昨日、「レッド・ヘリング」の話を書いたあと、そういえばこんな話があったなあ、と思い出した。ラフカディオ・ハーン、というか、小泉八雲の短篇の「はかりごと」である。
青空文庫には入っていないので、ここで簡単にあらすじだけを書いておく。
ある人物が屋敷の庭で首を斬られることになった。その人物は、「自分は生まれつき非常に愚かで、その愚かさゆえに、何をやってもうまくできるということがなかった。今度の失敗(※作品の中で手打ちにされる理由はあきらかにされていない)も、自分が意図したものではなく、単に愚かだったせいだ。愚かな人間を手打ちにするというのは、誤っている。首を斬るような真似をすれば、オレはかならず化けて出てやるからな」と言う。
こんなことを言う男が、果たしてほんとうに頭が悪いものかどうか、疑問の余地のあるところだが、以降の展開を見ると、もしかすると実際、頭が悪かったのかも知れない。
ともかく、彼の怒りの形相のすさまじさに、家中の者は恐れおののくのだが、主人はちがう。「ほんとうに化けて出るというのなら、その証拠に、斬られて落ちた首で、庭石に噛みついてみろ」と言うのである。
「よし、やってみろ」と罪人は言い、首が落とされる。と思うと、地面に落ちた首はごろごろと転がっていき、庭石に噛みついた。
それを見た一同は、幽霊の報復を怖れて震え上がった。ところが主人は少しも怖れる様子はなく、冷静に「心配ない」という。あのまま死なせていたら、もしかしたら化けて出たかも知れないが、あの男は庭石に噛みつくことだけを考えて死んだのだ。化けて出ることなんて忘れてしまったにちがいない」
結局、その言葉通り、何も起こらなかった、というところでこの話は終わる。
つまり「庭石に噛みつく」という「レッド・ヘリング」に、この男はまんまと引っかかったのである。
だが、わたしがこの主人の家臣であれば、はたしてこの主人の言葉に説得されるだろうか、という気はする。だってものすごい形相で、首だけになって転がって石にかじりついたのですよ。文字通り、石にかじりつく執念で、化けてでるくらい朝飯前……なのではあるまいか。
主人が言っているのは要するに、水が気体になるときのように、人間が幽霊になるときに必要なエネルギー量というものがあって、彼はそのエネルギーを石にかみつくことによって使い果たした、ゆえにもはや幽霊になるエネルギーは残っていない、ということだろう。だが、一種の質量保存の法則みたいなものが人間と幽霊のあいだに働いているのなら、確かに大丈夫、と言えるが、人間と幽霊というのは、液体が気体になるようなものなのだろうか。どうでもいいけれど、この「質量保存の法則」を見つけだしたラヴォアジェ、この人は確かギロチンで首を斬られていたはずだ。
実際の話、首を斬られた人はどのくらいのあいだ意識があるものだろうか。そうして、その意識があるのは、頭の側なのか、体の側なのか。よく首を切り落としたニワトリが走る、という話を聞くが、あれは一種の不随意運動なのだろうか。
ここで思い出すのがビアスの「アウル・クリーク橋でのできごと」である(以下、作品の肝にあたる部分のネタばれをしますので、読んだことのない人は、ぜひぜひリンク先をどうぞ)。
ここでは主人公の首にロープがまきついてから、こときれるまでの、時間にすればものの一分もないあいだに、人間がいったいどれほどのことを考えるかが描かれている。
確かに人間は文字通り一瞬のあいだに壮大なストーリィを思い描くことが可能らしい。わたしたちは、目覚ましが鳴る音がオチになるような夢を見て、実際に目覚ましの音で目を覚ましてから、いったいどうしてそんな夢を見たのだろうと首をひねるが、あれは実際に目覚ましの音を聞いてから、そんな夢を見ているものらしい。睡眠中に目覚ましの音に気がついてから覚醒するまでの一瞬のあいだに、ことによったら数年分のストーリィを持つ夢を見ることができるらしい。というか、もう少し正確にいえば、ストーリィというのは、時間軸に沿って組み立てられたものなのだが、目が覚めたわたしたちが、時間軸を持たない、骨を抜かれた凧のような夢の塊を、半ば無意識のうちに時間軸に沿って組み立てているものらしい。
意識の状態にあるわたしたちの考えというのは、かならず、始め―中―終わりや前と後ろ、先とそのあとといった時間軸によって組み立てられたものである。けれども意識の前の段階にあるそれは、ぐにゃぐにゃで折り重なり錯綜したもの、だからこそ、時間軸になおせば一生の出来事が、コーリャンを煮る時間にも満たないあいだに経験してしまえるのだ。
だから、首を斬られた男が、薄れゆく意識の中で、いったいどれだけのことを考えることができるか。これまでの人生が走馬燈のように、という言い方があるが、その走馬燈に浮かび上がる映像を、時間軸に沿って組立てなおせば、『戦争と平和』も真っ青になるほどの大長編にもなるかもしれない。
自由にまかせば、水の中で泳ぎ、森を抜け、家へ帰るほどのことを考えることができるのに、「石に噛みついてみせろ」と言った主人のおかげで、くだんの罪人は、ただひたすら石に噛みつくことだけを考えて、こときれるのだ。なんというか、その主人、罪なことをしたものだなあ、という気がする。
だが、仮に、幽霊になってやる、この恨みはらさずおくべきか、化けてでてやる……という執念が、人を幽霊にするものであるとしても、いまわの際にこれほどのことを考えることができる人間なのだから、そんなことぐらい石に噛みつきながらでも十分に可能なような気がするのだが、どうだろうか。
青空文庫には入っていないので、ここで簡単にあらすじだけを書いておく。
ある人物が屋敷の庭で首を斬られることになった。その人物は、「自分は生まれつき非常に愚かで、その愚かさゆえに、何をやってもうまくできるということがなかった。今度の失敗(※作品の中で手打ちにされる理由はあきらかにされていない)も、自分が意図したものではなく、単に愚かだったせいだ。愚かな人間を手打ちにするというのは、誤っている。首を斬るような真似をすれば、オレはかならず化けて出てやるからな」と言う。
こんなことを言う男が、果たしてほんとうに頭が悪いものかどうか、疑問の余地のあるところだが、以降の展開を見ると、もしかすると実際、頭が悪かったのかも知れない。
ともかく、彼の怒りの形相のすさまじさに、家中の者は恐れおののくのだが、主人はちがう。「ほんとうに化けて出るというのなら、その証拠に、斬られて落ちた首で、庭石に噛みついてみろ」と言うのである。
「よし、やってみろ」と罪人は言い、首が落とされる。と思うと、地面に落ちた首はごろごろと転がっていき、庭石に噛みついた。
それを見た一同は、幽霊の報復を怖れて震え上がった。ところが主人は少しも怖れる様子はなく、冷静に「心配ない」という。あのまま死なせていたら、もしかしたら化けて出たかも知れないが、あの男は庭石に噛みつくことだけを考えて死んだのだ。化けて出ることなんて忘れてしまったにちがいない」
結局、その言葉通り、何も起こらなかった、というところでこの話は終わる。
つまり「庭石に噛みつく」という「レッド・ヘリング」に、この男はまんまと引っかかったのである。
だが、わたしがこの主人の家臣であれば、はたしてこの主人の言葉に説得されるだろうか、という気はする。だってものすごい形相で、首だけになって転がって石にかじりついたのですよ。文字通り、石にかじりつく執念で、化けてでるくらい朝飯前……なのではあるまいか。
主人が言っているのは要するに、水が気体になるときのように、人間が幽霊になるときに必要なエネルギー量というものがあって、彼はそのエネルギーを石にかみつくことによって使い果たした、ゆえにもはや幽霊になるエネルギーは残っていない、ということだろう。だが、一種の質量保存の法則みたいなものが人間と幽霊のあいだに働いているのなら、確かに大丈夫、と言えるが、人間と幽霊というのは、液体が気体になるようなものなのだろうか。どうでもいいけれど、この「質量保存の法則」を見つけだしたラヴォアジェ、この人は確かギロチンで首を斬られていたはずだ。
実際の話、首を斬られた人はどのくらいのあいだ意識があるものだろうか。そうして、その意識があるのは、頭の側なのか、体の側なのか。よく首を切り落としたニワトリが走る、という話を聞くが、あれは一種の不随意運動なのだろうか。
ここで思い出すのがビアスの「アウル・クリーク橋でのできごと」である(以下、作品の肝にあたる部分のネタばれをしますので、読んだことのない人は、ぜひぜひリンク先をどうぞ)。
ここでは主人公の首にロープがまきついてから、こときれるまでの、時間にすればものの一分もないあいだに、人間がいったいどれほどのことを考えるかが描かれている。
確かに人間は文字通り一瞬のあいだに壮大なストーリィを思い描くことが可能らしい。わたしたちは、目覚ましが鳴る音がオチになるような夢を見て、実際に目覚ましの音で目を覚ましてから、いったいどうしてそんな夢を見たのだろうと首をひねるが、あれは実際に目覚ましの音を聞いてから、そんな夢を見ているものらしい。睡眠中に目覚ましの音に気がついてから覚醒するまでの一瞬のあいだに、ことによったら数年分のストーリィを持つ夢を見ることができるらしい。というか、もう少し正確にいえば、ストーリィというのは、時間軸に沿って組み立てられたものなのだが、目が覚めたわたしたちが、時間軸を持たない、骨を抜かれた凧のような夢の塊を、半ば無意識のうちに時間軸に沿って組み立てているものらしい。
意識の状態にあるわたしたちの考えというのは、かならず、始め―中―終わりや前と後ろ、先とそのあとといった時間軸によって組み立てられたものである。けれども意識の前の段階にあるそれは、ぐにゃぐにゃで折り重なり錯綜したもの、だからこそ、時間軸になおせば一生の出来事が、コーリャンを煮る時間にも満たないあいだに経験してしまえるのだ。
だから、首を斬られた男が、薄れゆく意識の中で、いったいどれだけのことを考えることができるか。これまでの人生が走馬燈のように、という言い方があるが、その走馬燈に浮かび上がる映像を、時間軸に沿って組立てなおせば、『戦争と平和』も真っ青になるほどの大長編にもなるかもしれない。
自由にまかせば、水の中で泳ぎ、森を抜け、家へ帰るほどのことを考えることができるのに、「石に噛みついてみせろ」と言った主人のおかげで、くだんの罪人は、ただひたすら石に噛みつくことだけを考えて、こときれるのだ。なんというか、その主人、罪なことをしたものだなあ、という気がする。
だが、仮に、幽霊になってやる、この恨みはらさずおくべきか、化けてでてやる……という執念が、人を幽霊にするものであるとしても、いまわの際にこれほどのことを考えることができる人間なのだから、そんなことぐらい石に噛みつきながらでも十分に可能なような気がするのだが、どうだろうか。