自転車で走っていたら、ネコが目の前を横切った。あわててブレーキをかけたら、ネコは首だけこちらを向けて、「気をつけろよ」と言った。ほんとうは、いかにもそう言ったような顔をしただけなのだが。
まるで『物いう小箱』の中の話のように。
以前、ここで訳したサキの「トバモリー」もネコがしゃべる話だが、森銑三のネコは、もっとさりげない話なのである。
なんとも味わい深いいい話なので、ぜひ紹介したくなってきた。
短いので全文を引用する。
小泉八雲の『怪談』を愛した森銑三は、八雲風の怪談をいくつも書いた。『物いう小箱』はそんな掌篇を集めたものだが、これはその中でも淡い、花びらがふわりと地面に落ちるような作品である。
その情景が目に浮かぶようで、こんなことがあるわけはないのに、どこかありそうな気がしてくる。ネコは確かにこちらに向かって「ゆっくりとした調子で」話しかけてくるのだ。わたしたちの耳には「にゃー」としか聞こえないのだが。
幻想的な話、というと、現実からかけ離れた話、と考える人が多いのかもしれない。けれども『物いう小箱』を読んでいると、そうではないことがよくわかる。
これは、ネコの人間の顔を見るときの表情や仕草を伝えるための、一番適切な描写なのかもしれない。
まるで『物いう小箱』の中の話のように。
以前、ここで訳したサキの「トバモリー」もネコがしゃべる話だが、森銑三のネコは、もっとさりげない話なのである。
なんとも味わい深いいい話なので、ぜひ紹介したくなってきた。
短いので全文を引用する。
春の日
うららかな春の日に、浅井金弥のお婆さんは、新しい手拭を冠って、庭先の縁台で白魚を選分けていた。後の窓に、家の猫がうずくまって、お婆さんの手元を見下していた。ぶざまなほど大きい、年の行った男猫だった。
お婆さんは選分けに余念がない。
猫は睡そうな目付でそれを見ていたが、少ししてから、ゆっくりした調子で、
「ばばさん。それを、おれに食わしゃ」といった。
おばあさんは、猫の言葉を聞いても、振向こうともしなかった。仕事の手も休めずに、子供でも叱るような口調でたしなめていった。
「おぬしは何をいうぞ。まだ旦那どんも食わしゃらぬに」
猫は微かに苦笑したようだった。そして、仕方がないと諦めたのであろう、物憂そうに目を閉じだ。
僅かに離れてこの様子を見ていた某は、猫とお婆さんとの対話に驚かされた。それで改めて猫を見、お婆さんを見たけれども、どちらにも何の変わった様子もない。暖かな日射が、お婆さんの頭の手拭を照らし、膝の上の白魚を照らし、窓の猫の背中を照らしている。のどかな春の日和である。
今一言何とかいわないかしらと思ったけれども、猫は睡ってしまったらしい。それなり口を利かなかった。
小泉八雲の『怪談』を愛した森銑三は、八雲風の怪談をいくつも書いた。『物いう小箱』はそんな掌篇を集めたものだが、これはその中でも淡い、花びらがふわりと地面に落ちるような作品である。
その情景が目に浮かぶようで、こんなことがあるわけはないのに、どこかありそうな気がしてくる。ネコは確かにこちらに向かって「ゆっくりとした調子で」話しかけてくるのだ。わたしたちの耳には「にゃー」としか聞こえないのだが。
幻想的な話、というと、現実からかけ離れた話、と考える人が多いのかもしれない。けれども『物いう小箱』を読んでいると、そうではないことがよくわかる。
猫は睡そうな目付でそれを見ていたが、少ししてから、ゆっくりした調子で、
「ばばさん。それを、おれに食わしゃ」といった。
これは、ネコの人間の顔を見るときの表情や仕草を伝えるための、一番適切な描写なのかもしれない。