ここのところ、頼まれた翻訳にかかりきりになっていたので、こちらまで手が回らなかった。よく働きました。
やっと終わったので、また再開します。
* * *
新年度ということで、いろんなところで自己紹介をしたり、人の自己紹介を聞いたりしたのだが、そんなときに血液型をいう人がいた。緊急事態で輸血が必要になったときのため……ではなく、血液型をいうことで、「自分はどんな人」ということを説明しようとしているのだろう。
いわゆる「血液型占い」が当たっていると考える人、というより、そもそも「血液型」や「星座」が何らかの情報として意味があると考える人は、人間の「性格」と「行動」というのは、「原因」と「結果」の関係であると考えているのだろう。
「優しい」から「電車の中で高齢者に席をゆずる」
「几帳面」だから、部屋の中は整理整頓が行き届いている
……というふうに。
だが、こうした考え方は、大きな誤解があるように思える。
たとえば、もし人間が、その人の血液だか「心」だか「脳」だかに含まれている「独創的」という成分が、その人の行動の舵を取って、独創的にさせている、という仕組みになっているのなら、その人の「性格」を知ること、もしくはその目安となる「B型」であるとか「牡羊座」であるとか「丑年生まれ」であるとか「一白金星」であるとかは情報だろう。
だが、「独創的」などというのは、どこまでいっても単なる「言葉」でしかない。
「独創的」というのは、行動や思考に現れたときに初めて言える評価で、「独創的」なるものがあらかじめあるわけではない。逆に、「独創的」という言葉があるからこそ、わたしたちはある種の行動や、表現を「独創的」と理解するのだ。
「優しい」「親切」「意地悪」「知的」……
性格を形容する言葉は、さまざまにあるけれど、いずれもそれは言葉に過ぎない。そうした言葉がわたしたちを行動に向かわせるのではない。そうではなくて、わたしたちはその人の行動をとらえて、そうした言葉で評価するのだ。
もちろん人の行動や思考には、おおざっぱな傾向というか癖というか、言ってみればその人独特の「ゆがみ」がある。生まれつきの要素もあれば、育った環境や、親の影響もあるだろう。ひとりひとり、いろんな具合にゆがんでいるのを、わたしたちは「性格」と呼んでいるのだ。
性格という何かがあらかじめあるものではない。わたしたちは自分や人の考え方や行動の共通点を見出すことで、そのゆがみ具合を知る。
わたしはプレッシャーに弱いから、本番で失敗しないように、しっかり準備をしておこう、とか、なんで自分はいつも焦って失敗してしまうんだろう、とかいうふうに。
「性格」という言葉があるおかげで、わたしたちはつい、ある特定の性質が人に特定の行動を取らせてしまう、と考える。けれども血液にそういう成分があるからでもないし、生まれた日の星の並び方とも関係はない。そんな特定の性質など、どこにもないのだ。
行動がその人の人格といってもいい。
「性格」が原因で「行動」が結果……というのは、原因と結果を取り違えている。
そうではなくて、わたしたちは自分やほかの人の行動を見て、そこから共通する「質」を類推しているだけだ。「行動」こそ、そんな類推の「原因」なのである。
まあ、もっとも「わたしはワガママだから」と言って、好き勝手に振る舞う人は、もしかしたらそのことをわかっているのかもしれないが。
やっと終わったので、また再開します。
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新年度ということで、いろんなところで自己紹介をしたり、人の自己紹介を聞いたりしたのだが、そんなときに血液型をいう人がいた。緊急事態で輸血が必要になったときのため……ではなく、血液型をいうことで、「自分はどんな人」ということを説明しようとしているのだろう。
いわゆる「血液型占い」が当たっていると考える人、というより、そもそも「血液型」や「星座」が何らかの情報として意味があると考える人は、人間の「性格」と「行動」というのは、「原因」と「結果」の関係であると考えているのだろう。
「優しい」から「電車の中で高齢者に席をゆずる」
「几帳面」だから、部屋の中は整理整頓が行き届いている
……というふうに。
だが、こうした考え方は、大きな誤解があるように思える。
たとえば、もし人間が、その人の血液だか「心」だか「脳」だかに含まれている「独創的」という成分が、その人の行動の舵を取って、独創的にさせている、という仕組みになっているのなら、その人の「性格」を知ること、もしくはその目安となる「B型」であるとか「牡羊座」であるとか「丑年生まれ」であるとか「一白金星」であるとかは情報だろう。
だが、「独創的」などというのは、どこまでいっても単なる「言葉」でしかない。
「独創的」というのは、行動や思考に現れたときに初めて言える評価で、「独創的」なるものがあらかじめあるわけではない。逆に、「独創的」という言葉があるからこそ、わたしたちはある種の行動や、表現を「独創的」と理解するのだ。
「優しい」「親切」「意地悪」「知的」……
性格を形容する言葉は、さまざまにあるけれど、いずれもそれは言葉に過ぎない。そうした言葉がわたしたちを行動に向かわせるのではない。そうではなくて、わたしたちはその人の行動をとらえて、そうした言葉で評価するのだ。
もちろん人の行動や思考には、おおざっぱな傾向というか癖というか、言ってみればその人独特の「ゆがみ」がある。生まれつきの要素もあれば、育った環境や、親の影響もあるだろう。ひとりひとり、いろんな具合にゆがんでいるのを、わたしたちは「性格」と呼んでいるのだ。
性格という何かがあらかじめあるものではない。わたしたちは自分や人の考え方や行動の共通点を見出すことで、そのゆがみ具合を知る。
わたしはプレッシャーに弱いから、本番で失敗しないように、しっかり準備をしておこう、とか、なんで自分はいつも焦って失敗してしまうんだろう、とかいうふうに。
「性格」という言葉があるおかげで、わたしたちはつい、ある特定の性質が人に特定の行動を取らせてしまう、と考える。けれども血液にそういう成分があるからでもないし、生まれた日の星の並び方とも関係はない。そんな特定の性質など、どこにもないのだ。
行動がその人の人格といってもいい。
「性格」が原因で「行動」が結果……というのは、原因と結果を取り違えている。
そうではなくて、わたしたちは自分やほかの人の行動を見て、そこから共通する「質」を類推しているだけだ。「行動」こそ、そんな類推の「原因」なのである。
まあ、もっとも「わたしはワガママだから」と言って、好き勝手に振る舞う人は、もしかしたらそのことをわかっているのかもしれないが。