱かざるを得ない事情と曰くがある。
 判決を出した田中耕太郎・最高裁判所長官(当時)は、驚くべきことに、判決前から駐日米国大使と面会し、判決に係る情報を提供するなど内通していたのだ【米国政府が公開した在日米国大使館の機密文書】。
 これが事実ならば、この判決は憲法違反だ。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」【憲法76条3項】のだが、報じられた田中長官の言動は、国(この刑事裁判の当事者)ないしその背後の米国から何らかの指示を受けていたことを疑わせるに十分だからだ。

 (4)しかも、さらに、砂川判決では「統治行為論」を持ちだし、日米安全保障条約(米軍が駐留する根拠)のような高度に政治的な問題について司法は判断しない、としたのだ。
 この統治行為論は、最高裁が憲法によって課せられた職務を怠り、その責任を放棄したものだ。
 「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する」【憲法81条】
 ならば、裁判で法律が憲法違反かどうか争われた場合には、最高裁はその憲法適合性について判示しなければならないはずだ(違憲立法審査)。
 ところが、田中長官の最高裁は、砂川判決においてその判示を避け、逃げてしまった。
 本来「一切の法律、命令、規則又は処分」が憲法に適合するかしないかを決定すべきなのに、「一部」については例外的に審査の対象から除外した。いわば、政府や国会のやることに「お目こぼし」の余地を作ってしまったのだ。
 これでは、国家権力に対し憲法が箍(たが)をはめるという立憲主義の原理は、実質的に大きく毀損される。憲法の番人たるべき最高裁が自ら憲法を蔑(ないがし)ろにするようなことがあってはならない。

 (5)もっとも、砂川判決は、単なる最高裁の職務怠慢ないし責任放棄というわけではない。
 そもそも最高裁が憲法適合性に疑問を抱かなければ、単純に合憲だと判示すればよかっただけのことだ。
 それをそうしなくて、統治行為論などという怪しげな理屈を持ちださざるを得なかったのは、とても合憲だと言えないし、さりとて違憲だとも言い辛い政治的事情ないし圧力があったのだろう。
 それを裏打ちするのが、(3)の田中長官の不可解な言動だ。
 統治行為論とは、違憲の疑いが極めて濃厚な事件をカモフラージュするための、苦し紛れの詭弁だ。

 (6)このたびの安保法案について、その合憲性を弁証するには、こんな曰くつきの判決に頼らざるを得なかったこと自体、既にこの法案が憲法に支えられていない事情を物語っている。

 (7)安保法案について、子育て中の女性の関心が高いという。
 特に、自衛隊が海外に展開するようになれば、いずれ徴兵制が敷かれるのではないか、と懸念している。
 これに対して自民党は、徴兵制などあり得ない、と防戦に努めている。
 では、ありえないとする根拠を示せ、と迫られると、「憲法上徴兵制は禁じられているとの解釈が定着している」と応じているが、まったく説得力を持っていない。
 なにしろ、自民党はこれまでの長い間、「集団的自衛権は憲法上行使できない」と言い続けてきた。その解釈は、それこそ定着しているはずだったが、安倍政権はあっさり「集団的自衛権は憲法上認められている」とまるっきり逆の解釈を打ち出した。そんな政党のことだから、今後いつ「徴兵制は憲法上禁止されていない」と言い出すかしれたものではない。
 こう詰め寄られると、もはや自民党に返す言葉はない。
 憲法を踏みにじる者が、都合のいい時だけ憲法を自説の補強材料に持ち出そうとする。その胡散臭さに国民の不信は高まりこそすれ、減じることはない。

 (8)国立競技場建替えをめぐるドタバタ劇も、安倍政権への不信に追い打ちをかけた。
 これまで建築の専門家や多くの国民から、杜撰な計画は見直すべきだ、とさんざん批判されていたのに、政権は「このデザインはオリンピック招致の際の国際公約だから変えられない」と言い張っていた。
 しかし、安部総理が計画を白紙撤回する頃から、デザインは重要なことではない、とするIOC会長の考えが伝えられた。
 国際公約説は、いったい何だったのか。この疑問は、一連の不始末を点検するために設けられる第三者委員会で追求されるべきだが、それとして、このたびの安保法案への不信を抱かせる要素を十二分にもっている。
 政権は、法案が必要なことの根拠に「国際情勢の変化」を持ちだすが、それは国立競技場建替えの国際公約説と同様、国民を騙しているのではないか。
 ここでも、政権は説得力の基盤を失っている。

 (9)衆議院で強行採決された後、安部総理は「国民に丁寧に説明する」と称して、いくつかのテレビ番組に立て続けに出演し、消火活動や戸締まりの譬えを用いて得々と説明していた。
 しかし、何が言いたいのか、よく理解できない話だったし、憲法違反ではないという説得的な説明はゼロだった。
 そもそも法案の内容に無理があるから説明できないのだ、と知るべきだ。

□片山善博(慶應義塾大学教授)「違憲と不信で立ち枯れの安保法案 ~日本を診る第70回~」(「世界」2015年9月号)
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【詩歌】財部鳥子「龍 --杭州で」

2015年08月20日 | 詩歌
 四千年の修練をして、水の上に紅い寺を浮かべている見えない龍は、強い口調でいっている。たましひの話は嫌いだって。
 わたしだって龍の髭を抜くのは嫌だ。

 空の外にも空がある。たましひの外にもたましひがある。
 それなら空はない。たましひはないのだと龍はいう。
 しかし、わたしたちは乾いた笛の音のように龍を宙空に追いやって、あえて雲の上に浮かべておく。
 龍はどんなものなのか。たましひはどんなものなのか。
 今も、終にも、分かろうとせずにいたいのだ。

 白雨はたちまち止んで、みずうみをめぐる山の上の茶店で、わたしたちは喜々として蓮の実をたべた。
 おそろしい来世が必ずある。そのことを龍に言いあてられまいとして、熱い茶をすすり、目をつぶって笑う。

 黄龍洞のなかでは琵琶を弾く女が龍のことばを歌っている。木犀の香りがただようしめった琵琶歌を聞くうちに龍に謀られたのか、水の穴から、ふいに水に浮かびあがるわたしたち。

 空の外にも空がある。たましひの外にもたましひがある。
 水に浮かぶ紅い寺では偽物の龍の髭を展示している。
 やっとの思いでそこへ泳ぎ着く。龍はいない。龍はいる。

□財部鳥子「龍 --杭州で」(『中庭幻灯片』、思潮社、1992)
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 【参考】
【詩歌】財部鳥子「凍りついて」
【詩歌】財部鳥子「いつも見る死 --避難民として死んだ小さい妹に」


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