二月か三月ぐらいから、近所でホームレスとおぼしい男性を見かけるようになった。
大きな荷物を抱え、いかにも目的があって、そこに向かっている、という歩き方で、まっすぐ前を見て大股で歩いているのだが、垢じみた黒光りする顔や、すりきれた服、穴の空いた靴、なによりもあたりにまきちらしている臭いなどのすべてが、彼が何と呼ばれる人かを雄弁に物語っている。
あんなにも早足で、いったいどこに向かっているのだろう。そういう歩き方さえしていれば、人は彼を駅へ急ぐ勤め人とでも思ってくれるのではないか、と考えているのかもしれなかった。
いまはわたしが住んでいる地域では、駅に横になっている人を見ることはないし、公園に住んでいる人もいない。遊歩道のベンチで寝泊まりしている人もいないし、歩道橋の下の段ボールの囲いももう見ることはなくなった。そのような境遇の人は減ったのだろうか。それとも、どこかへ追いやられているだけなのだろうか。わたしはよくわからない。
わたしが子供の頃は、身近なところで家のない人を見たことがなかった。初めて新宿駅につづく地下街で段ボールを敷いて寝転がっている人を見たときはぎょっとした。戦後間もないころの小説の中でしか見たことのない人が、現実にいたのだった。
当時はそういう人たちを、表立ってではなく、影へ回ってだと思うが、「浮浪者」と呼んでいたように思う。大学に入ったころ、河原町界隈を歩いている人を「レゲエのおじさん」と呼んでいるのを聞いた。と思ったら、いつのまにかそのちょっと揶揄したような言い方が、市民権を得たようになった。ほどなくその「レゲエのおじさん」の持っていた親しみは、「ホームレス」という、無機質で抽象化された言葉に取って代わられるようになる。
ときどき、家というのはどんなところだろうと思う。
昔といまとでは、家という場所の性格も、ずいぶん変わってしまった。かつて家は、体を休める場所、集まって食べる場所だけではなく、働く場所でもあり、生まれ、育ち、死ぬ場所でもあった。
だが、時代が下っても、しばらくは家族が集まって暮らす場所であり続けたのだ。
それがここ十数年のあいだに、単身世帯が大幅に増加するようになった。「団らん」という言葉は、家から消えようとしているのかもしれない。「家」という言葉が指すのは、「住居」であって、「家庭」という言葉も消滅しかかっているのかもしれない。
それでも家は単に寝るときの雨露をしのぐ、というだけの場所ではない。扉を閉ざすことによって、外部から身を守る。逆に、家によって守られることで、その内側にいれば、まったくの無防備になることができるのだ。守られ、疲労から回復し、その中で火をおこし、暖まり、飲物や食べ物を用意する、それが家だ。
そうして、自分の家には、自分の「物」がある。自分の本、自分のCD、自分の写真、自分の服、数々の「自分がこれまで何をしてきたか」「自分が誰であるか」を物語る物たち。家というのは、単にその場所を所有するということではなく、そこに住まうことによって、明日も生きていくことが約束されるような場所なのである。
その家を持たない人がいる、というのは、胸が痛む話だ。
胸が痛むから、見ないようにしているのか。臭いを嗅がなくてすむように迂回して、ひとりの人ではなく「ホームレス」と抽象化して。
その人が、顔を昂然と上げ、いかにも目的を持っているかのように歩いているのも、家の壁の代わりに、プライドという壁を作って、自分を守ろうとしているのかもしれない。
大きな荷物を抱え、いかにも目的があって、そこに向かっている、という歩き方で、まっすぐ前を見て大股で歩いているのだが、垢じみた黒光りする顔や、すりきれた服、穴の空いた靴、なによりもあたりにまきちらしている臭いなどのすべてが、彼が何と呼ばれる人かを雄弁に物語っている。
あんなにも早足で、いったいどこに向かっているのだろう。そういう歩き方さえしていれば、人は彼を駅へ急ぐ勤め人とでも思ってくれるのではないか、と考えているのかもしれなかった。
いまはわたしが住んでいる地域では、駅に横になっている人を見ることはないし、公園に住んでいる人もいない。遊歩道のベンチで寝泊まりしている人もいないし、歩道橋の下の段ボールの囲いももう見ることはなくなった。そのような境遇の人は減ったのだろうか。それとも、どこかへ追いやられているだけなのだろうか。わたしはよくわからない。
わたしが子供の頃は、身近なところで家のない人を見たことがなかった。初めて新宿駅につづく地下街で段ボールを敷いて寝転がっている人を見たときはぎょっとした。戦後間もないころの小説の中でしか見たことのない人が、現実にいたのだった。
当時はそういう人たちを、表立ってではなく、影へ回ってだと思うが、「浮浪者」と呼んでいたように思う。大学に入ったころ、河原町界隈を歩いている人を「レゲエのおじさん」と呼んでいるのを聞いた。と思ったら、いつのまにかそのちょっと揶揄したような言い方が、市民権を得たようになった。ほどなくその「レゲエのおじさん」の持っていた親しみは、「ホームレス」という、無機質で抽象化された言葉に取って代わられるようになる。
ときどき、家というのはどんなところだろうと思う。
昔といまとでは、家という場所の性格も、ずいぶん変わってしまった。かつて家は、体を休める場所、集まって食べる場所だけではなく、働く場所でもあり、生まれ、育ち、死ぬ場所でもあった。
だが、時代が下っても、しばらくは家族が集まって暮らす場所であり続けたのだ。
それがここ十数年のあいだに、単身世帯が大幅に増加するようになった。「団らん」という言葉は、家から消えようとしているのかもしれない。「家」という言葉が指すのは、「住居」であって、「家庭」という言葉も消滅しかかっているのかもしれない。
それでも家は単に寝るときの雨露をしのぐ、というだけの場所ではない。扉を閉ざすことによって、外部から身を守る。逆に、家によって守られることで、その内側にいれば、まったくの無防備になることができるのだ。守られ、疲労から回復し、その中で火をおこし、暖まり、飲物や食べ物を用意する、それが家だ。
そうして、自分の家には、自分の「物」がある。自分の本、自分のCD、自分の写真、自分の服、数々の「自分がこれまで何をしてきたか」「自分が誰であるか」を物語る物たち。家というのは、単にその場所を所有するということではなく、そこに住まうことによって、明日も生きていくことが約束されるような場所なのである。
その家を持たない人がいる、というのは、胸が痛む話だ。
胸が痛むから、見ないようにしているのか。臭いを嗅がなくてすむように迂回して、ひとりの人ではなく「ホームレス」と抽象化して。
その人が、顔を昂然と上げ、いかにも目的を持っているかのように歩いているのも、家の壁の代わりに、プライドという壁を作って、自分を守ろうとしているのかもしれない。