このあいだ訳した『ロイス・タゲットの長いデビュー』の中に、財産目当てで結婚した男が、ロイスの無防備な寝顔を見て、恋に落ちるという場面がある。ロイスの無防備な顔に恋をした、というより、生まれて初めて女性の無防備な寝顔を朝の光で見て、恋に落ちたわけだ。そういえば、ハンバーガーにかぶりつくときの顔を見て、それまで何とも感じたことのない相手だったのに、急に意識するようになってしまったという話を聞いたことがある。つまり、ここでのポイントは「意外性」ということだ。ふだんふざけてばかりいる人が見せた真剣な顔に胸がドキドキした、などという系統の話なら、枚挙にいとまがないだろう。
もちろん逆のパターンもあって、ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」という歌では、高校生の男の子が同棲、というか、転がり込んでいる年上の(母親の年ほどの)女性の寝顔を朝の光で見て、彼女の年齢をはっきり意識してしまい、家へ帰って学校へ戻ろうか、と考える。
こう考えていくと、意外性だけとも言えなくなるような気がしてくる。
起きているときなら、お化粧もするし、何よりもさまざまな表情を浮かべている。対面する相手は、その表情の意味を読み取るのに忙しい。そのおかげで「顔」そのものを見ることもない。無防備な相手の寝顔は、その人の「顔」そのものをむきだしにしているのかもしれない。
ところが自分の無防備な顔となると、わたしたちはそれがどんなものなのか、知らないのである。
鏡の中をのぞきこむとき、わたしたちは「こう見てほしい」という顔をしている。決して無防備な顔に「なる」ことはできない。意識して、ぼーっとしてみよう、ゆるんだ顔をしてみよう、と表情を変えてみても、それは単に表情を作っているだけで、本物の「無防備さ」とは縁もゆかりもないものだ。ロイスにせよ、マギー・メイにせよ、自分が浮かべている表情がどんなものか見ることができたら、きっと上掛けをかぶせてしまいたくになるにちがいないだろう。
誰かが恋に落ちるかもしれないし、逆に愛想をつかされるきっかけになるかもしれない自分の「顔」がどんなものか、わたしたちには決して知ることがない。ほかの人がまず最初に見る自分の部分なのに。
たまに三面鏡などを使って、自分の横顔を見て驚くことがある。自分を横から見たら、こんなふうになるのだろうか。自分はこんな横顔なのか。
正面から見たにしても、鏡の中の顔は、左右が逆なのだ。ほくろや髪の分け目だけではなく、目の形でも左右対称ではないし。わたしたちが鏡の自分の姿に違和感を覚えないのは、ほんとうの顔を知らないから、というだけのことではないのだろうか。
写真にしても、かならずしも正確な姿を映し出すものではないことは、ほかの人の例でも明らかだ。
わたしたちは「自分の顔」を知らない。
こんなことを言うのも、先日図書館に行ったとき、予約の棚に『人は見た目が9割』という本がたくさん並んでいたのを見たのだ。ずいぶん人気のある本のようで、同じ本が7~8冊も並んでいる。いったい何が書いてあるかあまり知りたいという気持ちも起こってこないのだが、おそらく「人は見た目が9割だから、身だしなみに気をつけましょう」といったことが書いてあるのではないか(ちがってたらごめんなさい)。
けれど、自分の「見た目」がいったいどんなものか、わたしたちは決してそれを知ることはできないのではあるまいか。身だしなみにどれだけ気をつけても、それが「どう見えるか」をわたしたちは「見る」ことはできないのだ。ましてそれを見た人が「どう感じるか」ともなると、なおさらである。知らないものを、いったいどう調整することができるのだろう。こう見て欲しい、と演出したところで、相手がそうは見てくれるかどうか、いったいどうやって知るのだろう。
確かに、わたしたちはほかの人と知り合うとき、まず相手の「顔」と向きあう。「見た目が9割」を意識して、演出した顔。こう読み取って欲しいという表情を浮かべた顔。けれども、ほんの一瞬浮かべる無防備な顔は、「顔」そのものを浮かび上がらせるのではないだろうか。そんな「顔」そのものは、どんな演出より強烈に、わたしたち「そのもの」を浮かび上がらせてしまうのではないか。
もちろん逆のパターンもあって、ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」という歌では、高校生の男の子が同棲、というか、転がり込んでいる年上の(母親の年ほどの)女性の寝顔を朝の光で見て、彼女の年齢をはっきり意識してしまい、家へ帰って学校へ戻ろうか、と考える。
こう考えていくと、意外性だけとも言えなくなるような気がしてくる。
起きているときなら、お化粧もするし、何よりもさまざまな表情を浮かべている。対面する相手は、その表情の意味を読み取るのに忙しい。そのおかげで「顔」そのものを見ることもない。無防備な相手の寝顔は、その人の「顔」そのものをむきだしにしているのかもしれない。
ところが自分の無防備な顔となると、わたしたちはそれがどんなものなのか、知らないのである。
鏡の中をのぞきこむとき、わたしたちは「こう見てほしい」という顔をしている。決して無防備な顔に「なる」ことはできない。意識して、ぼーっとしてみよう、ゆるんだ顔をしてみよう、と表情を変えてみても、それは単に表情を作っているだけで、本物の「無防備さ」とは縁もゆかりもないものだ。ロイスにせよ、マギー・メイにせよ、自分が浮かべている表情がどんなものか見ることができたら、きっと上掛けをかぶせてしまいたくになるにちがいないだろう。
誰かが恋に落ちるかもしれないし、逆に愛想をつかされるきっかけになるかもしれない自分の「顔」がどんなものか、わたしたちには決して知ることがない。ほかの人がまず最初に見る自分の部分なのに。
たまに三面鏡などを使って、自分の横顔を見て驚くことがある。自分を横から見たら、こんなふうになるのだろうか。自分はこんな横顔なのか。
正面から見たにしても、鏡の中の顔は、左右が逆なのだ。ほくろや髪の分け目だけではなく、目の形でも左右対称ではないし。わたしたちが鏡の自分の姿に違和感を覚えないのは、ほんとうの顔を知らないから、というだけのことではないのだろうか。
写真にしても、かならずしも正確な姿を映し出すものではないことは、ほかの人の例でも明らかだ。
わたしたちは「自分の顔」を知らない。
こんなことを言うのも、先日図書館に行ったとき、予約の棚に『人は見た目が9割』という本がたくさん並んでいたのを見たのだ。ずいぶん人気のある本のようで、同じ本が7~8冊も並んでいる。いったい何が書いてあるかあまり知りたいという気持ちも起こってこないのだが、おそらく「人は見た目が9割だから、身だしなみに気をつけましょう」といったことが書いてあるのではないか(ちがってたらごめんなさい)。
けれど、自分の「見た目」がいったいどんなものか、わたしたちは決してそれを知ることはできないのではあるまいか。身だしなみにどれだけ気をつけても、それが「どう見えるか」をわたしたちは「見る」ことはできないのだ。ましてそれを見た人が「どう感じるか」ともなると、なおさらである。知らないものを、いったいどう調整することができるのだろう。こう見て欲しい、と演出したところで、相手がそうは見てくれるかどうか、いったいどうやって知るのだろう。
確かに、わたしたちはほかの人と知り合うとき、まず相手の「顔」と向きあう。「見た目が9割」を意識して、演出した顔。こう読み取って欲しいという表情を浮かべた顔。けれども、ほんの一瞬浮かべる無防備な顔は、「顔」そのものを浮かび上がらせるのではないだろうか。そんな「顔」そのものは、どんな演出より強烈に、わたしたち「そのもの」を浮かび上がらせてしまうのではないか。