陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

あなたはどんな人

2010-04-16 23:38:29 | weblog
「性格診断」でも「ストレス度チェック」でもいいのだが、あの手の質問を見ていると、わたしはいつも猛烈にアヤシイ気持ちになってしまう。

たとえばあなたは
「結果が悪いととても気になる」とか
「自分自身に厳しく、なんでもきちんとしなければ気が済まない」
などという質問に、いったいどこまで真剣に答えられますか?

これがストレス度チェックなら、「とても」にマルをつければ、ストレスポイントが1点加算されるだろうし、性格診断なら几帳面ポイントが1点加算されるだろう。
つまりは、わたしたちは質問項目を見たとたん、文字通り何を聞かれているかだけではなく、「この質問が意図することは何なのか」を理解しているからだ。
そうしてわたしたちはその質問の意味を了解した上で、自分の望む方向に――たとえばストレスが溜まっているなあ、と思えばそんな結果が出るように、おおざっぱで楽天的な性格だ、と思っていれば、そんな結果が出るように、かならず答えを誘導しているはずだ。
というのも、この手の質問は、どのような人であっても、どのようにも答えられるからだ。

どれほど几帳面な人であっても、ずぼらな面はかならずあるし、面倒になるときも、やる気が出ないときもある。ふだんグータラと陰口をたたかれるような人でも、自分の集めているフィギュアには、毎日ホコリを払って、整理整頓しているはずだ。自分の「どの面」を選ぶかは、その人次第なのである。

だからこそ、結果を見て「当たった」ということになる。自分でそうやって編集しているのだから、当たり前なのだが。

「尊敬する人物は?」
という質問にしても、現実に自分が尊敬するおびただしい人の中から、「自分をどう見てもらいたいか」に応じてわたしたちはあげる人を選ぶ。

好きな本、好きな音楽、好きな映画、趣味……。「一番好き」なものが決まっているわけではない。そのとき思いつくさまざまな答えをつなぎ合わせて、自分のイメージを作り上げているのだ。

だが、そんな「これがわたしです」というアンケートや質問よりも、仕事の仕上げ具合や、料理や、部屋の掃除の仕方や、人に相対するそのやり方などの方に、よほど「その人」があらわれるものではないのだろうか。

高校生のころ、よく「こんな試験の点数で、自分の一体何がわかるんだ」などと言っていたが、実はおびただしいことがわかるのである。単に「できるかできないか」だけではないのだ。決められた時間で、その人がどれだけ準備をしてきたか。必要な勉強のために、適切な本を選ぶことができたか。手順に沿って思考を積み重ねることができるか。論理を伝える文章が書けるかどうか……。見るべきポイントは枚挙にいとまがない。そうして、それらのすべてが「自分がどんな人間か」を伝えているのである。

「いつもいろいろな可能性をさがしている。」という質問にマルかバツで答えるより、よほど「その人」が現れているのだ。

現に、わたしたちは周囲の人がどんな人か、つきあいに応じて相手を理解しているが、それはかならずしも当人の自分の理解と一致しているわけではない。まして、「わたしは優しい人間なんです」などという「こう見て欲しい」という自分が自分につけた「コピー」を鵜呑みにしてくれている、などとは思わないほうがいいだろう。