その6.
もうひとつ別の映画館へ行くこともあった。買い物に行くこともあったが、このごろでは買いたくなるものもとくにない。たまにクッキー・ベンソンにも会った。そういえばあたしの友だちの中で、頭が良い人、ほんとに頭が良いって言える人ってクッキーだけじゃない? とロイスは考える。クッキーってステキ。ステキだし、ユーモアのセンスがあるんだわ。クッキーとなら、ストーク・クラブで何時間でも過ごすことができた。きわどい冗談を言い合ったり、友だちの品定めをし合ったり。
クッキーって最高だわ。どうしてこれまでクッキーと仲良くしなかったんだろう。クッキーみたいにちゃんとしてて、頭の良い人を。
カールはよく足の不調をロイスにこぼした。ある晩、ふたりで過ごしているときに、カールは靴と黒い靴下をぬいで、むきだしになった足をしげしげと眺めていた。そのとき、自分を見つめるロイスの視線に気がついた。
「かゆいんだ」笑いながらロイスに言った。「色靴下をはいちゃいけないんだよ」
「気のせいよ」とロイスは言った。
「おやじもそうだったんだ。医者が言うには、皮膚炎なんだって」
ロイスはなんとか無邪気に聞こえるように苦労しながら言った。「あなたの言うことを聞いてたら、ライ病にでも罹ったんじゃないかって思っちゃうわよ」
カールは声を上げて笑った。「それはないよ」まだ笑いながらそう言った。「夢にもそんなこと、考えたこともない」灰皿からタバコを取り上げた。
「あらあら」ロイスは無理矢理笑った。「タバコを吸うのに、なんで煙を吸いこまないのよ。煙を吸いこまないで、なにがうれしくってタバコなんか吸うの」
カールはふたたび声を上げて笑い、自分が煙を吸いこまない理由とタバコの先に何か関係があるかのように、先をしげしげと見た。
「わからないな」と笑う。「とにかく、ただ吸いこまないんだよ」
子供ができたことがわかってからは、ロイスは前ほど頻繁に映画に行かなくなった。そのかわりにしょっちゅう母親とシュラフトでランチをするようになり、野菜サラダを食べながらマタニティ・ドレスのことを話し合った。バスに乗ると、男たちはロイスに席を譲ってくれる。エレベーター・ガールは、個性の感じられない声に、これまでにはなかった敬意のトーンをかすかに加えて話しかけてきた。ロイスはベビーカーの日よけの下をのぞきこむようになった。
カールの眠りはいつも深いために、ロイスが寝ながら泣く声を聞くこともなかった。
赤ん坊が生まれると、みんなが「かわいい子」と呼んだ。小さな耳とブロンドの髪の、まるまるとしたかわいい男の子で、赤ん坊にべたべたとキスをするのが好きな人が、べたべたキスをしたくなるような赤ちゃんだった。ロイスはかわいくてたまらなかった。カールも夢中になった。義理の両親も、目に入れても痛くないほどのかわいがりようだった。要するに、すばらしく見事な結果を出したのである。数週間ほどが過ぎ、ロイスはどれほどトーマス・タゲット・カーフマンにキスしたとしても、半分にも満たないように思えた。小さなお尻は、どれほどなでてもなで足りなかった。話しかけても話しかけても、話したりないのだった。
「そうよ、誰かさんがお風呂にいくの。そう。あの子がはいるのはきれいで気持のいいお風呂じゃなきゃ。バーサ、お湯加減は大丈夫?」
「そうよ、あの子、お風呂にはいるのよ。バーサ、お湯が熱すぎる。もう知らない、バーサったら。熱すぎるじゃない」
ある日、カールがやっとトミーの沐浴に間に合う時間に帰ってきた。ロイスは科学的原理に基づいたバスタブから手を引き抜いて、濡れた手でカールを指さした。
「トミーちゃん、あの人だあれ? あの大きな人はだあれ? トミーちゃん、あの人はだれかしら」
「この子にはぼくがわからないだろうな」とカールは言ったが、楽しそうだった。
「パパよ。あれがあなたのパパなのよ、トミーちゃん」
「わかりっこないさ」
「トミーちゃん、トミーちゃん、ママの指の先をよおく見て。あれがパパよ。あの大きな人よ。パパですよ」
その秋、ロイスの父親が娘にミンクのコートを買ってやったので、七十四丁目と五番街界隈に住んでいる人なら、木曜日にはいつもミンクのコートを着たロイスが、大きな黒い乳母車を押して、五番街を渡ってセントラルパークに入っていくのを見たはずだ。
やがて、結局のところ彼女はやってのけたのだった。ロイスがやりとげたとき、みんなそのことに気がついたらしかった。肉屋はロイスに一番いい肉を切ってくれた。タクシーの運転手は、自分の子供たちの百日咳について教えてくれた。メイドのバーサは、ぞうきんではなく、濡れたぞうきんで掃除をするようになった。気の毒なクッキー・ベンソンは、酔っぱらって泣き上戸になると〈ストーク・クラブ〉から電話をかけてよこすようになった。女たちは、ロイスの服ではなくロイスの顔を、じっと見つめるようになった。劇場のボックス席に坐った男たちは、下にいる観客の女たちの中からロイスを探し出そうとした。オペラグラスを当てるロイスの仕草を見るのが好き、という以上の理由はなかったのかもしれないが。
そうなったのは、幼いトーマス・タゲット・カーフマンが眠っている最中、変なふうに寝返りを打ったせいで、毛足の長い毛布が彼の短い命を奪ってしまってから、六ヶ月が過ぎたときだった。
ある晩、ロイスが愛していない男が、椅子に坐って絨毯の模様を見つめていた。ロイスは半時間近く、寝室から窓の外を眺めたあと、ちょうどその部屋に入ってきたところだった。カールの向かいに腰を下ろす。これほど彼の顔が、愚かしく、醜く見えたことはなかった。けれども、ロイスには彼に言わなければならないことがあった。そうして、不意にその言葉は口にされた。
「白い靴下をはいていいのよ、もういいの」ロイスは言った。「白い靴下をはいてちょうだい」
(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)
もうひとつ別の映画館へ行くこともあった。買い物に行くこともあったが、このごろでは買いたくなるものもとくにない。たまにクッキー・ベンソンにも会った。そういえばあたしの友だちの中で、頭が良い人、ほんとに頭が良いって言える人ってクッキーだけじゃない? とロイスは考える。クッキーってステキ。ステキだし、ユーモアのセンスがあるんだわ。クッキーとなら、ストーク・クラブで何時間でも過ごすことができた。きわどい冗談を言い合ったり、友だちの品定めをし合ったり。
クッキーって最高だわ。どうしてこれまでクッキーと仲良くしなかったんだろう。クッキーみたいにちゃんとしてて、頭の良い人を。
カールはよく足の不調をロイスにこぼした。ある晩、ふたりで過ごしているときに、カールは靴と黒い靴下をぬいで、むきだしになった足をしげしげと眺めていた。そのとき、自分を見つめるロイスの視線に気がついた。
「かゆいんだ」笑いながらロイスに言った。「色靴下をはいちゃいけないんだよ」
「気のせいよ」とロイスは言った。
「おやじもそうだったんだ。医者が言うには、皮膚炎なんだって」
ロイスはなんとか無邪気に聞こえるように苦労しながら言った。「あなたの言うことを聞いてたら、ライ病にでも罹ったんじゃないかって思っちゃうわよ」
カールは声を上げて笑った。「それはないよ」まだ笑いながらそう言った。「夢にもそんなこと、考えたこともない」灰皿からタバコを取り上げた。
「あらあら」ロイスは無理矢理笑った。「タバコを吸うのに、なんで煙を吸いこまないのよ。煙を吸いこまないで、なにがうれしくってタバコなんか吸うの」
カールはふたたび声を上げて笑い、自分が煙を吸いこまない理由とタバコの先に何か関係があるかのように、先をしげしげと見た。
「わからないな」と笑う。「とにかく、ただ吸いこまないんだよ」
子供ができたことがわかってからは、ロイスは前ほど頻繁に映画に行かなくなった。そのかわりにしょっちゅう母親とシュラフトでランチをするようになり、野菜サラダを食べながらマタニティ・ドレスのことを話し合った。バスに乗ると、男たちはロイスに席を譲ってくれる。エレベーター・ガールは、個性の感じられない声に、これまでにはなかった敬意のトーンをかすかに加えて話しかけてきた。ロイスはベビーカーの日よけの下をのぞきこむようになった。
カールの眠りはいつも深いために、ロイスが寝ながら泣く声を聞くこともなかった。
赤ん坊が生まれると、みんなが「かわいい子」と呼んだ。小さな耳とブロンドの髪の、まるまるとしたかわいい男の子で、赤ん坊にべたべたとキスをするのが好きな人が、べたべたキスをしたくなるような赤ちゃんだった。ロイスはかわいくてたまらなかった。カールも夢中になった。義理の両親も、目に入れても痛くないほどのかわいがりようだった。要するに、すばらしく見事な結果を出したのである。数週間ほどが過ぎ、ロイスはどれほどトーマス・タゲット・カーフマンにキスしたとしても、半分にも満たないように思えた。小さなお尻は、どれほどなでてもなで足りなかった。話しかけても話しかけても、話したりないのだった。
「そうよ、誰かさんがお風呂にいくの。そう。あの子がはいるのはきれいで気持のいいお風呂じゃなきゃ。バーサ、お湯加減は大丈夫?」
「そうよ、あの子、お風呂にはいるのよ。バーサ、お湯が熱すぎる。もう知らない、バーサったら。熱すぎるじゃない」
ある日、カールがやっとトミーの沐浴に間に合う時間に帰ってきた。ロイスは科学的原理に基づいたバスタブから手を引き抜いて、濡れた手でカールを指さした。
「トミーちゃん、あの人だあれ? あの大きな人はだあれ? トミーちゃん、あの人はだれかしら」
「この子にはぼくがわからないだろうな」とカールは言ったが、楽しそうだった。
「パパよ。あれがあなたのパパなのよ、トミーちゃん」
「わかりっこないさ」
「トミーちゃん、トミーちゃん、ママの指の先をよおく見て。あれがパパよ。あの大きな人よ。パパですよ」
その秋、ロイスの父親が娘にミンクのコートを買ってやったので、七十四丁目と五番街界隈に住んでいる人なら、木曜日にはいつもミンクのコートを着たロイスが、大きな黒い乳母車を押して、五番街を渡ってセントラルパークに入っていくのを見たはずだ。
やがて、結局のところ彼女はやってのけたのだった。ロイスがやりとげたとき、みんなそのことに気がついたらしかった。肉屋はロイスに一番いい肉を切ってくれた。タクシーの運転手は、自分の子供たちの百日咳について教えてくれた。メイドのバーサは、ぞうきんではなく、濡れたぞうきんで掃除をするようになった。気の毒なクッキー・ベンソンは、酔っぱらって泣き上戸になると〈ストーク・クラブ〉から電話をかけてよこすようになった。女たちは、ロイスの服ではなくロイスの顔を、じっと見つめるようになった。劇場のボックス席に坐った男たちは、下にいる観客の女たちの中からロイスを探し出そうとした。オペラグラスを当てるロイスの仕草を見るのが好き、という以上の理由はなかったのかもしれないが。
そうなったのは、幼いトーマス・タゲット・カーフマンが眠っている最中、変なふうに寝返りを打ったせいで、毛足の長い毛布が彼の短い命を奪ってしまってから、六ヶ月が過ぎたときだった。
ある晩、ロイスが愛していない男が、椅子に坐って絨毯の模様を見つめていた。ロイスは半時間近く、寝室から窓の外を眺めたあと、ちょうどその部屋に入ってきたところだった。カールの向かいに腰を下ろす。これほど彼の顔が、愚かしく、醜く見えたことはなかった。けれども、ロイスには彼に言わなければならないことがあった。そうして、不意にその言葉は口にされた。
「白い靴下をはいていいのよ、もういいの」ロイスは言った。「白い靴下をはいてちょうだい」
The End
(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)