原題は「スターの座から20フィート離れて」。数歩の距離である6メートルの差が、スターとバックボーカルの越えがたい谷だという意味。
登場するディーバたちの歌唱力にまず圧倒される。彼女たちの典型は、牧師の家に生まれ、幼いころからゴスペルに親しみ、その能力をコンサートで思い切り開花させるというもの。そのタレントは誰もが認めながら、しかし商業的な成功に結びつかないのがショービジネスの怖いところだ。
しかし売れる売れないというレベル以外のところで彼女たちの才能は光り輝いている。これは判官贔屓じゃなくて、誤解をおそれずにいえば、ひとつのツールとしてロックに彼女たちの声は絶対に必要だったのだと思う。
譜面どおりにお行儀よく歌うことが当然だった白人バックコーラスと違い、ゴスペルをポップスで展開した彼女たちは明らかにロックのレベルを数段階あげている。
これまた怒られそうだけど、ローリングストーンズの魅力とは、黒人音楽を無批判にとりいれたことにあるはずで、だからクラウディア・リディアが“ブラウン・シュガー”(茶色いお砂糖)として賞揚されたのだし、リサ・フィッシャーはストーンズとのからみで歴史に残っている。とりわけ、「ギミー・シェルター」で起用されたメリー・クレイトンのエピソードには心打たれる。ミックとキースは、新しい楽器を見つけた喜びにあふれている。ひょっとしたらあいつらは楽器と寝たのかもしれないけれども。
わたしの世代にとっては涙なくしては観られないシーンの連続。
動いているフィル・スペクターを観るのは初めてだし(彼はダーレン・ダヴを自分の“作品”ではないとして徹底して抹殺した)、デビッド・バーンはあいかわらず大きいスーツを着ています。
ブルース・スプリングスティーンは、曲を作らない彼女たちの不幸を冷静にコメントしているし、アイク&ターナーの紹介において、アイクはティナ・ターナーたちを食いものにしていたと結論づけられ(そのとおりだけど)、「チャカ・カーン(程度)ならたくさんいる」と平然と語られるなど、アメリカ音楽界の豊穣さにもびっくり。
これだけは言える。彼女たちはコーラス・ラインであることを「縁の下の力持ち」などと考えているわけではない。
マライア・キャリーのようにCBSのトップにいきなり働きかけるような厚顔さを持たず、時の運がなかったとしても、音楽に貢献できた喜びに満ちあふれているのだ。なにより、その音楽的レベルの高さは、ロック・スターたちだけでなく、名を知らないだけでオーディエンス自身が認めている。
「みんなが口ずさむのは、あたしたちが歌ったパートじゃない?」
まさしく。まさしく。