語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【詩歌】財部鳥子「いつも見る死 --避難民として死んだ小さい妹に」

2015年08月18日 | 詩歌
 いもうとは空色の服をきて
 草むらに見え かくれ
 いもうとは顔のような牡丹の花をもって
 あ 橋のしたを落ちていく
 その とおい深い谷川の底で
 わたしは目ざめている
 いもうとを抱きとるために目ざめている
 あおい傷が
 わたしの腕をはしる

 はしる野火にまかれて
 わたしもいもうともそこにいない
 バオミイの林のなかの
 大きな泣き声は わたしではない
 わたしは目ざめて
 気づく
 夢の巨きなおとがいに
 いもうとを捨てたことを
 もう戻れない
 戻れない

 でもはしれ はしれ
 はしるたびに 傷は大きくなりながら
 牡丹の色に裂けて
 わたしは死ぬ いくども死ぬ
 死ぬあとから
 いもうとは 鳥の巣のある草むらにまぎれこんだ
 いもうとは タワン河(ホー)のきいろい水勢に
 のまれてしまった

 そしてわたしは不意に目ざめる
 戻れない 泣き声ののこる夢のあわいで
 わたしは銃声を一発 ききたくない

 *

●中村稔(『財部鳥子詩集』(現代詩文庫、1997)裏表紙のことば

 『中庭幻灯片』に収められた作品はいずれも、措辞は堅固、情感は切実、興趣は芳醇である。だが、財部鳥子の詩人としての出発である絶唱「いつも見る死」から、詩集『西游記』をへて、『中庭幻灯片』まで読みすすむと、読者は『中庭幻灯片』の詩境が、この詩人の激情、慟哭を時間をかけて純化し、沈静化し、結晶させて到達したものであることを知るだろう。同時に、肉親の死を契機とした激情、慟哭が、普遍的な魂の探求にこの詩人を向かわせたことを読者は知るであろう。財部鳥子は魂の狩人である。この詩人は、過去をまさぐり、はじめての異郷で生者と、また死者と対話し、魂を追い求める。その辛い作業から珠玉のような詩編が紡ぎだされるのである。

□財部鳥子「いつも見る死 --避難民として死んだ小さい妹に」(『私が子供だったころ』私家版、1965)
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