池田晶子さんの「41才からの哲学」新潮社 おもしろいですね。
第5章 「信じなくても救われる」
いやあ、ホントそうなんですよね
なんて、私が言ったら、誤解をまねきそうですが・・・
何の宗教でも、「信心」が大切。浄土真宗だって同じように、「信心が要」と説きますから・・・
でも、その「信心」って言葉自体が、何んだか誤解を招いているような気がします。
「信心」と聞いてイメージするのが、自分の都合にあわせた解釈で、つまり、自分のはからい(自力)で「自分が信じ込む信心」ならば、それは、仏教の信心とは、ちょっと違いますよ・・・ということです。
以前お盆の法話で、ウチの住職が、「信じる」ってことについて、お話したことがあります。
「皆さん、朝食に出されたみそ汁を口にする前に、じっと妻の顔を見て『信じているからね』と、言ってから食べたりはしないでしょう。
毒がもられているかもしれない・・など疑いも考えもせず、みそ汁を口にするでしょう。『信じる』とわざわざ口にするということは、少しは疑いもあるけど、自分は「信じたい」という表明ですよね。
真宗の信心は、そういう「自分が信じる」信心のことを言っているのではなく、仏に何の疑いもなく、任せきった心のことを言います」
何の疑念もなく、新聞、テレビニュースを見ながら、妻の顔をのぞき込むことなく、おいしく頂くみそ汁・・・
「何だかわからないものを自分に好都合だから信じる」というのが、「宗教」というイメージならば、仏教は、そういう宗教とは、正反対かもしれません。
「真理に気づかされる」こと、「信じなくても、救われていることに気づかされる」こと、「仏(真理)(他力)に安心して任せきった心」
それを現代、誤解を招く「信心」って言葉じゃなく、表現するとしたら、どんな言葉でしょうか・・・
第5章 「信じなくても救われる」
いやあ、ホントそうなんですよね

何の宗教でも、「信心」が大切。浄土真宗だって同じように、「信心が要」と説きますから・・・
でも、その「信心」って言葉自体が、何んだか誤解を招いているような気がします。

以前お盆の法話で、ウチの住職が、「信じる」ってことについて、お話したことがあります。
「皆さん、朝食に出されたみそ汁を口にする前に、じっと妻の顔を見て『信じているからね』と、言ってから食べたりはしないでしょう。

真宗の信心は、そういう「自分が信じる」信心のことを言っているのではなく、仏に何の疑いもなく、任せきった心のことを言います」
何の疑念もなく、新聞、テレビニュースを見ながら、妻の顔をのぞき込むことなく、おいしく頂くみそ汁・・・

「何だかわからないものを自分に好都合だから信じる」というのが、「宗教」というイメージならば、仏教は、そういう宗教とは、正反対かもしれません。
「真理に気づかされる」こと、「信じなくても、救われていることに気づかされる」こと、「仏(真理)(他力)に安心して任せきった心」

それを現代、誤解を招く「信心」って言葉じゃなく、表現するとしたら、どんな言葉でしょうか・・・
