陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー「クレメンティーナ」その5.

2010-04-27 22:55:18 | 翻訳
5.

 だが、あれはきっと美しいにちがいない、と楽しみにしているものがあった。これまでに雑誌や新聞で、ニューヨークにそびえる塔の写真を何度も見てきたのだ。どの写真も、尖塔が青空を背景に金色や銀色に輝きながら、戦禍を被ったことのない街にそびえていた。

ところが船がニューヨーク湾に臨むナローズ海峡に入っても、雨の中、塔はどこにも見当たらない。塔はどこにあるんですか、と聞いてみると、雨がふってるから見えないなあ、という返事である。彼女はがっかりした。目に入る新世界は醜く、夢を描いた人びとは誰もみな、裏切られたように感じたことだろう。まるで戦時中のナポリみたい。来るんじゃなかった。

彼女の手荷物を調べた税関は、粗野な男だった。一家はタクシーと汽車を乗り継いで、新世界の首都ワシントンへ向かい、そこからさらにタクシーに乗ったが、窓の外から見えるのは、ローマ帝国時代の建物の模造品のようなビルばかりだった。彼女の目には、もやの向こうにフォロ・ロマーノのまがいものが、夜の明かりを浴びて不気味に浮かび上がっているように映った。タクシーは郊外を走る。そこには真新しい木造住宅が軒を連ね、家に入ると洗面台も浴槽も広々として気持ちよく、朝になるとシニョーラは彼女にさまざまな機械を見せて、その使い方を教えたのだった。



 最初のうち、彼女は洗濯機を疑いの目でながめていた。この代物は、石鹸とお湯をふんだんに使った上に、服を洗うために大騒ぎをやらかす。これとくらべたら、ナスコスタでの洗濯は、どれほど楽しかったことだろう。あの頃は泉で友だちと話をしながら、何もかも新品になったかと思うくらい、きれいに洗ったものだったけど。

だが、そのうちにだんだん洗濯機も悪くないと考えるようになった。結局のところたかが機械なのだし、内部をいっぱいにし、空っぽにし、ぐるぐる回っているだけではないか。そう考えると、機械のくせにずいぶんいろんなことを覚えて、いつもそこで、いますぐ働けますよ、とばかりに待ちかまえているところは、たいしたものだ。なんと皿を洗う機械まである。これがあればイヴニング・ドレスを着たまま、手袋に一滴の水も垂らすことなく、食器をきれいにすることができるじゃないか。

シニョーラが出かけてしまい、男の子たちも学校へ行くと、まず最初に彼女は汚れた服を洗濯機に入れてスタートさせた。それから汚れた食器を別の機械に入れて、それもスタートさせる。そのつぎに、すてきなローマ風サルティンボッカを電気フライパンに入れて、それもスタートボタンを押す。そうして自分は居間のテレビの前に腰をおろし、まわりで機械が仕事をする音に耳を傾けるのだ。その音を聞いていると気分は爽快になってくるし、自分がえらくなったような気もした。台所には冷蔵庫があって、中では氷を作ったり、バターを石と同じくらい硬くしたりしている。深い冷凍庫は、ラムや牛肉を、直後の新鮮さのまま保つのだ。そのほかにも、電動泡立て器や、オレンジを搾る機械、電気掃除機もあった。それを全部、一度に働かせることもできるし、トーストを焼く機械――全面、銀色に輝いている――にパンを入れて、それに背を向ければ、さて、そこには二枚のトーストが、お好みの色で焼けている。それもすべて機械がやってくれるのだから。




(この項つづく)