陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

なんでそれがわたしではなかったのだろう

2010-04-04 23:12:54 | weblog
中学生のころの話だ。
本屋を出ようとして、わたしの数歩先を、ちょうどわたしと同じくらいの年格好で、よその学校の制服を着た子が歩いていた。その子が自動ドアが開いて店を出た瞬間、わたしをつきとばすような勢いでスーツ姿の男がうしろから走ってきたかと思うと、その子の肘をつかんだ。

それを見た瞬間、その子が何をしたのかわかった。まるで万引きをしたのが自分であったかのように、膝ががくがくし、心臓が停まりそうになった。スーツ姿のおじさんに肩を抱かれるようにして、下を向いて店に戻っていくその子とすれちがいながら、わたしは自分がその子でなくて良かった、と心の底から思っていた。

まったく面識のない子ではあったけれど、ほんのひととき本屋で一緒に過ごしたその子は、もしかしたらわたしだったかもしれなかった。

わたしが万引きをしなかったのは、ただ、そんなふうに捕まって、親や学校に通報されるのが、ただただ怖かっただけかもしれない。本代として、お小遣いを余分にもらっていたから、そんなことをする必要がなかっただけなのかもしれないし、親にどれだけ叱られるかと思うと、それが歯止めになっていただけなのかもしれない。なんにせよ、自分とその子を隔てるわずかな差が、わたしを万引きに向かわせずに、その子にそんなことをさせた。それを考えると、その子がわたしの代わりになってくれたような気がした。

犯人逮捕の報道を見るとき、よくその出来事を思い出す。事件を起こした人と自分を隔てるものは、そこまで歴然としたものだろうか。自分を取り巻く環境が多少恵まれていたり、受けた教育の差だったり、家族や友人や、わたしを支え、助けてくれる人がいたというだけの話で、わたしの力、これまで独力でやったことなしたことが、どれほど関与していることだろう。いくつかの偶然が重なって、わたしはそれをしなくてすんだ。事件を起こした人に比べて、それがそんなに立派なことなのか。わたしにはよくわからない。

それにしても、事件が起こるたびに、犯人のプライヴァシーがこれでもかこれでもかと暴かれる。犯人と被害者が同じ共同体に属する人であれば、被害者までもがあれこれと書きたてられる。

そんな情報が、わたしたちに必要なのだろうか。
事実、わたしたちはそういう情報を求めるのだ。

なぜ自分が住んでいるところとはほぼ無関係の場所で起こった事件であっても、犯人の名前や顔の情報が必要なのだろう。さらには、直接には関係のない両親の氏名や職業までも、暴かれなければならないのだろう。

もちろん、表向きは、そんなことを二度と起こさないため、ということになっている(のではないか?)。けれども、わたしたちの日常に起きるほとんどのできごとは、一回限りのものだ。つぎに同じことが起こる、まして、別の人間のあいだで、ということは、ありえない。仮にある面だけをとりあげて類似の点を取り上げたとしても、それと、その前に起こった出来事は、まったく異なるものだ。

おそらく、事件はわたしたちにふだんは考えて見ることもない「正義」を思い出させてくれるのだろう。ちょうどエイプリル・フール、「嘘をついても良い日」があることによって、改めて「それ以外の日は嘘をついてはいけない=わたしたちは嘘をつくべきではない」ということが思い出されるように。
公式の場で、逸脱した服装をしている人物が、わたしたちにしかるべき場ではしかるべき服装をすることを思い出させてくれるように。

事件を起こす人びとの存在は、わたしたちに社会規範の存在を思い出させてくれる。ふだん、意識しているわけでもないのに、自分が社会規範を遵守しているのだ、ということを思い出させてくれて、良い気持ちになるのだ――本当は何もしているわけではないのに。